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side: Furuya
警察庁・警備局警備企画課──。
都心の中心にあるこの組織の一角は、表向きは他部署と変わらぬ静けさを保っていた。けれどその内側では、絶えず情報が循環し、密やかな緊張が満ちている。
貼り出された都内の地図と関連施設の図面。その中心で、長机に広げられた資料を前に、僕は風見の報告を受けていた。
「降谷さん、この人物、過去の渡航歴に少し気になる動きがありました。去年の秋、一度だけ香港に──」
風見が差し出したタブレットの画面に目を落としながら頷く。
「……ああ、時期的に例の案件と重なるな。帰国後の動きも洗ってくれ。あと外事課とも連携を」
「承知しました」
静かに受け取る風見の声。その背筋の伸び方や声色には、彼なりの緊張感と信頼が滲んでいる。
いつも通りの業務、いつも通りの日常。だが――そのいつも通りに、ふと小さな綻びが入り込む。
──もう、二週間になるか。手元の書類に目を落としたまま、思考は別の場所へと緩やかに逸れていた。
彼女と最後に顔を合わせたのは、病院の中庭だった。まだ暑さの残る夕方、光に包まれた彼女の横顔と、風に揺れる髪の匂い。しかし、その表情の奥に、どこか
──彼女という存在が、あの非常識なかたちで僕の前に現れてから、人生は一変した。
本来なら混乱してもおかしくないはずの事実を、僕は意外なほどすんなりと受け入れていた。……いや、受け入れられてしまった、という方が正確だろうか。
懐かしさと共に、触れた指先の温度や、言葉の選び方、呼吸の間合い──そういうすべてが、どこかで知っているものだった。
だからなのか、彼女が何を考えているかは、意外なほど分かりやすい。たとえ言葉を尽くさずとも、目線の動きや沈黙の長さひとつで、気持ちの流れが手に取るように読み取れてしまう。
突然、空から降ってきたように現れて。それなのに、いつの間にかここまで来てしまった。ふと振り返れば、2つの世界を行き来するような日々が、もうすっかり当たり前になっている。
おかしいとは思わなかった。むしろ、なぜこんなにも自然なのかと、自分でも不思議になるほどだった。
机の上の別の資料に手を伸ばし、軽く背もたれに身を預けたとき、ふと指先に意識が向いた。視線を落とすと、左手の薬指に馴染む細いリングが、蛍光灯の光を静かに返している。
――彼女が、描いてくれたものだ。存在しなかったはずの物質が、まるで初めからここにあったかのように、自然に指に収まっている。違和感など最初からなかった。任務中はさすがに外しているが、それでも、できる限り肌身離さず身につけるようにしている。あまり目立たないデザインを選んだのも、過去の自分なりの配慮だったのだろう。
最初に風見がこれを見たとき、驚いたような顔をして、一瞬目を見開いて固まった。まるで「見てはいけないものを見た」かのように。けれど彼は、何も言わなかった。ただ一度、じっとリングを見つめたあとは、目を逸らして、それきりだった。それが彼らしいと思ったし、何も触れずにいてくれたことが、少しだけありがたかった。
彼女は今、どうしているだろう。そろそろ……会いに行ってもいい頃か。目を伏せ、わずかに口元が綻ぶ。こんなにも静かに、日常が進んでいることに一抹の安心すら感じていた。──そのときだった。
「……はい、風見です」
着信音が鳴り、風見がポケットからスマホを取り出して片手で通話を始めた。構わず報告書に目を戻しながらも、彼の会話にさりげなく耳を傾ける。公安の現場では、どんな小さな言葉の変化も見逃すべきではない。
「……ええ、今すぐ照合します」
変わらない調子だった。
そこまでは。
「はい……え?」
その一語を境に、風見の声色が変わった。
そして──
「…はいっ!?どうやったら、拘置所でそんなことが起きるっていうんですか!?」
静かな室内に、怒気を孕んだ声が響いた。
手元の書類を伏せて顔を上げ、風見の方に目を向ける。あきれかえったような、しかしどこか言葉を選びきれずにいる風見の表情。その頬を流れる汗と、硬直した指先がただ事ではないと教えてくる。
