19

彼女が目覚めたら声かけをと新野に願い、自室へと戻った土井の顔は険しかった。
腹が立つのだ、自身の未熟さと不甲斐なさに。
そんな土井の様子に、待機していた山田は大事なのかと危惧した。

「そんなに酷いのか、名前ちゃんは?」
「いえ、新野先生は身体は心配することないと。ですが……」

土井は医務室でのことを山田に話した。
これまでの名前の様子や言動、新野の見立てに至るまで追って説明する。
仔細を聞いた山田はなるほどと小さく唸った。

「名前ちゃんはいい子過ぎるのだろうな」

泣くなり喚くなりしてくれれば、対処のしようもあったものをと嘆く。
結果としては悪い方へと転がってしまったが、彼女なりになんとか消化しなければと踠いたのだろうなと山田は察する。
心苦しそうな表情を浮かべる土井の肩を山田はとんと叩いた。

「お前さんが責任を感じることはないぞ、土井先生」
「いえ、私はもっと名字さんを気に掛けるべきでした」

誰しもが日常を不変と疑わない。浮き沈みはあれど、明日も同じように日は巡ってくるものだと無意識下に思っている。
それはいつの世も変わらないだろう。聞けば名前のいた時代は戦などもないらしい。
ならば余計に、突如として日常が一変し、感じた恐怖は計り知れない。
その恐ろしさは私が一番身をもって知っているのに、と土井は自責の念にかられた。
数日前、落窪物語を読み終えたあの晩。
急に黙り込み俯いた名前の表情の陰りを思い出す。
全ては後の祭りだが、あれが兆候だったのだろう。疲れたかと問うた己の浅はかさを悔やめど、今さらどうしようもない。
土井は山田に尋ねた。

「山田先生、名字さんは本心を話してくれるでしょうか」
「そうだなぁ、……難しいかもしれんな」

名前が心を隠している真意は分からない。
ただ、意図的にそうしているのだから、話してくれと問い尋ねたところで素直に話す可能性は低いだろう。
そしておそらくまた隠し取り繕う。それでは同じことを繰り返すだけだ。
策が無いことはない。ただ、それは彼女には酷かもしれないと山田はしばし考え込んだ。

「……土井先生、嫌われる覚悟はあるか?」

山田の真剣な表情に土井はぐっと口を結ぶと、しかりと頷いた。





◇◇◇





眠りから覚め、名前はぼんやりと周りを見渡した。
視界に入った薬棚と積まれている包帯。医務室だとすぐに理解した。

「起きたようだね、良かった」

優しく穏やかな声へと顔を向ければ、そこに居たのは校医である新野だった。
しんべヱに負けず劣らずの太い垂れ眉がいつも以上に下がっていた。

「新野先生……ご心配おかけしてすみません」
「そんなことは気にしなくていい。体調はどうかな?」

そう問われてようやく、名前は体調のことを思い出した。
布団からのそりと身体を起こす。
倒れる直前まであった酷い頭痛と身体の倦怠感はだいぶ治まっていた。

「まだ頭はぼんやりと変な感じはありますけど、体調はだいぶ楽です」
「そうか、それはなにより。睡眠は大切だからね。その隈だ、だいぶ眠れていなかったのだろう」

新野の指摘に、名前は謝罪した。
すぐ治るだろうと軽く見ていたことを伝えると、新野は口調は柔らかながらしっかりと釘を刺した。

「次からはちゃんと申し出ること。無理はしないように。私はちょっと出るから、ゆっくりしていなさい」

部屋を出ていく新野の背を見送ると、名前は項垂れた。
外はもう暗い。今の今まで新野は居てくれたのだろう。
本当に面倒をかけてばかりだ。
看護してくれた新野はもちろん、誰かが必死に声をかけてくれていたことを名前はうすらぼんやりと覚えていた。
直前まで一緒にいた、は組の子たちだろうか。
楽しくかくれんぼをしていた彼らに悪いことをしてしまった。
名前はぎゅっと唇を噛んだ。

