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side: Furuya
爆音が、世界をひっくり返した。
火花と熱風が、全身を容赦なく叩きつけてくる。視界は一瞬で真っ白になり、次には鮮烈な赤と黒が交錯する──吹き飛ぶコンクリートの破片、歪む鉄骨、燃え上がる火の粉。全身の感覚が狂い、地面が足元から消えていった。
「くっ──!」
咄嗟に身体をひねり、肩から落ちるように受け身を取った。床を転がりながら腕で顔を庇い、衝撃の中で肺が絞られるように痛む。それでも、肋骨が折れていないことを祈りつつ、必死に地を蹴って起き上がる。
──彼女は?
周囲を見回す。けれど、視界のほとんどが粉塵と煙で覆われていた。天井の梁は崩れ、火花が舞っている。空気が焦げたような匂いを放ち、金属の焼ける音と何かが燃える音が絶え間なく響く。
「りかさん!!」
声を張り上げる。
しかし、返事はない。
「りかさん──っ!!」
何度も呼ぶ。息を切らし、焼けつく空気を肺に入れながら、足元の瓦礫を蹴り、手で払い除ける。肺が焼けるように苦しい。目も鼻も痛む。それでも、止まらなかった。止まれるわけがなかった。彼女の姿が見えない。それが、恐怖だった。
そんなとき、ズキン、と。
突然、右のこめかみが痛んだ。
「……っ……!」
鋭い痛みが、神経の奥まで突き抜ける。頭蓋の裏を誰かに殴られたような衝撃。目の奥がきしむ。思わず片手で額を押さえ、その場に膝をついた。
──瓦礫の破片でも当たったか……?
そう思ったのは一瞬だった。
次の瞬間、視界の裏で──記憶が、弾けるように走った。
真っ黒な屋上。まだ寒さの残る夜空の下、倒れ伏した自分の身体。血まみれの腹と胸。そして、その隣に駆け寄ってくる、息を切らした小さな影。
──彼女だった。あのとき確かに、助けられた。死の淵から引き戻された自分を、涙まじりに呼びかけてくれた。「お願い」と、何度も、何度も。
次の場面。
カーテンが揺れる自宅の寝室。自分の隠していた拳銃の場所を、彼女が見つけていた。その銃口をこちらに向けたあの瞬間。手が震えていたのに、彼女の目だけは真っ直ぐだった。
「拳銃を握るのもままならないようですが、それで貴方は、僕を撃つと?」撃てるはずなんてないと分かっていても、息を呑んだのを覚えている。
──視界が切り替わる。
拘置所の面会室。無実の罪で連行され、傷ついた心を押し殺して座っていた彼女。自分の言葉に縋るようにして、声を震わせていた。
「自分がこんな場所に入るなんて……思っても、みませんでした……」言葉の端が、涙で滲んでいた。彼女の両肩が震えていたのに、ガラス越しで、何もできなかった。……自分がその姿をどれほど無力に見つめていたか、いまなら分かる。
──次に見えたのは、あの夜。
薄明かりの中、彼女が収監されていた施設の前。本当はあんな手段を使いたくなかった。けれど、自分の正体を隠し、身分を使い、無理やりにでも彼女を外に出す必要があった。
「安室透との結婚」そう言われたときの彼女の驚く顔を、本当は直接見たかった。
そして──指輪。
あの夜、入浴を終えた彼女の前で、そっと手を取った。恥ずかしそうに目を逸らす彼女の左手薬指に、リングを滑らせる。
「“ただの役割”なら、あなたに指輪を渡すことも、こうして一緒に住むこともしませんよ」
その言葉を信じてもらえるかどうか、怖かった。けれど、彼女は泣きながら笑ってくれた。濡れた睫毛を震わせながら、微かに、何かを決意するように頷いた。
──最後の夜が映る。
ビル群の光に包まれたホテルの屋上。
まだ状況を飲み込めていない彼女を見下ろしながら、ひとつの決意を胸に抱えていた。
この世界を“夢”に変えて、彼女を現実に返すこと。自分だけがすべてを忘れてしまえば、それでいい。彼女の涙も、笑顔も、出会いも、すべて夢だったことにすれば──彼女はきっと、前に進める。
……そう信じていた。
