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爆ぜるような銃声が、空間を引き裂いた。光と音が同時に弾け、視界が白く染まる。
反射的に目を閉じた私の全身が、びくりと跳ねる。撃たれた──そう思った。
……しかし、何も起こらない。痛みも、熱さも、何も感じない。脈打つような恐怖の中で、私は恐る恐る瞼を持ち上げた。灰色に霞んだ視界の向こう。男の肩口に、赤黒い花が咲いていた。
その手から、拳銃がカランッと乾いた音を立てて宙を舞い、コンクリートの床に跳ね飛ぶ。そのまま回転しながら床を転がり、柱の陰へ滑り込んで止まった。

「……へえ。来たか」

煙の残る右肩を押さえて、男は信じられないという顔で目線を上に向けた。痛みよりも、楽しげな色がその声に浮かぶ。

「離れてもらおうか。“ヒロイン”からは」

そう言ったのは──ずっとずっと聞きたかった声。
低く、静かで、けれど底に熱を孕んだ声。恐る恐る顔を上げると、犯人で隠れて見えていなかった姿が視界に映し出される。グレーのスーツ姿。小ぶりな拳銃を構え、静かに狙いを定めている。そして荒く、抑え込まれた呼吸と肩の上下。──息を切らしている。まるで、全速力でここまで駆けてきたかのように。

「……れい……さん……?」

声にならないほど掠れたその名が、自然と唇からこぼれた。
言おうとして、言えなかった名前。何度も心の中で呼んできたたったひとつのその名が、恐怖と安堵の狭間で、今、勝手にこぼれ落ちた。
零さんは微動だにせず、銃口を逸らさないまま、鋭い視線だけをこちらに向けて── 一瞬、頷いた。

「感動の再会といきたいところだが、まあ、待て。それ以上動けば、まずこいつの喉が裂けるぞ」

しかし、男がすばやく私の首元に腕を回し、背後から抱きかかえるようにして拳銃の代わりに取り出した小型ナイフを私の喉元に当てる。
零さんがチッと舌打ちするのを、私は感じとった。

「やっと出てきたな、安室透。いや──“降谷零”」

男は、私の首をぐっと握り直しながら、なお顔を歪めて笑った。目は赤く血走り、まるで何かを超えてしまった者のそれ。撃たれた痛みの色は一切ない。むしろ──嬉しそうにさえ見える。

「お前が追ってくることくらい、想定済みだよ。まさか、強化ガラスを割って入ってくるとは思わなかったがな。…だが、もう遅い」
「遅いのは、お前の方だ」

凍りつくような声音だった。
零さんは拳銃を構えたまま、ゆっくりと一歩、踏み出した。足が、砕けたコンクリートの上を乾いた音で叩く。

「この建物はすでに、公安警察の包囲下にある。周囲半径300メートル以内の立ち入りは制限済み。外には監視ドローンと熱源センサーが配備されている。お前にもう逃げ場はない」
「……は、ははっ」

男がくつくつと喉を鳴らして笑い出す。血の滲む右肩を震わせながらも、薄笑いを浮かべながら首を傾げた。

「それでも、お前はわざわざ中に入ってきたんだな。…女一人、助けるために?」

皮肉の色を濃くした声が、廃工場の空気をさらに濁す。

「ずいぶんと感情的だな、“降谷零”。公安の看板を背負ったお前が、自ら袋のネズミになりに来たのか?」

その言葉に、私は一緒だけ、心臓を掴まれた気がした。さっき犯人が言っていた、"2人まとめて殺す"という言葉が頭の中で反響する。
でも、零さんは何も返さなかった。黙ったまま、銃口を逸らさずに男を見据えている。その姿から、怒りも焦りも見えない。でも、静かに、底のほうで燃えている何か。

