10

薄明の中、廊下を歩く名前はひどく上機嫌だった。
包帯の取れた腕を見て、口角があがる。
実習で不在だった伊作にかわり、今しがた校医である新野から完治のお墨付きを貰ってきたのだ。
傷跡も残ることはないらしい。見た目にはまあまあ酷い瘡蓋だったため、新野の言葉に名前はほっとした。
医務室から出て、目指すは教職長屋。
今日こそ首を縦に振ってもらわなくてはと、名前は意気込んだ。




「土井先生、いらっしゃいますか」
「いますよ。どうぞ」

扉を開ければ、土井はいつもの座卓に向かい筆を走らせていた。
灯された蝋燭の火がゆらめき、温かな光が土井の横顔を照らしている。
だがその横顔に普段の柔和さはなく、ひくひくと引きつっていた。
タイミングが悪かったらしい。出直すべく名前が踵を返そうとすると、土井と視線が合った。

「そのまま待っててもらっていいかい?あとちょっとで終わるから」

少し覇気がないが、いつもと変わらぬ雰囲気となった土井に名前は胸を撫で下ろすと、言われたとおり床に座り込んだ。
手持ちぶさたからキョロキョロと部屋を見回したが、行儀が悪いなとすぐにやめた。
土井と相部屋の山田が居れば雑談を交わせのだが、残念ながら不在らしい。
しばらく待つと作業が終わったのか、土井が名前の前へと腰かけた。

「待たせてすまない。は組の子たちのテストの採点だけ終わらせてしまいたくて」
「いえ、私が急にお邪魔したので。こちらこそお忙しい時にすみません」

あんな険しい顔をするほどだ、相当忙しいのだろうと訪ねると、土井はいやと口を開いた。

「忙しさは大したことないんだ。は組のテストの点数でちょっとこう、思うところがあってね」

話ぶりからするにどうやらテストの点数が良くなかったらしい。
しかし、土井が熱心に教えているのは、は組で同じ授業を受けている名前にも分かる。
最前列で堂々と居眠りしている子たちもいるが。

「は組の子たち、テスト苦手なんですか?」

名前の質問に土井は黙ったまま片手を広げた。5本指ということは。

「50点!すごい半分できてるじゃないですか!」
「……いや、100点満点中の5点なんだ」

賛辞もつかの間、土井のまさかの言葉に名前も固まった。
苦手な子もいるよねくらいに思っていたのだが、庄左ヱ門以外は軒並み似たような点数だと言う。
あー、えーと言葉に詰まる名前に土井は困ったように眉を下げた。
なんとも言えない土井の表情に焦った名前は、そういえばと言葉を発した。

「伊作くんが、は組の子たちはまさかの時にとても強いんだ!って言ってましたよ。それはきっと土井先生が教えたことが根底にあるからでして。
ほら、種が無かったら芽吹こうにも芽吹けないといいますか。
テストはその、ちょっとあれかもですが、それも伸び代がたくさんあるということで、えっと……」

あたふたとなんとか言葉を紡ごうと必死な名前に土井はふふと笑みがこぼれた。
励まそうとしてくれているのだろう、その気持ちが伝わってくる。
特段落ち込んでいたわけではなかったが、名前の言った「教えたことは根底にある」に土井は確かにそうだなと思った。
彼らはこれまで様々な厄介事を介して、その身で学び、成長している。
まぁ、それが一切、本当これっぽっちもテストに反映されていないのは、嘆かわしいことこの上ないが。

「ありがとう名字さん。おかげで元気が出たよ。ところで本題を忘れてないかい?」
「そうでした」

は組のテスト事情の衝撃で頭から吹き飛んでいた本来の目的を思い出す。
気をとりなおし、名前は土井に伝えた。

「今日、新野先生から完治のお墨付きをもらいました。ですので、明日からは何かお手伝いさせて貰いたいです」

小平太との学園内巡りの翌日、再度手伝いのお願いをした時に土井から言われたのだ。
「まずは怪我をしっかり治すこと。お手伝いはそれからです」と。
怪我をぶり返しては意味がないでしょうと諭され、ここまで甘える形になってしまったが、この学園に来て名前がやったことは、ただ1回の皿洗いそれだけである。
このままタダ飯食らいでは居たくないし、居れない。
真剣な面持ちで腕を捲り、証拠として包帯が取れましたと見せる名前に土井は分かってますよと笑った。