会話を終えた風見は、慌てて通話を切ると、握る手にじわりと力が入っているのがわかった。
「……風見、どうした」
意図的に静かな声で問いかけた。だが、内心はすでに波立っていた。彼の取り乱し方が、明らかに異常だったからだ。風見は一瞬だけ目を逸らすように伏せ、それから口を開く。
「拘置所内で……受刑者が姿を消したと」
「脱獄か?」
「…っ、はい。監視カメラの映像にも、途切れがなく……なのに、消えてしまったとしか言いようがない状況だと、報告が」
「それで?……誰が?」
自分の声は低く、ほとんど吐き出すような調子だった。風見は言いにくそうに目を伏せ、それでも職務として、静かに告げる。
「……今日、死刑執行が予定されていた──あの銃乱射事件の……降谷さんをも撃った……"犯人”です」
血の気が引いた。
言葉が現実のものとして耳に届くより先に、全身の温度が下がるような錯覚に襲われる。
「……なんだと?」
喉から出た声は、驚きというより、噛み殺した怒りに近かった。あの犯人が──姿を消した?思考が瞬時に張り詰め、全身に嫌な汗が滲む。
奴の標的が自分なのはわかっていた。だが、同時に理解していたはずだ。次に狙われるのは──僕の“隣”にいる人間だと。
「……風見、至急周辺の警備強化と、事案の伏せ込みを。拡散を防げ」
「はい、ただ……降谷さん、それよりも──」
「わかっている」
これは、ただの“脱獄”なんかじゃない。常識の範疇で起きたことでは、決してない。情報の隙間に浮かぶ違和感。視界の端に、あの“境界”の揺らぎを幻視する。
もう、胸の奥では確信に近い予感が暴れ始めていた。彼女が……危ない。きっと、そのための“脱獄”だったのだと。
「風見」
「……はい」
「すまない、あとの対応は任せた。至急、現場には君が入ってくれ」
「えっ、降谷さん……?」
「行くところがある」
そう言い捨てて、資料を机に置き、上着をつかんで翻した。
「待ってください!降谷さん!」
風見の声が後ろから追ってきたが、それはもはや遠くの雑音に近かった。思考はただ一つに向かっていた。彼女を探すこと。そして守ること。
足音が廊下に響く。エレベーターは待っていられないと判断し、非常階段を駆け降りる。体が勝手に動いていた。間に合わなければ、すべてが終わる気がしてとにかく走る。
階段を駆け降りながら、次々と記憶が胸を突いた。夕陽の中で微笑んだ顔、照れたように視線を逸らした瞬間、名もなき寝息と、呼吸のリズム。それらすべてが、いま彼女の身に起きているかもしれない“何か”の影に飲まれていくような感覚が、胸を締め付ける。
──今度こそ、二度と彼女に会えなくなる。そんな恐怖が、背後から冷たい手で首を絞めてくる。
「……お願いだ」
誰にともなく、祈るような声が漏れた。
扉を、通れ。まだ間に合うなら。
彼女の手が、届くなら──
そのとき。目の前の空間が、淡く歪んだ。
白い光が視界の中心に滲み出す。次元の“境界”だ。現実と、物語をつなぐあの扉。もう迷いはなかった。息を吸うように、その光の中へ、身を投じた。
*
──まばたきの刹那。
現れたいつもの作業部屋。彼女の父親の家。だが、空気が違った。妙に湿っている。部屋に残る微かな人の気配。それだけで、何かが“起きた”ことが伝わってきた。机の上のタブレットが、青白い光を残したまま、静かに暗転していく。
すぐに、ポケットから専用のスマートフォンを取り出す。現実世界での行動のために用意した、最低限の通信手段。ロックを解除し、唯一登録していた彼女の番号を呼び出す。だが、その着信音が部屋の外から聞こえた瞬間、背筋が凍った。
扉を押し開け、暗がりのリビングに目を凝らす。床に転がっていたのは、見覚えのある彼女のスマホだった。
「──遅かったか」
彼女は……ここにいた。けれどもう、いない。
カーテンの隙間から射し込む夕方の光が、部屋の奥を斜めに切り取っているだけ。どこにも、足音も、温もりもない。
右手にスマホを持ったまま、腕を落とす。指先から力が抜けていく感覚の中で、思わず舌打ちが漏れた。
今日が、奴の死刑執行日だとわかっていた。だからこそ油断した。だからこそ、彼女を一人にしてしまった。
