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「個人授業とは、名字さんは実に勤勉ですね」

至誠を示すその姿勢大変良いと思いますよ。
などと分かりづらい駄洒落を入れ込んでくる安藤を土井は苦い顔で見やった。
それに気づくのは1年い組の生徒、もしくはいかなる駄洒落にも食いつく4年の浜守一郎くらいですよという突っ込みが出かかるが、喉奥へと戻す。
少なくとも隣に座る名前にはちっとも伝わっていないことは、そのぽかんとした表情から一目瞭然だ。

1年い組教科担任である安藤夏之丞。穏やかで丁寧な口調ではあるが、なかなか癖の強い性格の持ち主だ。
教師歴は長く経験も豊富。そこに対しての敬意の念はあるものの、は組のことでちくりちくりと嫌味小言を言われるため、土井は安藤のことを苦手としている。
けして嫌っているわけではない。酷く、すこぶる苦手というだけである。
そして一番改善して欲しいのは、このだらだらとした長話だ。

「名字さん、うちのい組の子たちはそれはそれは優秀なんです」

つい先日もねと、終わる気配すらない自慢話に土井は辟易とした。

─一体何用で安藤先生は部屋まで来たんだ?まさかまた厄介事じゃないだろうな

せっかくの名前との時間を台無しにされたことも相まって、土井の機嫌は下降していた。
土井にとっては、は組、学園長と並び安藤も己に厄介事を持ち込んでくる要注意人物。これまでのい組、ろ組、は組の1年組別対決は全て安藤が発端である。
用件なぞ聞きたくない。だが、己から聞かなければ話は止まない。
うちのい組の子たちは、は組と違ってうんぬんかんぬん。この自慢話が延々と続くことはこれまでの経験から学んでいる。
しかも、名前が律儀に相槌を打つものだから、いつにも増して安藤は饒舌だ。
聞くも聞かぬも地獄。どうするかと悩んでいたが、「名字さん、いつでもい組に編入を」という不穏な言葉が安藤の口から飛び出したところで、土井は慌てて話をぶった切った。

「安藤先生、それでなんのご用件でしょうか?」

相手の焦れなどお構いなし。ああ、そうでしたと安藤は変わらぬ緩慢さでようやく本題を語った。

「そろそろ名字さんに正式に事務員として働いてもらおうと学園長と話していましてね」

世話役である土井先生に報告を、と言う安藤の言葉に土井は良かったと胸を撫で下ろした。
今回はどうやら真っ当な話らしい。

「そうですか!知らせていただきありがとうございます」
「ただし」
「た、ただし?」

安藤の困り顔に土井も眉間に皺が寄る。怪しい雲行きに呼応し、胃がつきりと痛みを発した。

「採用試験を行うことになったんです」
「……今まで採用試験なんてありませんでしたよね?」

どうして急にそんなことにと喚く土井に安藤は1つ溜め息を溢すと口を開いた。

「数日前に出茂鹿くんが学園に来たでしょう。その時に小松田くんがね、うっかりぽろりとですね」
「……皆まで聞かずともなんとなく察しました。
新しい事務員と勝負させろなどと出茂鹿くんが言い出したんですね」

土井が溜め息混じりに呟くと、安藤は深く深く頷いた。
やはり持ってきたのは面倒事か。
まったくと、土井はきりきりと痛む胃を押さえながら天を仰いだ。
よりによって名前が巻き込まれるという一番厄介な展開だ。なぜ出茂鹿之介なんぞに言ってしまうのか。
幾度と無く事務員の座をもぎ取ろうと画策している彼が聞けば、そりゃあそうなるに決まっている。
元凶の小松田を窘めたくなるものの、「言っちゃダメでしたぁ?」とのほほんと返事を返すであろう様が容易に頭に浮かんだ。
裏表ない小松田の優しい性格は嫌いではないが、もう少ししっかりしてもらえたらと思うのは仕方のないところである。
深く溜め息をつく土井の隣、当の本人である名前は首を傾げていた。
“でもしかくん”とは誰だろうか。

