83
……水の音がする。
ぽた、ぽた。遠くで落ちて、また滲んで流れていくような──雨漏りのような音だった。眠っていた意識が、ゆっくりと浮上してくる。それは夢の終わりとも、目覚めの始まりともつかない、鈍く痺れた感覚だった。
……頭が重い。視界の端がぐらぐら揺れて、光がどこかで瞬いている。だけど、ちゃんと点灯していない。瞬きのリズムが狂ったように、ちらちらと点滅している。
「……どこ……」
掠れた声が、思わず漏れた。自分の声とは思えないくらい乾いていて、喉が引き裂けそうだった。
見上げた天井は無機質で低く、灰色。壁も床も、同じように色を失っていた。埃っぽい匂い、冷たい空気。薄い油の匂いが鼻を突いて、目がしみる。
身体を動かそうとして、背中が固い床に擦れた。コンクリートだろうか。ここはどこかの廃工場?背中に小石か何かの感触がして痛い。
「……やっと目が覚めたか」
不意に、空気が揺れた。男の低い声。空間の奥から聞こえたその一言に、私はびくりと肩を震わせる。
心臓が跳ねた。次の瞬間、喉が乾いて固まり、呼吸が止まる。反射的に身を起こそうとした……けれど──動けない。
「……っ……」
背中に突き上げるような鈍い痛み。肩を動かそうとした瞬間、両腕にひきつれるような違和感が走った。
手を後ろに、きつく縛られている。細くて硬い、ビニールのような……ナイロン結束帯か何か。皮膚に食い込む感触が、嫌なほど冷たい。
無理に身体を起こそうとするけれど、腕が使えないせいでうまくバランスが取れない。膝を引き寄せて、身体を傾けて……ようやく身体を起こした私の目の前に──
黒い革靴が現れた。
そこから視線を上げると、見えたのは、無表情なあまりに父に似た顔。そして、その手に握られた──黒光りする拳銃。
「っ……」
喉がひゅっと詰まった。呼吸が止まる。瞳孔が収縮する感覚が分かるくらい、心臓が一気に縮こまる。
その男は、私を見下ろすように立っていた。薄暗い照明の下、口元だけがゆるく、嫌なふうに歪んでいる。笑っている──のかもしれない。冷たく、ぞっとするような、ニヒルな笑み。
「動くなよ。そのままでいてくれたほうが、やりやすい」
引き金にかけられた指が、冗談のように見えて、冗談じゃない。言葉をかけられたのに、返事ができなかった。喉の奥が乾いて、ただぱくぱくと金魚みたいに口が動くだけ。
「……すぐ殺してやりたいのは山々なんだが」
乾いた声が、まるで誰かと雑談でもするかのような調子で落ちてきた。
「そうもいかなくてな。こうすりゃ、安室透が這ってでもお前を探しに来るだろ」
「っ……」
喉が干からびていて、うまく息ができない。
心臓の鼓動が異常な速さで全身を叩きつけて、肺が膨らまない。胸が痛い。けれどそれすら、恐怖を前にすぐかき消えていく。
「……やめ、て……」
ようやく絞り出した言葉は、喉の奥でかすれて、ほとんど音にならなかった。けれど男は聞こえていたのか、かすかに眉を上げる。
「やめて…?今さら何だ?命乞いか?」
その言葉に、私は首を横に振ることすらできなかった。小刻みに震える身体を押さえ込むので精一杯だった。拳銃の黒い銃口が、わずかに動くたびに、心臓が跳ねる。
男は一歩、また一歩とゆっくりと近づいてきた。そのたびに、床のコンクリートが鳴る。
「なあ、お前、今までよく無事だったなと思わなかったか?これだけ俺を抹消しようと計画を立てておいて」
向けられた言葉に、喉がひくりと動く。返事はできない。ただ、目を見開いたまま男の言葉を聞くしかない。
「……今までお前がのうのうと生きてこられたのは、必然なんかじゃない。俺が殺さなかったからだ」
淡々とした口調。それなのに、背筋が凍るような冷たさがある。
「なぜだかわかるか?」
しばらくの沈黙。答えられるわけがない。男はそれを分かっていながら、口元にまた、あの歪んだ笑みを浮かべた。ぞくりとする温度が背後から首筋へと走り抜ける。
「ずっと待ってたんだよ。安室透…いや、降谷零が、またお前という存在に執着しはじめるのを。そして希望を持たせて、その先で一気に奪ってやろうってな。…そうすれば、ただの死よりずっと深く、あいつの中にお前が刻まれる。後戻りできない傷として」
