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生徒らの往来も落ち着いた頃、おばちゃんからの「名前ちゃんもお昼ご飯食べちゃって」という言葉に甘え、名前は一人食卓についた。
おいしいかいと聞くおばちゃんに名前は笑顔を返す。しかしあの日、潮江文次郎と邂逅した日から名前はぼんやりとしか味を感じなくなっていた。
おばちゃんの料理はいつも通りだ。もし違うなら生徒から指摘がある。名前はこの原因が自分自身にあると理解していた。
せっかく作ってくれたのに申し訳ないと思いながら、名前は目の前のご飯を咀嚼する。

──信用してねぇ。

文次郎のその言葉は見事に名前の心を突き刺していた。
名前自身も、そうだよなと思ったのだ。
信用してもらえるほどの事など何も出来ていないのだからと。
小平太らは気にするなと励ましてくれたが、彼らとも友好的な関係を築けた気になっていただけで、彼らの優しさで成り立っていたに過ぎない。
それに甘えているわけにはいかない。彼らに信用してもらうにはどうしたら良いか。
考え出した結論は、当たり前だがまず与えられた仕事をきちんとすること。もう一つは話をし、名字名前を知ってもらうことだった。
だが、それも上手く行きそうになく、名前は肩を落とした。
あの日から丸2日目、名前は文次郎が来るのを待ったが、朝昼晩どの時間帯にも食堂に姿を現さなかった。
会えたところで話を聞いてくれるかは不明だが、会えなければどうこうのしようもない。
仙蔵に文次郎が来ない理由を聞いてみたものの、返ってきた答えは
「あいつはギンギンに忍者しているだけですのでお気になさらず」
という、本当なのかはぐらかしているのかよく分からないものだった。
避けられているのだろうなと名前は思った。
信用してもらいたい。会って、話をしたい。
しかしいくら強く思っても、それは名前の勝手な言い分であり、相手もそうとは限らない。
これ以上は独り善がりだろうな。
意を決すると、名前はおばちゃんへと声をかけた。






学園長から宿題を提示されてから4日目の夜をむかえ、仙蔵は溜め息をついた。
多数決であればとっくに5対1で決まりだが、総意という条件のため、例の宿題はまだ終わっていない。
集まりはするものの、肝心の文次郎が何も言葉を発しないため議論も何も無いのだ。宿題を出された日以降も、幾度となく名前を監察しているというのにである。
今もい組の部屋に皆で居るが、小平太はそっぽを向いて寝転がり、長次は無言を貫き、伊作はむすりとした顔のまま薬研を挽き、留三郎はここぞとばかりに文次郎に激を飛ばして喧嘩をおっぱじめている。
集まっている意味はあるのかと問いたくなるような光景はここ4日間変わっていない。
宿題の期限は明日。一向に決着のつきそうのない現状に仙蔵は再度深い溜め息をついた。

東の空が白み始めた頃に忍たまたちは動き出す。早朝の運動や鍛練がある為だ。
6年ともなればさらに早く、夜明け前に起床し、それぞれ鍛練や勉学、委員会活動に勤しむこともままある。
昨晩の不毛な時間から数刻。文次郎と仙蔵は部屋の中で各々の作業に没頭していた。
文次郎は委員会活動に必要な帳簿のため座卓へと向かい筆を動かし、仙蔵は自身の武器である宝禄火矢の手入れの最中である。
そんな時だった。

「あの人、食堂の手伝いやめたんだな」

突然の文次郎の言葉に、宝禄火矢の導火線を縒っていた仙蔵はぴたりと手を止めた。
名前について何か言及するのか。そう思い次の言葉を待ったが、何も無い。
文次郎の煮え切らない態度に、仙蔵は苛立たしげにはぁと息を吐いた。
学園内に居てもわざわざ冷飯を食べ、徹夜鍛練を己に課すなど常にギンギンに忍者している文次郎の姿勢を仙蔵は呆れもしているが、同じくらいに敬ってもいた。
だが今はどうだ、そのギンギンさは鳴りを潜めている。
視野が狭くなっているのか、彼女の進退がかかり、ひよっているからなのかわからないが、仙蔵はもどかしかった。
これまで同室のよしみと文次郎の意思を尊重したが、それももうやめだ。
仙蔵は立ち上がるとすうと目を細めた。めがけるは少し丸まっている背中。
長い足を振りかぶる。これまで募ったイライラを足先に込め、仙蔵は躊躇なく文次郎の背中を蹴飛ばした。
鈍い音と共に文次郎の口から漏れた呻き声。完成間近だった帳簿は墨でぐちゃりと歪んだ。