「ちゃんと学園長に相談しましたよ。今日あたり名字さんが来ると踏んでいたからね。それで明日から早速お願いしたいことがあるんだけどいいかな?」
「大丈夫です!」

名前の快い返事に、よろしいと一つ頷き、土井は学園長からの指示を読み上げた。





布巾で食台を拭くその姿はいつものおばちゃんのものではない。
見慣れた食堂に見慣れない後ろ姿。
その人物とほんの数日前に邂逅していた小平太と長次は目を見合わせにっと笑った。
食堂に来る最中聞こえてきた「新しい給仕の人」という下級生の話声から、予想した通りの人物に小平太は声をかけた。

「やっぱり名前だったか」
「小平太くんに中在家くん、おはよう」

振り返った先に居た二人に名前は笑みを浮かべ挨拶をすると、朝食の配膳へとまわった。
忍に限らず、人は体が資本である。
その血肉となる食を支える食堂のおばちゃんは、この学園にとってなくてはならない存在だ。そしてその為には、おばちゃん自身の体も守る必要があるのだと学園長は言う。
これまで食材の調達から調理、配膳、片付けまでおばちゃんが一人でこなしていたが、かなりの重労働だ。
そこでおばちゃんの負担軽減のため、学園長の指示のもと、名前が配膳等に入る運びとなったのだ。

味噌汁をよそい、ご飯を盛り、おばちゃんが盛り付けたおかずをお盆に乗せ生徒に渡す。
それが名前にあてられた役割だ。
やっと少し慣れ、要領良く出来るようになってきたところである。

「はい。二人ともお待ちどおさま」

山盛りの米に味噌汁、焼き魚と切干大根の煮物の小鉢を乗せたお盆二つを差し出す。
お盆を受け取って、小平太はからかうように言った。

「ところで、「頭がちょっとあれな給仕の人」も名前のことか?」

新しい給仕の人という話声と同様に聞こえてきたそれ。
小平太の問いかけに、「そうだよ」と名前は笑みを溢した。
初日の今日、名前は朝から好奇の視線を浴びに浴びた。
誰だ誰だと問う声が生徒から上がる中、意気揚々と答えたのは、なぜか1年は組の面々だった。

「「ちょっと前から一緒に授業を受けてる名字名前さんです!近くの山で倒れていたせいで、頭がちょっとあれなんです!」」

は組のなんとも雑な説明に名前は苦笑いするしかない。
記憶があやふやだとは言いはしたが、「頭がちょっとあれ」ではかなり意味が違ってくる。
しかし、その後も配膳に四苦八苦していたため訂正する間などなく、生徒らの名前への認識は「頭がちょっとあれな人」となったわけである。
名前の話した事の経緯に小平太、長次はなるほどと笑った。

「流石1年は組だな!」
「……だがいいのか?」
「うん。みんな私の代わりに説明してくれただけですし、わざわざ訂正する必要もないですから」

私は頭おかしくありませんよと触れ回る方が、本当に頭があれだと思われると名前が笑えば、それもそうだなと小平太と長次も頷いた。
ご飯が冷めるといけないと名前が二人をせっついていると後ろ声がかかった。

「あれ、名前さん?」

名を呼ばれ名前が振り向いた先、そこに居たのは立花仙蔵。そして後ろには潮江文次郎がいた。
実習から帰還した同輩の無事な姿に小平太は顔を綻ばせたが、足りない面子にはてと首を傾げた。

「伊作と留三郎はどうしたんだ?」
「伊作は遭遇した猪に追われ、留三郎はそれを追いかけて行った」
置いてきたとしれっと言う仙蔵に小平太もいつものあれかと納得した。長次は巻き込まれ留三郎にそっと合掌を送る。

「それにしても、どうして名前さんが割烹着を?」
「今日からおばちゃんのお手伝いをすることになりまして。今お二人の分も準備しますね」

そうなんですねと表情を緩めた仙蔵とは対照的に文次郎の顔は険しい。
そうだと、名前は文次郎へと近づいた。
以前医務室で会いはしたものの、名前をまだ名乗っていなかったはずだ。

「あの、私は」
「あいつらがどうかは知らんが、俺はまだあんたを信用してねぇ」

名を告げようと口を開いた名前の言葉を遮ったのは文次郎の鋭い声だった。
ばちりと合ったその視線は厳しく、真っ直ぐ名前を見据えている。
呆然とする名前をそのままに文次郎は踵を返した。
仙蔵や小平太が嗜めるも、歩みは止まらない。
名前は食堂から出ていく文次郎の姿を、ただただ黙って見るしか出来なかった。