でも、それは間違いだった。誰よりも大切な彼女との記憶を、こんなふうに失っていたなんて──
「……くっ……!」
地面に膝をつき、顔を歪めた。痛みはこめかみだけじゃなかった。胸の奥から、えぐり取られるような後悔が、込み上げてくる。
忘れていた。大切すぎるものを。思い出さなければならなかったことを。こんなにも、自分のすべてを変えた存在を──彼女を。
本当は記憶をなくしていた自分だって、もうとっくに彼女に惹かれていたことくらい、気づいていたのに。あと一歩を踏み出せなかった。
「……りかさん……!」
力なく呟き、目を上げる。
このまま膝をついてなどいられるか。思考より先に身体が動いた。右手でまだ痛む頭を押さえながら、全身の筋肉を総動員して立ち上がる。
──探さなければ。彼女は、ここにいる。きっとどこかで、まだ……生きている。
「りかさん……!」
呼びながら、燃えさかる工場内を駆ける。熱で空気が揺れ、視界が歪む。床のあちこちが陥没している。崩れた鉄骨、ひしゃげたパイプ、煙に包まれた壁──まるで地獄のような光景だった。
だが、そのとき。足元に、何かが光った。視線を落とす。──それは、見覚えのある銀色のリングだった。
「……!」
駆け寄って拾い上げる。黒く焦げた床の上、チェーンに通されたリングが、かすかな光を返している。
間違いない。これは、彼女の指に通した指輪だった。自分の指にあるものと、まったく同じデザイン──あのとき、自らの手で選び、渡したもの。
確信が背中を突き動かす。瓦礫の山を押しのけ、焼けた金属片に指を切りながらも構わず腕を突っ込む。すると、微かに──柔らかな感触が指先に触れた。
「っ……!」
瓦礫を必死にかき分ける。火花が頬に散るのも気にせず、焼けつく鉄骨を手でどかした。
──そして。瓦礫の下、粉塵にまみれて、彼女は静かに横たわっていた。
「……りかさん!!」
飛び込むように抱き上げた。
ぐったりと力の抜けた体。無数の擦過傷、変な方向に曲がった左足──おそらく、骨折。けれど──まだ、温かい。息がある。生きている。しかし、呼吸は浅く、意識はない。
「……ごめん……こんなことに……こんな……っ」
思わず、強く抱きしめた。
何もかもを取り戻したはずなのに、それでもどうしようもない罪悪感が自分を突き刺した。
唇が震える。抱きしめながら、歯を食いしばった。自分の記憶を消せば、彼女を守れると思っていた。関係を断てば、巻き込まずに済むと信じていた。だが、すべてが間違いだった。何一つ、守れていない。むしろ……失いかけている。
「君をひとりにするんじゃなかった……!」
後悔が、喉を焼く。彼女の鼓動が、冷たくなっていく気がして、怖かった。だから、そっとその身体を横抱きにし、立ち上がる。
──この命に代えても、もう絶対に手を離さない。崩れた瓦礫を踏み越え、炎の中を歩き出した。身体のあちこちが痛む。だが、構っている暇などなかった。
やがて──出口の先に、人影が見えた。
「……降谷さん!?」
「風見……か……」
風見が、驚いた顔で駆け寄ってくる。
「無事ですか!?1人で乗り込んでいかれるからみんな驚いて……って、その女性が……!人質ですか!?」
「…救急要請を。すぐに。早く、ここから──」
「は、はいっ!!救急班、すぐにこっちに来てください!!──搬送準備を!!」
風見が無線で怒鳴るように指示を飛ばしながら走り去る。その間も、僕は彼女の身体を一度も手放さなかった。壊れ物を抱くように、優しく、でも決して落とさぬように、強く。
その姿を、ひとりの若手警察官が遠くから見ていた。
──爆炎の中から現れたその光景は、まるで、
炎の中から“愛”を抱えて生還した男のようだったと後に言う。
涙のように舞い落ちる灰のなかで、彼の腕に抱かれた女性は、眠るように目を閉じていた。
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