取れたばかりなのにと苦笑いを浮かべながら包帯を巻く伊作に、名前はごめんねと告げる。
無言のままの文次郎に手をひかれ名前が連れてこられたのは医務室だった。
ここでお世話になるのはこれで何度目だろうか。
この薬草の匂いも最初ほど気にならない。つまり慣れてしまうほどにこの部屋に来ているということである。
申し訳なさに沈んでいる名前の側では、普通の人には聞き取れもしない音がひっきりなしに飛んでいた。
それは矢羽音という忍者が使う暗号のような特殊な言葉。
その矢羽音を飛ばしているのは現在進行形で名前の治療にあたる伊作だ。名前に優しげな笑みを浮かべる一方で、その矢羽音は刺だらけだった。
“随分時間がかかったね、何してたの文次郎”
“普段のギンギンさはどこに落としてきたの?”
“あまりの腑抜け具合に心配しちゃったよ”
留三郎の蔑み、仙蔵や小平太のような真正面からの物理攻撃、長次のど正論説教の方が幾分かましだと思うほどの伊作の口撃。
ちくちくどころではない、ぶすりぶすりと突き刺すようなそれを文次郎は甘んじて受け入れた。
彼女を密偵と疑ったことは忍としては当然だった。
しかし、早々に自身の中で答えが出ていたにも関わらず、証拠や決定打がないだけで、歩みよろうとした彼女を突っぱね傷つけてしまった責任は己にあると自認しているからだ。
「これまでの態度、すまなかった」
怪我の治療が終わるやいなや、深く頭を下げる文次郎に名前は瞠目した。
急な謝罪に困惑した名前は助けを求め伊作を見るものの、当の伊作は素知らぬ顔で包帯を片付けている。
「あの、謝罪は本当にいいんです。信用してもらえなかったのは私に責任と言いますか、原因がありますし。良かったんです、あの言葉で色々と気づけたので」
「そうだとしてもあんたが傷ついたことに変わりないだろ。密偵や間者と疑い続けて悪かった」
再度頭を下げる文次郎と困り顔の名前。
しばらく続く膠着状態に、下手をすれば昼までこのままだなと伊作は助け船を出した。
「名前さんさえ良ければだけど、謝罪を受けてあげてくれる?文次郎も頑固だから折れないし」
もちろん1発殴って許さず終わりでもいいけどと笑う伊作に、名前はぶんぶんと首を横に振ると、ではと言葉を紡いだ。
「謝罪していただきありがとうございます。
改めまして、名字名前です。良ければこれから私を知っていってもらえると嬉しいです」
「ああ、分かってる。俺は潮江文次郎だ。とりあえずなんだが、その畏まった言葉遣いやめねぇか?」
話づれぇと文次郎は頭を掻いた。
小平太同様、文次郎も敬語はあまり得意ではないのだ。目上にはやむなしと使うが、それ以外は出来れば避けたい。
名前は了承の相槌をうった。やっと会話が出来た嬉しさから頬が緩む。
そうだと名前は文次郎に質問を投げ掛けた。
「潮江くん、“かんじゃ”ってどういう意味なのかな?」
患者という意味ではないのは話の流れから分かったものの、どういう意味なのかと名前は気になったのだ。
初めて聞く言葉のため教えて欲しいと名前が言うや、文次郎は脱力した。
仙蔵から浮世離れしていると聞いてはいたが、想像以上だと。
「間者の意味すらも知らない奴を疑ってたのかよ、俺は」
あまりに阿保らしい展開に文次郎が肩を落としていると、医務室の扉がすぱんと音を立てて開いた。
そこに並ぶは、仙蔵、小平太、長次、留三郎。
皆一様に、ようやくかという顔をしていた。
「遅ぇんだよ、馬鹿文次!」
「なんだと?!」
留三郎が苦言を呈すと、文次郎はすぐ居直った。まるで条件反射、ぎりぎりと顔を合わせ睨み合う。
「馬鹿はお前だ、馬鹿留!」
「はっ!吠えてろ、腑抜けの文次郎ー」
突如始まった2人の罵り合いに名前はあっけにとられたが、他の4人にとってはいつものこと。
犬と猿のじゃれあいには無視を決め込んだ。
「これで全員一致だな」
「……異論無し」
「よし!行くぞ名前!」
仙蔵と長次の言葉を皮切りに、小平太は早朝など関係ないと言わんばかりの大きな声を上げ名前の腕を掴むと、いけいけどんどんと歩き出した。
一体どこへという名前の問いかけは、隣を歩く伊作によって、まあいいからと流される。
着いた先は学園長の庵。名前がここに訪れるのは初めてだった。
まだ寝間着姿のままの学園長の前にい組、ろ組、は組、名前の順で右横並びに座わる。
「名前は伊作の隣な!」と小平太に言われるがまま従ったが、名前は困惑していた。この並びに自分がいるのは明らかに場違いではないかと、そわそわとして落ち着かない。
「なんじゃ、こんな朝の早くから」
「名字名前について報告に参りました」