ぞっとするほど冷たい声。心の中に、静かに黒い氷が張っていく感覚。全身が凍りつく。立ち上がりたくても、腕が縛られている。逃げたくても、足は震えて力が入らない。
「その機会をずっと伺ってたってわけさ」
……そんな。
そんなことのために、私は生きてきたわけじゃない。喉の奥で、何かがひゅっと縮むような音がした。怒りなのか、悲しみなのか、それすら分からない感情が、胸の奥で渦を巻いている。
私が死ねば、安室さんが傷つく。その構図を、当然のように語るこの男に──絶望を覚えるしかなかった。
でも、それでも、どうしても抗いたい感情がある。公安警察官として、あまりにも多くのものを背負ってきた人。私は知っている。漫画の中で、彼がどう生きてきたのかを。
警察学校で出会った、大切な仲間たち。あの人が“友”と呼んだ人たちは、もう誰も生きていない。
あの人は──それでも前に進んだ。運命を呪わない。ただ、背負う。静かに、当たり前のように。自分がその場所にいる意味を、自分自身で選び取って、生きている。
そして、今。もし私がここで命を落とせば、その痕は、またひとつ、彼の中に刻まれてしまう。
あの人が、自分を責めないはずがない。きっと思うだろう。「もっと早く気づいていれば」「自分が守れなかったからだ」と。誰も責めないかわりに、全部、自分の中で引き受ける人だ。……もう、そんなふうにあの人に背負わせたくない。
「……そんな……勝手な言い分、認めない……」
声になっていたかどうかはわからない。
けれど、唇は確かにそう動いていた。
息が荒く、視界が歪む。それでも、私の中にはたしかに、生き延びたいという熱が、今もまだ残っていた。希望は細くても、まだ消えていない。誰かの道具になんてならない。安室さんの悲しみの一部になんて、絶対にならない。──そう、誓いかけた、その瞬間だった。
「お前を、あの救急外来へ“呼び寄せた”のは俺だ」
──耳の奥が、きゅうっと痛んだ。
まるで急に気圧が下がったように、世界の音が遠ざかる。言葉が意味として脳に届くまで、ほんの数秒の空白があった。
「──え……?」
「そうだ、あのときだよ。俺がわざと“考えて”、お前をこの世界へ引きずり込んだ。"また''、降谷零と出会わせるためにな」
男は笑っていた。心底楽しそうに、ゆっくりと膝を折って、視線の高さを合わせてくる。
「そうだとも知らずにお前たちは、俺の思い描いた通りに、恋愛ごっこを始めてくれた。いやあ、ここまでくるまで長かったよ。……覚えてるか?手に銃弾が貫通した患者。あの夜、お前が治療した“誰か”のうちの一人」
背筋を冷たい刃で撫でられたような感覚。
息を吸うのも忘れそうになった。目の前の景色がぼやけていく。けれど、それは涙でも幻でもなかった。……まさか。
「やっとわかったか。あれが──俺だったって」
崩れるように膝が震える。床の埃が巻き上がり、鼻の奥に不快な感触が残った。
映像が脳裏でフラッシュバックする。血まみれの手。破れた皮膚。慌ただしい救急外来。医療者として、目の前の傷に必死で向き合った。顔も、見なかった。見ている余裕がなかった──
「テレビ局にたまたまメガネの探偵坊主がいたせいで、警察の到着が思ったより早くてな。逃げるために、自分の手を撃った。医療搬送を利用して、堂々と“病院”に潜り込むためにな」
「……う、そ……」
声にならない声が漏れる。首を振ろうにも、重くて動かない。しかし、男の左手に目をやると確かにそこには弾痕があった。逃げるために自分の手を撃つなんて狂ってる。だが、確かにあの病院で、コナンくんと安室さんがそんな話をしていたことを思い出した。
「お前が俺の顔を見たら、どんな反応をするか楽しみにしてたよ。──でもお前は、自分の父親とそっくりな顔をした奴に、気づきもしないで処置を続けた。あれだけ近くにいたのにも関わらず」
息が詰まる。床に落ちた自分の影が、ぐにゃりと歪んで見えた。身体が震えて、膝が勝手に揺れる。
男の目が細められる。軽蔑とも哀れみともつかない、嘲るような目。
「自分の“顔”を手に入れた記念に、って起こした事件だが、まさか病院でそんな面白い顔が見られるとは思わなかった」
そんなこと、あるはずがないと思いたかった。
…でも、きっと本当に、私は見ていなかったんだ。