「土井先生、でもしかくんっていうのは……」
「出茂鹿之介という男の略称だよ。ここの事務員になりたいと言っている子なんだ。
この前、学園内で小松田くんと一緒にうろうろしていたんだが会わなかったかい?」

土井のその言葉に、名前はそう言われればと声を漏らした。

「食堂のおばちゃん、お姉さん、どうですか!!」

響き渡るような大きな声で問いかけてきた男。食堂に学園長のポスターを貼り得意気な顔していたかと思えば、そのしばらく後に泣きながら廊下を駆けていった出来事を思い出した。
おっとりほんわかしている小松田とは対照的な印象。男はとてもはきはき、てきぱきしていたような気がする。
事務員として雇うならば、いろいろ拙い自分よりも適任なのではと、名前は疑問を投げ掛けた。

「私よりも、でもしかさんの方が事務員さんとしていいんじゃないですか?すごくお仕事出来そうな感じでしたし」

お給料が発生すること、能力の高い彼の方がと呟く名前に土井と安藤はとんでもないと首を横に振った。

「出茂鹿くんはね、恐ろしいほどに性格が悪いんだ」
「そうです。嫌味で高飛車で高慢ちきで、彼はとんでもなく意地が悪いんです」

熱弁する安藤を“貴方がそれを言いますか”と言いたげに土井が一瞥するも、安藤は土井の視線など全く気にも止めることなく言葉を続けた。

「何より吉野先生が出茂鹿は断固拒否の姿勢ですのでね。名字さん、ぜひ頑張ってくださいね」

激励の言葉と共にどんと置かれた分厚い冊子の山に名前は目を剥いた。
どこから出してきたのかという驚きもさることながら、量が尋常ではない。

「あ、あの、安藤先生これは?」
「採用試験に必要な問題集ですよ。私のお薦めばかりです」

勤勉な名字さんならこれくらい余裕でしょう、と満面の笑みを浮かべる安藤に名前は「ぇえ…?」となんともいえない声が漏れた。
本当に期待されていると受け取ればいいのか、煽られているのか際どいところである。
そもそも採用試験とやらはいつ行われるのか。名前が疑問を抱いたと同時、同じように思ったのだろう、土井が安藤へと問いかけた。

「それで、その採用試験はいつなんでしょうか?」
「5日後です」
「「5日後?!」」

土井と名前は揃って声をあげた。日が短すぎる。
おまけに都合が悪い。ちょっと待ってくださいと土井は声を荒げた。

「安藤先生!確か明後日から1年は合同夜営実習が」
「その通り。ですので直ぐに伝えに来たんですよ」

全くどうしてこの忙しない時に学園長も許可を出したのかと愚痴る安藤だが、土井はそれどころではないと顔を青くした。
ただでさえ日にちがないのに、さらに減ってしまい、どうやりくりしても無理無謀である。
己一人であれば3徹でも5徹でも出来るが、名前にそんなことをさせるわけにいかない。しかも、最近ようやくあの隈が無くなったばかりだ。
一体どうすればと頭を抱えていると、安藤がそうそうと声をあげた。

「土井先生。名字さんの件ですが私が助っ人に声掛けをしておきましたので心配いりませんよ」
「助っ人ですか?」
「打診したら即答で色よい返事が来ましたよ、6年の潮江文次郎から」




◇◇◇




「というわけだ!名前、ギンギンにやるぞ!!」
「名前さん、私がついてる。安心していい」
「ありがとう!文次郎くん、仙蔵くん」

お世話になりますと頭を下げる名前に、文次郎と仙蔵はなんのと笑った。
しかしである。

「で?なんでお前らまで居るんだ?」

明らかに邪魔だろうがと、名前の側に陣取るその他4人を文次郎は訝しげに見やった。
6のいの札が掲げられた室内。がたいのいい男6人と名前。ただでさえ広くない長屋の一室はひどく窮屈だ。