もっとちゃんとしなきゃ。これ以上、迷惑をかけないように、もっと──

名前がそう自身を戒めていると、こんこんと扉を叩く音が響いた。
返事をする間もなく開かれた扉。そこに見えた土井の表情に、名前は身を固くした。
いつものような柔和さは無い。
土井を直視出来ず、名前の視線はそろそろと下がった。
近づいていた衣擦れの音がやみ、側に座ったのが分かる。
流れる気まずい空気と土井のただならぬ雰囲気にあてられる。
だが今回の件は悪いのは完全に自分だ。
名前は意を決して顔を上げ、土井と目を合わせると頭を下げた。

「ご心配をおかけしてすみませんでした」
「そうだね。すごく心配した。私も皆も。
名字さん、どうして眠れていないことを黙っていたんだ」
「そのうち眠れるようになるだろうって思っていて。でももう大丈夫です。体調もお昼よりも大分良くなりましたし」

努めて明るく振る舞う名前に土井は眉根を寄せた。
“大丈夫”とはこんなに危うい言葉だったろうかと思う。
笑顔で発せられているが、これは拒絶だ。
線を引き、越えないで、触れないでと言っているようにしか聞こえなかった。

─まだ閉ざすようであれば、その時は無理矢理に破るしかあるまい

山田との取り決めを思い出し、土井はずきりと胃が痛んだ。
今から故意に彼女を傷つける。必要悪と言えば聞こえはいいが、出来ることなら避けたかった。
幼い子どもであれば、真綿のような優しい嘘で包み込めた。だが彼女は違う。望みの薄い綺麗事も、上っ面の優しい言葉もおそらく心に響かない。
残酷でも事実を伝えることで打開出来るなら。
土井はすまないと心の内で伝え、名前を見据え静かに口を開いた。

「名字さんが来てから約ひと月。これまで、君が現れた山に何度も足を運んだ。何か帰る手がかりになるようなものはないかと探して。
私だけじゃない。山田先生も、他の先生方も。何か異変はないか、君と同じような人はいないか町でも聞いた。……誰もいないんだ、君以外」

土井の口から語られる言葉を、名前はただただ黙って聞いていた。
真っ直ぐな眼差しから、説くような落ち着いた声色から土井の真剣さがひしひしと伝わる。
手がかりになるような事は何一つ無い。そんな非情な現実を突きつけられ、名前は「そうですか」と小さく呟いた。
絶望感はある。だが同時に心に湧いたのは、やっぱりかという諦めにも似た感情だった。
二度と帰れないかもしれない。それは何度も何度も名前の頭を過っていた。最悪でありながら、一番可能性が高いと思っていた結末だったからだ。

「実はうすうす思ってました、帰れないんだろうなってことは。これまで兆しも何も無かったですしね。
大丈夫です!すっぱり諦めもつくといいますか……。
それよりも、ありがとうございます!手がかりを探していただいてたなんて知らなくて」

しきりに口を回す名前に、土井は顔をしかめた。
そうさせたのは己だ。だが、憤りを感じずにはいられなかった。
大丈夫なわけないだろう、諦めなんてつくはずもないだろうと。
普段よりも早い名前の口調が如実にそれを物語っているのだ。
彼女はこれまで、ちゃんと伝えたい時ほど、丁寧に言葉を紡いでいたはずだ。
今にも泣き出しそうな笑みを張り付け、必死に虚勢を張る名前の姿を土井は痛々しく思った。

「土井先生、お見舞いありがとうございました!お部屋に戻ってください。もう、一人でも大丈夫なので」

まただ。またそうやって線を引いて遠ざけようとする。
今見たいのはそんな顔じゃない。心を剥き出しにした彼女だ。
嫌われても疎まれても構わない。大丈夫なんて線引きで引き下がってなどやるものかと、土井は名前の片手首をぎゅっと掴んだ。