ただの患者として。目の前の命として。それは、医者として正しい姿勢だったはずなのに。なのに今は──その無関心が、取り返しのつかない過ちに思える。
目の前の患者を助けることに必死で、それ以外のものなんて、まるで見えていなかった。いつも通り、何十人もの命を相手にする日常のひとつ。そう思い込んで、目の前の異物に違和感を覚えることさえ、忘れてしまっていた。
あの時、もっとちゃんと見ていれば。この男の“正体”を、何かしらの形で、止められたかもしれないのに──
「2回目にお前をこの世界に引き込んだのも俺だ」
男はそう言いながら、私の顎を片手で持って乱暴に持ち上げる。不快な指が肌に食い込む感触に、思わず眉を寄せた。
「ほら、お前がタブレットを使って、何か描いてただろ。画面の向こうから手を伸ばしたが……首は締められたのに、お前は死ななかった。惜しかったよ、まさか電源を落とされるなんてな」
あの日──この男に狙撃された安室さん。彼を救うために私は必死になって薬の絵を描いた。ちゃんと届いてほしいと願いながら。そのときだった。画面の中から、ありえない“黒い手”が伸びてきて──私は首を絞められた。
なんとか助かったが、そのあと、またすぐに漫画の世界へ引き込まれた。あのとき、私は思った。これは“誰かの想い”に呼ばれたのだと。きっと、警視庁の誰かが私の存在を意識したから。だから私は、またここに戻ってきたんだと。──でも違った。
「仕方ないから、また漫画の世界へ連れ戻してやった。……すべて俺の手の内だった気分はどうだ?」
私は誰かの強い思いに導かれていたわけでもなかった。ただ、ひたすらこの男に“遊ばれていただけ”だったなんて。
「…ど、して……どうして、こんな…ことを……?」
震えながらもその言葉だけは、どうしても吐き出さずにはいられなかった。
理解なんて、できるはずがない。それでも聞きたかった。せめて、この狂った現実に、言葉という形を与えたかった。そうでもしなければ、自分がただの“物語の被害者”になってしまいそうで──。
男は肩をすくめ、芝居じみた仕草でため息をひとつ吐く。
「どうして、か……?」
口元に浮かぶのは、あいかわらず薄く歪んだ笑み。
まるで、哀れな質問を愉しんでいるかのように、ゆっくりと頭を傾けてくる。
「俺も最初は、何も考えちゃいなかったよ。顔も名前もないただの殺人鬼だったからな。作者に言われた通り動くだけの“端役”さ」
わずかに視線が揺れる。
その声音に滲むのは──怒りだった。過去への怨嗟。消されかけた存在としての、焼き付いた執念。
「でもな……気づいちまったんだよ。俺にも、考える頭があるってことに。俺の存在にも意味があるってことに」
「意味……?」
「そうだ。俺は“降谷零”を殺すためだけに作られた存在。なら、やり遂げるまで終われない。たとえ作者が逃げようが、連載が止まろうが、記憶を消そうが──関係ない」
目の前の男が、ひときわ強く拳銃を握り直した音が聞こえた。
「それが、俺の存在理由だよ」
その言葉が、ぞくりと背骨を伝って冷たさを走らせる。本気だ。この人は、本当に“それだけ”のために生きている。誰かを殺すこと──それだけのために、存在している。
「──お前の父さんが、そっくりの顔を描いてくれたからな。あのホテルの屋上で、“顔を描く”と約束してから……ずいぶん時間がかかったが、結果には満足してるよ。ようやく俺は、“この世界の登場人物”になれた。だからこそ、今度は俺の番だ。生み出された意味を、果たす番なんだよ」
男の目が静かに光った。その輝きは、まるで“完成された狂気”そのものだった。
──そう、だったんだ。父とそんな約束をしていたなんて知らずに、私たちは今まで…。
「……どうか、たすけて……ください……」
嗚咽まじりの声が、喉の奥からこぼれ落ちる。
願いというより、呪文のように。もう何も届かないと分かっていながら、それでも言葉にせずにはいられなかった。だが。
「……だめだよ」
低く、冷たい声が返ってきた。まるで幼児のわがままをたしなめるような、感情の欠片もない響き。
「邪魔する奴は、全員殺す。例外はない。今までのようにな」
その一言で、空気が変わった。
視界がにじむ。涙が頬を伝い、ひとすじ、床に音もなく落ちた。息が苦しい。肺の奥が、押しつぶされるようにきしむ。恐怖という言葉では足りない何かが、じわじわと体の芯を蝕んでいく。男は立ち上がると、ゆっくりと足音を立てて近づき、にやりと口元を歪めた。