「仙蔵!なにしやがる!」
「文次郎いい加減にしろ、もう終いだ」

文次郎の怒り声など気にもせず、さっさと食堂裏に行ってこいと仙蔵は廊下を指差した。
文次郎は「食堂裏?」と怪訝な顔で問い返す。

「名前さんがいるはずだ。話をしてくるんだな」
「いや、俺は……」
「まさか周りを漁った程度で話もせず相手を判断するつもりか?随分なおごりだな。いつものギンギンさはどこへ消え失せた」

仙蔵の叱責に文次郎は押し黙った。
言えるわけがなかった。正直どう接すればいいのか分からなくなっているなど。
だが、例の締め切りは今日。ここまで結論を出せずにずるずると来てしまったのは、己の落ち度である。
仙蔵の言い分はもっともだと文次郎は無言で立ち上がると、部屋の扉を開けた。
その背中に向け、仙蔵は先ほどとは変わり静かに言葉を投げ掛けた。

「口止めされていだが、この際だ。彼女は食堂の仕事をやめてなどいない。手伝う内容を変え時間をずらしたんだ、自分が避けられていると悟り、お前が食堂に来れるようにとな。
おばちゃんのご飯をちゃんと食べて欲しいんだと言っていたぞ」

その言葉に文次郎は一瞬目を見開くと、すぐに部屋から姿を消した。






太陽はまだ顔を出したばかりで、反対側の空には星の瞬きが見える中、名前は食堂裏の井戸で胡瓜や茄子などの野菜を水洗いしていた。
連日の早起きに体がまだ慣れていないせいか、あふと口から欠伸が出る。
またもや出てきそうな欠伸をかみ殺しながら、名前は雑務をせっせとこなしていく。
配膳が出来ない変わりにと野菜の下準備や食器の準備など、皆が食事をとりにくる前までおばちゃんを手伝うと進言したのだ。
おばちゃんには無理しなくていいと言われたが、仕事を放り投げることはしたくなかった。
次に控えるは牛蒡。名前は水嵩の減った盥へ水を継ぎ足すため桶を井戸へと放り込んだ。いっぱいに水を入れ引き上げていく。
野菜を洗い終えたら、テーブルを拭いて、食器を出してそれから。
考え事をしていたせいか、力が足りなかったからか、縄がずるりと滑り名前の掌を擦る。急いで縄を掴み直そうとするも、掌に走った痛みで上手く握れず、ばちゃんと桶が水面を打ち付けた音が朝の静寂を破った。
じくじくと痛む掌。見れば出来ていたマメがいくつか潰れ、血がじわりと滲んでいた。
名前は項垂れた。
役に立ちたい。立たなきゃいけない。信用を得たい。
そう思うのに、水汲み一つ上手く出来ない不甲斐ない自分に腹が立った。
出て行くしかないのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるも、名前はすぐに自嘲した。
何も知らない、何も出来ない、それで一体何処に行けるというのか。そんな意気地もないくせにと。
すると突然聞こえた、異音。
ざりっという地面を擦った音に名前は顔を上げた。
真っ直ぐにこちらを見つめる男─文次郎の姿に目を見開く。
何か用だろうかと思うも、避けられていた自分に用などあるはずがないとすぐに考えを改めた。おそらく用事があるのはこの井戸だろうと。

「ごめんなさい、すぐにどきますね」

そう告げるも、文次郎に反応はない。
どうしたのだろうか。そう思った名前だが、文次郎がある1点を見つめていることに気づいた。
それが自分の手だと分かり、名前は血だらけの手をさっと背に隠した。
水汲みすらまともに出来ないのかと思っただろうか。ただでさえ疎まれているのに、これ以上迷惑者になりたくない。
この情けない状況に触れないで欲しいと願いながら、名前はへらりと笑った。
だが、文次郎の目にはそうは映らなかった。
口許は弧を描くも、眉はハの字で今にも泣き出してしまいそうな表情に見えた。
あれで笑っているつもりなのだろうか。

──人の本質はそう隠せるものではない。

名前のへんてこな表情を前に、学園長の言葉が文次郎の頭をよぎった。
バカタレが。己へと低く呟くと文次郎は口を一文字に結んだ。
無言でずんずんと近づき、名前の手首を掴む。
血の滲んだ手は肉厚もなく、武器はおろか鍬でさえ振るえそうにないほどに腕も細い。
どう考えても無理だ、この人に密偵など。
ずっと前から自分の中で出ていたその答え。
彼女は端から何一つ隠そうとすらしていなかった。ただ己が真正面から彼女を名字名前という人を見ようとしていなかっただけだ。
驚きか怯えか固まったままの名前に文次郎はぐっと眉を寄せると、小さく「すまない」と呟いた。


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