「土井先生?」
「私の話はまだ終わってないよ」
「…ごめんなさい。ちょっと今は。明日になったらいつも通りに」
「そうやって無理矢理に笑うのか?」

土井の問いかけに名前はぐっと唇を噛んだ。

「無理なんて…」
「しているだろう。これまでだって、今だって」

土井の強い視線から逃げるように名前は顔を逸らした。
何も言いたくなかった。
弱音を吐き出してどうなるというのか。
悲しいねなんて共感も、いつかは帰れるよなんて慰めも、貰ったところで嬉しくなど無いし、素直に受けとることなんて出来ない。
ささくれ立つ心を鎮めようと、名前はぎゅっと手を握りこんだ。
言葉を発すること無く、顔を俯かせる名前に土井は言葉をぶつけた。

「名字さん、それは本心か。
大丈夫、大丈夫と言っているが、必死に自分に言い聞かせてるだけじゃないのか」

土井の責めるような言葉と声色。
名前はかっとなった。そうだ。言う通りだ。全然大丈夫なんかじゃない。
分かっているならば、気付いているならば、どうしてそんなことを問うのか。
どうして見て見ぬ振りをしてくれないのか。
名前は土井を睨み付けた。気持ちが抑えられなかった。

「それの何がダメなんですか」

ようやく聞こえた名前の声は、普段の柔らかなものとは遠く、低く唸るようなものだった。

「大丈夫だって、自分で言わなきゃ!思わなきゃ!
家族に会いたい!帰りたい!でも言っても思っても、そんなの無理で。朝起きる度に帰れなかったって落胆して……。
弱音なんて、不安なんて、言ってもどうしようもないじゃない!
……なんで放っておいてくれないんですか!」

土井は良しと思った。怒りでもなんでもいい、無理に作られたうわべの感情より余程ましだ。
気持ちをぶつけてくる名前を、土井は引き寄せた。逃げようともがく身動ぎを制し、優しく抱きしめた。

「放っておけるわけないだろう」

どうしようもなく気にかかるのだ。
関わってしまった責任感でも、稀有な運命に巻き込まれた同情心でもない。今胸にあるのは言葉に形容しがたい、柔らかい感情だ。

「名字さん、大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言いなさい。寂しい時や悲しい時はちゃんと泣きなさい。
いつか帰れる、なんて無責任なことは言えない。君の不安や哀しみを払拭出来るほどの何かも持っていない。私は話を聞くくらいしか出来ないかもしれないが、辛い時は頼って欲しいんだ」

耳に届く溶かすような宥めるような声と、包み込む温もりに名前の強張りがほどけていく。
名前の瞳からじわじわと涙が溢れた。
これ以上迷惑になりたくないと思う。でも、心は今にもぐしゃりと潰れてしまいそうなほどに限界だった。
頼ってもいいのだろうか。すがってもいいのだろうか。
名前は土井の背におそるおそる腕を回すと、ぎゅうと忍装束を握った。

「寝たら、起きたら帰れているかもって、いつもいつも期待してたんです。
でもダメで、その度に落ち込んで。そうしたら今度は眠るのが怖くなって。
土井先生にも皆にも、たくさんたくさん、良くして貰ってるのに、そんなことばかり思ってる自分が嫌で堪らなくて。これ以上迷惑かけちゃいけないって」

声をつまらせながら吐露する名前に土井は安堵した。
悲しみも恐れも何もかも吐き出してくれればいい。

「帰りたいと思い願うことは当たり前で、何も悪いことじゃない。
それに、私や皆が名字さんを気に掛けることと、君が故郷に帰りたいと願うことは別の事だ。それを誰も咎めたりはしない。
名字さん、無理に感情を押し込めて、一人になろうとするんじゃない」

でも、よく頑張ったね。
その言葉に堰を切ったように泣き出した名前の背を、土井は優しくさすった。





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