鼓膜をくすぐるような甘く柔らかい声に、名前は片付けの手を止めた。
声の聞こえた先。食堂の入り口を見れば、そこにいたのは人当たりの良さそうな笑みを浮かべた男だった。
結い上げられた薄茶色の髪の毛をさらりと揺らし、躊躇もなく食堂内へと足を進めてくる。
慣れたような男の様子に、名前は誰だろうかと首を傾げた。
おばちゃんに用事なのだろう。だが、生憎おばちゃんは所用で出ていて、食堂には名前一人だけ。
名前は男へと声をかけた。
「こんにちは。すみません、おばちゃんは出かけていて留守にしています」
伝言で良ければお伺いしますが、と答える名前に男はいえいえと愛想の良い笑みを深めた。
「用事があるのは貴女なんです」
男の言葉に、名前はきゅっと眉をひそめた。
会った記憶は無い。そもそも、まだ学園の外にすら出たこともないため、自分を訪ねる人など教師と生徒以外に居ないはずだ。
すっと身体を下げた名前に男─山田利吉ははっとした顔をすると、ゆるく眉を下げた。
「すみません、恐がらせてしまいましたか。
自己紹介がまだでしたね。私は山田伝蔵の息子で利吉と言います」
父から名前さんのことは伺っていましてと言う利吉に、名前はぱっと表情を変えた。
「あなたが噂の利吉さん」
訝しげだった視線は、好奇心を宿したキラキラと輝くものへと変わる。
「はじめまして、名字名前です」とにこやかに告げる名前に、利吉は口の端をあげた。
「噂の、だなんて恥ずかしいな。良い噂だと良いのですが」
「もちろん、良い噂です。乱太郎くんたちから売れっ子忍者だと、ユキちゃんとか、くのいちの子たちからも良い事しかお聞きしていませんよ」
「それなら良かった」
そう言って目をゆるりと下げ微笑む利吉。その彼の見目の良さを目の当たりにした名前は、くのたまたちの言い分をようやく理解した。
「「仕事が出来て、優しくて、そしてとーってもカッコいいのー!!」」
おやつを食べる手を止め、うっとりとした表情を浮かべるくのたまたち。これで何度目かの利吉の話だ。聞く度に、名前は正直言って「そんなに?」と思っていた。
この学園内だってカッコいいに相当する人は多い。好みはそれぞれあるにしてもだ。
「顔立ちとかなら仙蔵くんや伊作くんとか久々知くんとか上級生もみんなカッコいいんじゃない?」
一度そう聞き返したことがあったのだが、その時はマシンガンのような反論を受けた。
「立花先輩は見た目が美人すぎるからちょっと隣に並ぶのは複雑です」
「善法寺先輩は見た目はいいけど、不運すぎてちょっとねー」
「久々知先輩なんかは豆腐しか見てないじゃないですか!」
忍たまと利吉さんを比べるなんて無理だとか、利吉さんは別次元なんですとか、きゃっきゃっと語るくのたまたち。
彼女たちが言うには、確かに先輩方はカッコいいがよろしくない面も見知っている為、別物ということらしい。
確かに自身の学生時代も似たようなものだったかもしれないと名前は懐かしくなった。同級生の男子というよりはテレビで話題の俳優やアイドル話に花が咲いていた気がする。女子の話題にあがるのはいつの時代も変わらないのだ。
その後も耳に入る利吉談義から、“噂の利吉さんはイケメン”と名前も想像はしていたのだが、実物の利吉は想像よりも遥かに上だった。
涼しげな目元に、凛々しい眉。顔は小さく、手足はすらりと長い。
確かに稀に見るイケメン。男性に対しなかなか辛口な彼女たちが、誉めちぎり色めき立つのも納得である。
「利吉さん、よければお茶でもどうぞ。ちょっとかけてお待ちいただいても良いですか?」
すみませんが、片付けだけ先にしてきますので。
そう言ってパタパタと動く名前を、利吉はお茶をすする仕草をしながら盗み見た。
つい先日、父親である山田から聞いた名前のこと。
詮索はするなよと釘を刺されはしたが、そうそう新しい人を入れない忍術学園が受け入れた人物だ、気になるに決まっている。
土井のような抜け忍か、父親のような元戦忍か、山本のような凄腕のくのいちか。などなど利吉は期待していた。
しかしだ。山田が確実に居ない実技のある午後にわざわざ狙いうちして接触したというのに、どうやら期待外れだったようだと利吉は落胆した。名前は見るからにそこらへんにいる普通の娘と変わらない。
次いで出てきたのは、そんな普通の娘がなぜ忍術学園にという疑問だ。
─偶然、本当にただ彼女を預かっただけなのか
それならばとんだ肩透かしだ。利吉はつまらないと茶をすすった。
おばちゃんがいたならば、好物のうどんでも食べて憂さ晴らしでも出来たのだが残念である。
「すみません。お待たせしました」
「いえ、急かしてしまったようですみません」
向かいへと座る名前に、先程までの不満げな顔は引っ込め、利吉はにこりと笑みを貼りつけた。
さて、ここからどうしようか。
用事があると名前に言ってしまった手前、それではと帰る訳にもいかない。たが、長々と時間を取るに足る人物でもない。