「誰がそんな“結婚指輪”を受け取れって?」
そう言いながら、その視線が私の胸元のチェーンに繋がった指輪に落ちる。思わずそれを手で隠そうとして──でも、縛られていて動かせない。逃げられない。守れない。ただ見られているだけ。
「それをお前が受け取ったせいで、お前はこの漫画の“ヒロイン”になった。だから、俺に殺されるんだ。自分を恨むんだな」
にちゃり、と湿った笑いが響く。
「そんな、形だけのもので幸せになれるとでも思ったか?笑えるな」
その言葉の刃が、まっすぐ胸に突き刺さる。
男の言う“形だけ”──それが何を意味しているかなんて、分かってる。でも、あの時の指先の熱も、安室さん彼の声も、すべてが確かに本物だった。
それを、“形だけ”と、笑いながら踏みにじられる。まるで、全部が茶番だったと、存在ごと否定されるような、そんな気がして。
「……ちが、う………!」
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。体が震える。痛みじゃない。恐怖じゃない。もっとずっと奥にある、何か壊れそうなものが、ぎしぎしときしむ音を立てていた。
「お前は、そうやってただ巻き込まれて、誰かの手の中で泣いていればいい。ヒロインってのはそういうもんだろ?……なぁ、降谷零の“女”さんよ」
銃口が、こちらを射抜いている。
本気だ。この人は、本当に撃つつもりだ。
どうして、どうしてこんな──こんな物語の、どこに救いがあるというの。
──だれか……。
心の奥底で、助けを求める声がぼんやりと浮かんでは、また沈んでいく。でも、違う。本当は、誰でもよかったわけじゃない。
安室さん……。胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。指先が冷え、身体の芯が沈んでいく中で、彼の顔が、声が、笑い方が、ふいに蘇る。
こんなことになるって分かっていたら、もっとちゃんと気持ちを伝えておけばよかった。
ずっと、「安室さん」って呼んできたな。それは尊敬とか、気遣いとか、照れとか──いろんなものをごまかすための、ちょうどいい呼び方だった。
でも、本当は。本当はずっと、呼びたかったのに。
“零さん”って。
恥ずかしがらずに、逃げずに、素直になって。あなたが優しく「呼んでほしい」って言ってくれたあの時、言えばよかった。
胸の奥がずきんと痛む。涙が、もう流れた跡すら分からないほど頬を伝って落ちていく。声にならない想いが、ひとつ、またひとつと胸の内に積もっていく。「ありがとう」も、「ごめんね」も、言い足りないことが山ほどある。でも──それよりも何よりも。
本当に、大好きだった。
あの人の手が、もう一度だけでも──この冷たい空気の中に、あのあたたかさが触れてくれたら。もう一度だけでも、あの優しい瞳を見られたら。
「……れい、さ……ん……」
涙と一緒に、最後の希望みたいに零れ落ちた名前。
崩れるように吐き出されたその声と同時に、銃口の向こうで空気が震えた。
……カチリ。
乾いた、小さな金属音が空気を裂く。それは、ただの一音だったのに──心臓の奥を、音もなく刺し貫くような鋭さがあった。
拳銃の安全装置。その音が何を意味するのか、私の身体は真っ先に理解していた。息が止まる。肺が縮こまり、喉の奥がひゅっと痙攣する。まぶたが痙攣しそうになるのを、必死にこらえる。
男の指が、迷いなく引き金へと這う。
「……いい声だったよ、今の。まさか“本名”で呼ぶなんてな」
にやり、と。まるで狂った喜劇の最終幕でも演じるように、男は口元を歪めた。
「じゃあ……そろそろ、終わりにしようか。ヒロインの最後のセリフとしては、悪くなかったぜ」
銃口が、ゆっくりとこちらの額を狙う。その先にあるのは、ほんの数十センチの空白と、終わり。
心臓が叫んでいる。脳が悲鳴を上げている。
恐怖に震え、その名をまた心の中で叫んだ、まさにその刹那。
──パンッ!!
破裂音が、世界を真っ二つに裂いた。
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