あの犯人が、またいつでも“こちら”と接触する可能性など、考えればすぐに気づけたはずなのに。「今日で終わる」と安易に信じてしまっていた。
もう少し早く気づいていれば。もっと早く、ここに戻っていれば。僕が側にいれば。彼女が誰よりも先に危険に晒されると、分かっていたはずなのに。
胸の奥で焦りが膨らむそのとき、玄関が唐突に勢いよく開いた。バッ、と反射的に身体が動く。無意識に懐へと手が伸びかけた瞬間──
「ふ、降谷さん……!」
息を荒くしながら飛び込んできたのは、見慣れた顔だった。天沢さん。顔色を失い、額には滲んだ汗。安堵と動揺と恐怖、そのどれともつかない複雑な感情がないまぜになったような表情で、僕を見つけるなり駆け寄ってくる。
「ふ、降谷さん……!良かった!大変なんです!りかさんが……!!」
その言葉に、空気が一瞬凍りついた。
「天沢さん、りかさんはどこですか?何があったんです?」
思わず一歩、詰め寄っていた。
声が張りつめすぎていたのか、彼は目を伏せ、怯むように小さく肩をすくめる。震える指で握りしめているのは、角の欠けたスマホ。その表面には無数の細かな傷と、掴んだままの形跡が残っていた。
「……あの……電話してたんです。りかさんと……!先生が目を覚ましたことを知らせようとして……でも、途中で、急に声が聞こえなくなって……」
言葉が徐々に細くなる。
けれど、その一言だけで十分だった。
「それで、代わりに、男の声がして……先生と似てる声で。でも、違うんです。冷たくて……誰かを試すみたいな口ぶりで……」
天沢さんの声は震えていた。それでも、彼は勇気を振り絞るように、言葉を継いだ。
「……その声が……話してたんです。“お前が絵を描いたせいで、物語が台無しになった。さあ、夫に会いに行こう”って……!」
音を立てて、何かが胸の奥で崩れた。
彼の証言が、断片的ではあっても、確実に最悪の予感を裏付けていく。
──攫われた。それも、この世界の中ではない。……向こうだ。この脱獄は、彼女をさらうための布石だった。
「入れ違いだったか……」
低く、呪詛のように吐き出して、前髪を乱暴にかき上げた。
どうして、こんな簡単なことを見落とした?彼女が標的になる可能性は、真っ先に排除すべきだったのに。
頭の奥が熱を帯びる。脳のどこかが赤く光り、警鐘を鳴らしている。思考の一部が冷静さを保とうとする一方で、もう一人の自分が暴れ出す──あの時、彼女の手をもう一度しっかり握っていれば。彼女の側を離れなければ。
自分の油断が、どれだけ危うい代償をもたらしたか。すでに取り返しのつかない場所まで、足を踏み入れてしまったのではないか。
「天沢さん」
ぐっと息を吸い込み、目の前の彼の両肩を両手でしっかりと掴んだ。混乱しかけた彼の目を、真正面から見据える。
「僕は、また向こうへ戻ります。──だから、僕が戻ったら、すぐに作業部屋のタブレットの電源を“落おして”ください」
「え……?」
不安を含んだ声だった。でも、今彼に必要なのは、迷わせない言葉と圧だ。
「いいですね?すぐにです。僕が合図するまでは、絶対に電源は入れないでください」
「で、でもそんな急に──」
「──お願いです」
語気が鋭くなった。けれど、懇願に近い熱がそこにこもっていた。
「これは、りかさんの命がかかった話なんです」
目を逸らすな。そう自分に命じるように、視線をぶつけ続けた。天沢さんは一瞬、戸惑いの色を浮かべたが、やがて静かにうなずいた。
「……わ、わかりました……」
それを確認するや否や、返事を聞き終わる前に身を翻した。作業部屋のドアを一気に開ける。躊躇なんてなかった。迷っている時間など、もうどこにも残されていない。
タブレットの前に立つ。液晶はまだ微かに温もりを残していた。指先が画面に触れた瞬間、それは呼応するように光を滲ませる。
──間に合え。
どこかで、まだ彼女が待っているなら。
祈るようにして、再び光の中へ。
彼女のいる場所へ──
彼女が囚われた、その世界へ。
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