適当に話をしてさっさと切り上げることに決め、利吉は口を開いた。
「どうですか、もう学園には慣れましたか?」
「ちょっとずつですが慣れてきました。でもまだまだで、最近ようやく文字が読めるようになってきたところなんです」
そう言いはにかむ名前に、利吉はおやと眉をひそめた。
余程の田舎者だとしても文字くらいは読める。おまけに田舎から出てきたのであれば畑仕事が主だったはずだ。それなのに肌は焼けておらず、手も少し荒れた程度。とても畑仕事をしていた風ではない。
騙そうとでもしているのかと疑い名前を見るものの、こちらの様子など一切気にしていない。
もう少し話を広げるかと、利吉は名前の話に相槌を返した。
「名前さんは文字が苦手なんですか?」
「苦手といいますか、やっぱり昔の人はすごく達筆なので解読するのが大変で」
古書の話かと思いどんな本か問えば、返ってきたのは子どもでも読めるような本の名前。
利吉はぞわりとした違和感に口に弧を描いた。
話が噛み合わない。だが対話をしている感覚では頭が悪いということでもない。
目の前の名前からは、騙そうという思惑も兆候も見受けられなかった。
つまり彼女から出ている言葉は全て本心であり事実ということ。
─すみません、父上。
たいして思ってもいないが、利吉は内心で形だけの謝罪をした。
詮索するなと言われたが、こんな探求してくれと言わんばかりの相手には無理である。
隠されたら暴きたくなるのが忍の性分だ。
だが、言いつけを反故にする訳にもいかない。それならば手は一つと利吉は質問を投げ掛けた。
「名前さんのいた所はどんな所なんですか?」
「どんな所と言われると説明が難しいですね」
名前はうーんと唸った。
学園長やら土井等の教師陣には、時々だが現代の話をする機会があったのだが、同様の質問をされる度に同じように思っていた。
違うことだらけで、あげればきりがないのだ。
だが、一番はやはりこれだろうか。
「戦がないこと、忍者もいないことですね」
「は?…忍が居ない?」
名前の言葉に驚き利吉が立ち上がらんとした時だった。
「利吉と名前ちゃん?」
食堂内に響いた父─山田伝蔵の声に利吉は「なんて間が悪い時に」と内心で小さく舌打ちをした。
「父上、お邪魔しています」
「わしに挨拶も顔出しもせず、何をぬけぬけと。利吉、名前ちゃんを詮索するなと言わなかったか?」
「ええ、ですから詮索はしていませんよ。ただ世間話をしていただけです。ねぇ、名前さん」
訝しげに利吉を見る山田と、どこ吹く風の利吉の様子に、名前はあれと思った。
「利吉さんは山田先生から私のことを聞いていたんじゃ……」
「ええ、聞いていましたよ。新しく忍術学園預かりになった女の子がいる、とだけね」
接触するなとも言われていませんし、言い付け通り詮索はしていない、嘘などもついていませんよ。
そう堂々と宣う利吉に山田は、はぁと深い溜め息をついた。
「利吉、お前なぁ……」
どこまでも母さんに似よって。そんな言葉は形にはせず、山田は心に留めた。
言ったところで双方を喜ばせるだけだと知っているからだ。顔立ちだけでなく、こういう頭と口の上手く回るところも母親譲りである。
そんな山田と利吉のやり取りを見ていた名前は顔をさぁと青くしていた。
利吉が自分のことを知っているという言葉を勘違いして受け取っていたと気づいたからだ。
「や、山田先生、ごめんなさい。多分、駄目なことを話しちゃいました……」
「いや、名前ちゃんが謝ることはない。これはわしの落ち度だ」
今は女性を追いかける暇はないのでと言っていたため、利吉は名前にさほど興味を持たないだろうと山田自身は思っていたのだがその宛が外れたのだ。
動揺からか困り顔の名前と目が合うと、利吉は、ははと微笑んだ。
「勘違いをさせてしまったお詫びとは言ってはなんですが、名前さんに1つご忠告を。誰の身内であろうと軽々しく自分のことを話すものではありませんよ」
警戒していたのは最初の方だけ。本物か偽物か疑う素振りすらなかったと言う利吉からの指摘に名前ははっとした。
「まあ、赤子のように隙だらけな名前さんは可愛らしいですけどね」
そう言ってちょんと額をつつく利吉に、名前は反論できる余地もなく、ただただ顔を赤くした。
けして見惚れたとかそういうのではない、言っていることは正論。気づかせてくれたことは有難いし、素直に聞き入れなければと名前も思った。
だが、表情も最後の言葉も完全に小馬鹿にしていると分かったからだ。
赤い顔で口を小さくへの字にしている名前の反応に利吉は満足そうに顔を綻ばせた。
「名前さんが一体何処から来たのかは是非今度聞かせてください。父上も、洗濯物はまたその時に」
今日一番の笑みを浮かべ踵を返した利吉の背を、名前はじとりと見つめた。
ユキ、トモミ、おシゲの利吉談義「優しくて」に今なら声を大にして「いや」と反論出来そうである。