「無言か?その無言が、お前の焦りだとでも思えばいいのかな」

男が、にやりと口の端を吊り上げた。
血が、肘を伝ってぽたり、ぽたりと床に落ちる。その音が、異様な静寂の中でやけに大きく響いた。

「彼女に何かあれば、お前に言い訳の機会はない。すべて、正当防衛の名の下に処理する」
「“ヒロイン”を手放して、丸腰で降伏しろってか?…バカ言え。あとは俺はここで、最後の目的を果たすのみだ」
「目的…?」
「お前を殺すことだ。この“ヒロイン”を巻き添えにしてな」

零さんの表情が微かに揺れた。
だが、彼は撃てない。私を盾にされた今、下手な動きは私の命を奪うことにつながる。動けば、ナイフが喉を裂く。撃てば、巻き添えになる。

「そうだ、降谷零。お前は、何もできない。ヒーロー面をして、正義の味方ぶってるが…お前の正義なんざ、簡単に無力化できる」

私は、零さんの方を必死で見ていた。
お願い、動かないで。でも、お願い、助けて。そんなひどく矛盾した自分の心が痛い。
──でも、零さんは諦めていなかった。その目は、機を探していた。わずかな隙間でも、撃てる瞬間を探していた。けれどそれが訪れる前に──男の左手が、腰のポケットに滑り込む。
その瞬間、零さんがまた一歩踏み出そうとする。けれど、男のナイフがさらに深く私の喉元に押し当てられた。ひやりとした感触に、私は反射的に肩を震わす。

「おい、待て待て。言っただろ。動けばこいつの喉が裂けるって。…近距離はナイフの方が有利って知ってるだろ?」
「…彼女から手を離せ」

零さんの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。感情に任せて声を荒げることはしない。だがその静かな声の奥に、確かな苛立ちと憤りが宿っているのがわかる。
しかし、男の手が、またゆっくりと腰のあたりに滑り、何かを掴んだ。そして無言で、左手にずしりとした黒い物体を持ち上げる。──もう一丁の拳銃。隠し持っていた“保険”。
その瞬間、零さんはわずかに顔をしかめたが、すぐに視線を定め直す。

「……利き手じゃなければ、まともに狙えないはずだ」

零さんが、低く淡々と告げる。挑発ではない。あくまで事実の確認だ。けれど──その言葉に、男はわずかに笑う。血に濡れた顔に、奇妙な余裕が浮かんでいた。

「ふっ、そうだな。お前に向けて撃つには、ちと頼りない」

あっさりと認めたその声には、後悔も焦りもない。だが、だからこそ──不気味だった。この男にもう、逃げ場はない。なのに、あまりに飄々としすぎている。何かが、おかしい。
その直後、男の左手が持ち上げられる。拳銃の先が、ゆっくりと天井へと向けられた。

「けどな、このくらいの的なら十分すぎる」

その目が、不自然なほど光を帯びる。
零さんの顔色が変わった。
私は嫌な予感がして、直感的に呼吸が止まる。

「まさか…爆薬か?」
「正解。ようやく気づいたな。遅いよ、公安警察さん」
「……っ、おまえッ!!」

男の口元が、嗤うように持ち上がった。
その笑みに、零さんが怒りを込めて睨み返す。彼の銃口が微かに揺れたのは、そのときだった。

「俺は言っただろ。“2人まとめて殺す”って」
「っ……!」

私が息を呑むと同時に、男が引き金に手をかけた。私は反射的にその先を見上げる。
──天井。鉄骨がむき出しのその梁に沿って、まるで配線のように這う黒いコード。そして、柱の根元と私のすぐ背後──にも、同じものが巻き付けられていた。……爆薬だ。

「そん、な……」

喉が詰まり、声にならない。
理解した。私たちは最初から、ここで“死ぬため”に集められたのだ。これまで何度も生き延びてきた。何度も、世界の理を越えて手を伸ばしてきた。けれど──今度こそ、本当に。