学園長は文次郎の発した言葉に片目を開け寝ぼけ眼のふりを解くと、一瞬にして普段の着物へと姿を変えた。
かたや驚いたのは名前だ。まさか自分が主題だとは想像もしていなかったからだ。
「ふむ、では答えを聞こうか。のう土井先生」
「はっ」
学園長の声かけと共に土井が姿を現した。
一体どこからと名前が目を丸くしていると、土井と目が合った。
名前の驚きように、いつぞやの学園長と同じく「忍者だからね」と茶目っ気を込めてにっこりと笑うと、土井は学園長の隣へと腰を下ろした。
「それで、お前たちはこの名字名前をどう見る?」
真剣な学園長の声。
報告とは何だろうか。彼らはどう答えるのだろうか。
一抹の不安に、名前はぎゅっと手を握り込む。するとその手を別の手が覆った。
それは隣に座る伊作の手だった。
視線は合わないが、暖かな手のぬくもりと小さくともはっきりと聞こえた「大丈夫だよ」に名前は少し力が抜けた。
「名字名前の人となりですが──」
真剣な声色で発した文次郎の言葉に、名前は背筋を伸ばす。
ちゃんと聞かなきゃいけない、どんな言葉でもと。
だが、そんな名前の健気な思いは直後に続いた言葉に散った。
「知識と素養が皆無です」
「世間知らずです」
文次郎、仙蔵が呆れまじりに報告し、
「……文字があまり得手ではありません」
「驚くほど運動音痴だ!」
長次はぼそりと、小平太はわははと笑って告げ、
「大丈夫かと思うほどに隙だらけで」
「よく怪我をします」
心配げな表情の留三郎と伊作の言葉が続いた。
証拠ですと言わんばかりに、伊作は真新しい包帯が巻かれた名前の手を持ち上げる。
土井は、目前の名前の様子に苦笑した。
恥ずかしさからだろう、顔は真っ赤に色づき、その目は物言いたげだ。ただ概ね事実な為、反論も出来ないといったところだろうか。
しかしそれも一時のこと、次の文次郎の締めの言葉にその表情は変化する。
「名前以外ほぼ何も分からず、出自も依然として不明のままですが我々は名字名前の素性を、密偵でもなんでもないただの女子である、と決着しました。以上です!」
「よろしい、大正解じゃ!」
文次郎の総括に学園長は満足げに頷き、名前は安堵の表情を浮かべた。
名前ちゃんを怪しくあつらえた甲斐があったわいと学園長が種明かしをすれば、6年生から非難の声が飛んだ。
一体どうしてそんなしちめんどうなことをしたのか。
その問いに、学園長は落ち着いた声色ながら、しっかりと意思を込めて答えた。
「彼女はちと稀有な存在なため、勝手に教材となってもらった。
情報はもちろん大切、6年にもなればそれがどれだけ重要かは言わずもがなじゃろう。
しかし、それが時に邪魔なものになる時もある。特に人と対する時にはの。人の本質を上部だけで見ようとするのはいけない。世の中いろんな事情を抱えた人間がおる」
ほんの数年前まで笑顔もぎこちなく、定かな名前すら持たない青年もそうだった。
山田が初めて彼をここへ連れて来た時のことを学園長は今でも覚えているのだ。
感情すらもどこかに置いてきたのだろうかと思ってしまったほどに色々なものが欠けていた青年。
たくさんの人や事に触れ、今の彼にその面影はない。
6年生らに穏やかな笑みを向ける土井を横目に学園長は小さく笑うと、次いで名前を見た。
「名前ちゃんには悪いことをした、いろいろ黙っておることは厄介じゃったろう」
すまないと謝る学園長に名前は、いえと首を振った。
結果としては、それが名前にとって逃げ道となっていたからだ。
未来から来たは言ってはいけない。それが免罪符となったおかげで出自の追及や素性不明が通用した。
だが、それももうおしまいである。
学園長が隠蔽の種明かしをしたということは、つまりそう言うことなのだろう。
名前はこの場から逃げ出したくなった。
この時代に来た日、土井に告げた時には信じて貰えたらいいな程度だった。過度な期待はしなかった。
だが今は違う。彼らと少し打ち解けた今、名前の胸に湧いたのは、信じて欲しいという思いだ。
名前は下を向いた。
嘘は吐きたくない。せめて誠実に。その思いは変わらない。
だが、今は真実を聞いた彼らの反応を見るのが心底怖かった。
「それで、名前さんは一体どこから来たんですか?」
仙蔵の問いかけに名前はびくりと小さく肩を震わせた。ついにこの時が来てしまったと。
しかしである。ついに来たと思ったのは名前だけではなかった。
目をきらりと光らせ立ち上がったのは学園長。
彼もこの時を今か今かと待っていたのだ。
「名前ちゃんは、未来から来たんじゃー!」
学園長の得意満面な声が庵内に木霊した。