◇◇◇




仙蔵は学園長の庵へと向かう中、地獄のような空気を作った同室に対し盛大に舌打ちをした。
怒るでも泣くでもなく沈黙した名前、「何だあれは」と冷静に矢羽音を飛ばしてきた小平太と笑顔の長次にすまないと一言だけ告げ出てきたのだ。
小平太や長次が怒るもの当然だ。忍ならば取り繕うぐらいやってのけろと仙蔵は独りごちる。
庵へと続く廊下に文次郎の姿を見つけ、横に並ぶと普段よりも一段と隈の濃い目を仙蔵はジロリと睨み付けた。

「何を思っての発言かは知らんが、小平太と長次はお前がどうにかしろ」
「すまん」

普段よりも低い仙蔵の声に、文次郎はただ一言謝った。先ほどの食堂での非は素直に認めるしかない。
失策だったと文次郎自身も分かっていた。あそこは友好的な態度をとり、調べていくが得策であると。
相手の態度に少しでも裏の感情が見え隠れしていたならば、文次郎もその得策を遂行出来ただろう。
やはり何かあるのだろう、それ暴いてやるぞとギンギンに意気込んで。
だが名前から打算や惑わすような感情など一切感じられず、戸惑ったのだ。
文次郎の眉間にぐっと皺がよる。仙蔵は文次郎を横目に、行くぞと声をかけた。
閉められた庵の扉の前に二人並び姿勢を正す。
中からの「入れ」を号令に、仙蔵と文次郎は室内へと入ると、畏まった。
彼らの前には茶立てに興じる学園長の姿があった。

「おお、仙蔵に文次郎、よく無事に帰った。実習は滞りなく済んだようじゃな」
「はい、あの城も暫くは戦をしかけようなどと思わないかと」

今回の実習報告に特筆することはない。真に問いたい事は別にあるのだ。
仙蔵は一呼吸置くと、口を開いた。

「学園長先生、私が伺いたいのは名字名前の件です。
好きなだけ調べればよいと私には言い、彼女には出自は話すなと隠蔽を指示しておられた。学園長は一体何を考えておられるのですか」

学園長に仙蔵は険しい表情で迫った。
片や暴け、片や隠せなど矛盾もいいところだと。

「仙蔵、そうかっかするでない。文次郎、お主は名前をどう見ておる」
「……私はまだあの人を判断できるほどの何かを掴めておりません」

彼女─名前に関して未だ何もわからないのだ。密偵ではない、では何者なのか。部屋に忍び込めど荷物の一つもない、出自もわからない、1年は組での話を信じるならば記憶もあやふやだ。なに一つ基準となるものがないのだ。
まるで幽霊や妖と対峙しているのではと思ってしまうほどに。

「お主にしては珍しいのう。して、その何かとやらはいつ掴めるんじゃ?」
「それは……」

文次郎は言葉に詰まった。目処など一切たっていないからだ。
その文次郎の様子を一瞥し、学園長はではと言葉を続けた。

「久しぶりにわしから宿題を出そう。
そうじゃのう、残り5日猶予を与える。名字名前について6年皆の意見を集約せよ。
その結果、彼女を信用できかねると言うなら、残念じゃが名前ちゃんには学園を去って貰うのがよかろう」

個々ではなく6年総意として意見を出せと告げた学園長に、仙蔵は声を荒げた。

「待ってください!私たちの一存で彼女のことを決めて良いのですか?」
「よいよい」

人の、名前の進退を左右するものだというのに、あまりにも軽い学園長の返事に仙蔵は愕然とした。
仙蔵の隣、文次郎も同様の表情だ。

「わしからアドバイスじゃ。人を見る時に必要なものは何なのか。それを良く考えることじゃ。人の本質は隠せるものではない」

では下がってよいぞと学園長が言えば、仙蔵と文次郎は戸惑いながら庵を後にした。
二人の気配が完全に消えた後、見計らったように土井が学園長の前に姿を現した。
音を立てることなく、床に畏まる。

「あんなこと言って良かったんですか、学園長」

土井も今初めて聞かされた6年への宿題に戸惑っていた。
思いつきにしては些か乱暴すぎではないかと。
土井の嗜める声も意に介さず、学園長はのんびりと茶を啜った。

「あやつらも卒業すれば一人前の忍。言動には今以上の重みがのしかかる。それこそ他人の人生を左右するほどにの。なに、あやつらなら大丈夫じゃ。信用しておる」
「学園長……」

その言葉に土井はじんと胸が熱くなった。
だが、言葉と姿が伴わないのがこの老人のお約束でもある。
土井は苦笑した。せっかく良いことを言っているというのに、両手にある煎餅のせいでいろいろと台無しなんだよなと。



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