「……っ、やめて……っ」

声にならない叫びが漏れた。私の震えが伝わっているのか、男の腕の圧もさらに強くなる。

「爆破範囲は十分計算済みだ。逃げられないよ、公安さん。──ここで、ヒーロー気取りの“降谷零”が、目の前で“ヒロイン”を喪って死ぬ。……この結末こそが、この物語のエンディングだ」
「りかさんッ!!伏せて!!」

零さんの声が鋭く響く。
視界の端で、彼が走り出すのが見えた。

「っ……!」

でも動けない。足が、身体が、床に縫いつけられたように硬直していた。犯人に抑えられた首が、後ろに縛られた腕が、震えとともに痺れていく。

「……っだめ!!」

そう叫んだときには、もう遅かった。
男が、迷いなく指を動かす。
その瞬間……

ドンッッ!!!!

全身が、地響きと共に吹き飛ばされた。
爆風。熱風。光。音。何もかもが一斉に襲いかかる。世界がぐしゃぐしゃに歪み、色と形がひっくり返る。
零さんが私の名を叫ぶ声が、耳の奥で遠ざかっていった。何かが飛んできて頬を裂く。破片か、それとも……自分の血かさえもわからない。視界が激しく揺れて、気づけば床を滑るように転がっていた。手足が勝手に浮き、落ちる感覚だけが身体を突き刺してくる。

「──い、っ……」

息が、できない。胸が焼けるように苦しい。酸素が薄い。目も、喉も、皮膚も全部が痛い。なのに、なのに私は、必死にその姿を探していた。
──零さん……どこ……?
目の前にあるのは、ぐしゃぐしゃになった鉄骨と、舞い上がったコンクリートの粉塵。瓦礫の下敷きになったみたいで、視界はあまりにぼやけていて……もう、何も見えなかった。
──ああ、私…やっと、名前を呼べたのに。ほんの数秒前、あんなにも零さんの声が近くにあったのに。

「……もっと……言いたいこと、あったのに……」

唇が震える。声にならない。煙と熱と、涙でぐちゃぐちゃの視界のなかで、私はそっと目を閉じた。
これが、ただの悪い夢だったら。すべてが眠っている間にだけ起こった話なら良かったのに。
もう一度だけ、触れたかった。あなたに会えた奇跡を、何度も心の中で抱きしめた。忘れられたことが苦しかった。でも、また私と向き合ってくれたあなたを、私はどこまでも信じた。私だけが覚えていてもいい。過去じゃなくて、今のあなたを見ていたかった。あなたが迷いながらも差し伸べてくれた手が、どんなに温かかったか──伝えたかった。

零さん……。指先がかすかに震える。崩れかけた意識の底から、あなたの横顔を、必死で思い出そうとする。
あの朝、キッチンでパンケーキを作っていてくれたとき。濡れた髪をドライヤーで乾かしてくれたとき。小さく笑って、私を見つめてくれたあの眼差し。傷ついて、生きることを諦めかけたあなたが、それでも私の涙に手を伸ばしてくれた瞬間……。
思い出せる。どれも全部、私の宝物だった。
まだ、終わりたくない。このままじゃ言えない。「ありがとう」も、「会えてよかった」も──何より、「大好き」って。
世界が終わるなら、せめて、あなたの腕の中で終わりたかった。あなたの声を、もう一度…あの、柔らかくて、確かで、いつも私を現実に引き戻してくれた声を──

遠く、遠くで、誰かが私の名を呼んでいる気がした。耳鳴りのような爆音の隙間から、切り裂くように届いたその声。──ああ、やっぱり……零さん。あなたしか、こんなふうに私を呼ぶ人はいない。胸の奥が、まだ微かに脈打っている。
ねえ、零さん。あなたは私を、また探してくれる?崩れた世界のどこかで、もう一度──私を見つけてくれる?たとえ記憶をなくしても、たとえ私が壊れても。あなたの瞳にもう一度だけ、私が映りますように。
世界が、深く、深く沈んでいく。意識がぼやけていくなかで、私は最後の祈りのように、あなたの名を心の中で呼び続けた。

零さん。
どうか……あなたが、無事でありますように。



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