「なぁ、私も名前の面倒をみたい!」
「小平太、お前にゃ無理だろ」

どちらかと言えば見てもらう方だろうが。
そう文次郎が突っ込めば、小平太は面白くなさそうにむくれた。
小平太が座学が得意でないのは本人含め周知の事実。それ故反論はないらしいが、名前の側を離れる気もないらしく、小平太はそっぽを向いた。
めんどくせぇと文次郎は呆れるが、言い争ったところで体力が削られるだけ。大人しくしているならばと許可するしかない。
邪魔だとなったら、またその時だ。
文次郎は長次へと目配せをした。すると視線と言わんとしてることに気づいたのだろう。長次は大きく頷いた。

「は組は今から実習だろう?行かなくていいのか?」

早く行かないと名前の試験日までに帰ってこれないのではないかと笑う仙蔵に、伊作と留三郎は「不吉な事言うな!」と怒った。

「名前さんと話をしたらすぐ発つよ」
「名前さん、文次郎の野郎が変なことをしてきたら叫ぶんだぞ?訳のわからん重いそろばんを持たされるとか、池で立って寝ろだとか」

心底心配と言わんばかりの留三郎に仙蔵が答えた。

「安心しろ。そのために私がいるんだ。させるわけないだろう」
「お前ら、俺をなんだと思ってるんだ!」

忍たまでもない名前にそんなこと強要するわけないだろうがと豪語する文次郎だが、同輩達はいやいやと怪しんだ。敵であろうと説教をかますような熱い男だ。教えに熱が入ればやりかねない。
名前に文次郎。2人ともどっちもどっちで無理をする質だ。
名前を気に掛けている伊作は特に心配だった。
なぜこんな時に潜入実習なんだ。嘆いたところで仕方がないのだが、あまりの間の悪さにぼやかずにはいられない。

「名前さん、頑張って欲しいけど絶対に無理は駄目だよ!
文次郎、頼んだからね」

隈も傷の1つも許さないから。
そう念押しし、鬼気迫る表情で部屋を出る伊作、留三郎を文次郎はやや引き気味に見送った。
ちょっと過保護すぎやしないかと問う文次郎に、仙蔵は仕方あるまいと答えた。

「名前さんはやらかしたばかりだからな」

ですよねと同意を求めるかのように笑う仙蔵に、名前はしおしおと項垂れた。
寝不足卒倒の後。名前は他の6年からも叱りを受けた。
しばらくの間、長次には笑顔で本の貸し出しを制限され、仙蔵には険しい顔で化粧をチェックされるという日が続いた。
“名前の大丈夫は信用ならん”とまで彼らに言わせてしまった名前は、このての指摘にはひたすら「はいそうです」と頷くほかないのだ。





「…ところで、採用試験の内容は分かったのか?」
「それなんだが、吉野先生もわからんらしい」

長次の疑問に仙蔵が渋い顔で答えた。
安藤から名前の件を打診された後、仙蔵と文次郎はすぐさま探った。時間も無いため効率的にと思ったからだったが残念ながら有益な情報はない。
文次郎の指導を受けながら、必死に安藤特選問題集を解く名前には聞こえないよう、仙蔵は長次に耳打ちした

「おそらくは学園長先生が主導だ」

それが一番厄介なんだがなと、げんなりとした顔で仙蔵が呟くと、長次も同様の顔で深く頷いた。
突然の思いつきに付き合い5年強。分かるのだ、あのお騒がせ老人が関わった時点で、全うな採用試験ではないことは確実だ。

「名前、ここはこうだぞ!」
「そうなの?」
「小平太!間違った答えを教えるなバカタレ!名前も鵜呑みにするな!」

文次郎と小平太、暑苦しい2人に挟まれながら勉学に励む名前を見やり仙蔵は眉を下げた。
名前には申し訳ないが、あの問題集が全くの徒労となる可能性は零ではない。

─まぁ、出茂鹿之介を採用するつもりは学園長もないだろうが

損益で考えても損にしかならない者を雇うようなことはないはず。
名前の出自を隠した時のような明確な意図があるのか、はたまた単なる突然の思いつきか。
全ては採用試験当日のお楽しみである。





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