仙蔵の手を借り地上へと戻った名前は、それらの音を背に走っていた。
滝夜叉丸と三木ヱ門。4年の中でも戦闘過激派な2人が出茂鹿と対峙している今が差を広げるチャンスだという喜八郎と仙蔵の発破に背中を押された為である。
そしてたどり着いたのは教室棟の入り口。
『褒めろ』と書かれた幕が掲げられ、その幕の下にて仁王立ちで待ち構えるは5年竹谷八左ヱ門だ。
名前の姿を捉えた八左ヱ門は、にかっと快活な笑みを浮かべると手を上げた。
「名前さん、こっちです!」
思ったよりも早かったですねと言う八左ヱ門に、名前は笑顔で返した。
「綾部くんが手加減してくれたからだよ。
次は竹谷くんを褒めればいいのかな」
「そうです!存分に俺を褒めてください!!」
さぁ、どうぞ!と胸を張る八左ヱ門の姿が、褒められ待ちの大型犬のように見え、名前はふふっと笑った。
褒めて褒めてと耳をぴんと立たせ尻尾を振る様が脳裏に浮かぶ。
犬化した姿を頭の隅へと追いやり、名前は八左ヱ門の良いところへと思考を飛ばした。
八左ヱ門の印象は明朗快活。いつも元気いっぱいで、動物や人の為に動き回っている様子などがすぐに頭に浮かんだ。
そうだなと前置きすると、名前は口を開いた。
「竹谷くんは可愛いね」
「か、可愛いですか?!」
まさかの発言に八左ヱ門はすっとんきょうな声をあげた。
格好いいなどの褒めの言葉が出た時点ですぐに合格の札を上げようと構えていた腕は行き場を無くし、なんとも中途半端な格好である。
色の実習などで可愛さを全面に押し出している勘右衛門ならいざ知らず。一体自分のどこに可愛い要素があるのかと八左ヱ門が困惑気味に問うと、名前は答えた。
「たくさんあるよ。うさぎとか、にわとりとか、生き物に優しく喋りかけてる表情とか、口いっぱいにご飯を頬張って食べる姿とかとても可愛い」
いつも明るく朗らかなところも、下級生を面倒見良くお世話してるところも素敵だよと、次々と出てくる褒め言葉に八左ヱ門の顔はだんだんと熱を帯びた。
口先だけのお世辞でないのは、声色でわかる。
手放しで褒められることに気恥ずかしさを感じつつも、八左ヱ門は意外だと驚いていた。彼女は思ったよりも人をよく見ているらしい。
最初の頃は教室棟か食堂でしか見かけなかった名前の姿。最近はいろんな所で見かけるようになったことも要因だろう。
「明るく元気な竹谷くんを見てると、こっちまで元気になるよ」
そう言って笑う名前に、八左ヱ門は顔を赤くしながらも満面の笑みを返した。
格好いいなどの言葉ももちろん嬉しいが、それ以上だ。
向かい合い、へへへと笑い穏やかな空気を漂わせる名前と八左ヱ門。そんな2人を実況役の勘右衛門は呆れ見た。
何の為に褒めているのか2人して完全に忘れているのではないだろうか。
ほのぼのとしたやりとりに感じるのは悋気などではないが、あんなにべた褒めされるのは正直言って羨ましいしかない。
八左ヱ門は頭の中で虫とか飼っちゃってますよーと言えば驚き兎の如く逃げ出すのだろうな。
そんな意地の悪いことが頭に浮かぶも、勘右衛門は思うだけに留めた。それこそ言ったところで、何の為にやらである。
「八左ヱ門、褒められて幸せそうなとこ悪いけどさ、早いとこ札をあげてくれないか。名前さんも、せっかくのリードが無くなっちゃうよ」
指摘と共にじとりとした視線を勘右衛門から投げつけられ、八左ヱ門はやばいと表情を崩すと慌てて合格を告げた。
これで2つ目の障害も無事突破である。
3つ目は2階にあるという八左ヱ門の言葉に従い階段を上がった名前だったが、しんと静まり返る廊下で立ち尽くした。
『捕まえろ』とお題の幕はあるものの誰一人居ない。
かくれんぼなのかなんなのか、詳細もわからずじまいだ。
これまでの中で一番の難題かもしれない。
首を傾げる名前のすぐ後ろ、存在感の薄さが持ち味の黄緑色の忍たまは音も気配も無くそろりと近づいた。
「名前さん」
突然聞こえた声に驚き名前は肩をびくりと震わせたが、振り向いた先の三反田数馬の姿を見るや安堵の息を吐いた。
「数馬くんかぁ」
びっくりしたと笑う名前に数馬は軽く謝罪をすると、するりと名前の手を握った。
「名前さん、“捕まえろ”合格です」
「え、これでいいの?ルール違反とかにならない?」
「学園長先生がおっしゃっていたでしょう。禁止なのは名前さんからの救援を受けること。僕たちから自発的に名前さんを助けるのは問題ないんです」
だから大丈夫と理由を告げれば、名前はそうだったのかと驚き目を丸くした。
やっぱり気づいてなかったんだなと数馬は眉を下げ笑った。
─よく医務室に来る怪我の多い人。
数馬は名前をそう認識していた。それが包帯巻きや薬草分けなどを手伝ってくれる人へと変わり、仲良くなるのに時間はかからなかった。
自分だけではない。乱太郎や伏木蔵は言うまでもなく、2年の川西左近も「ちょっと怪我しすぎじゃないですか」と小言をぶつけるほどに懐いている。
いつも笑顔で手伝ってくれる名前に何かお礼など出来ないかと考えていた時、この競走の開催が決まった。
これはちょうどいい。日頃の感謝を込め、保健委員皆で名前を全面的に応援しようという話にまとまったのだ。
─僕が代表して名前さんの力にならないと。
これまでの感謝の気持ちを胸に、数馬は名前の手を引いた。
ゴールのある校庭まで誘導するのが自分の役目。だがその前にまずは3階だ。ヘムヘムから札を受け取らなくてはいけない。
階段を登った廊下の突き当たりにヘムヘムの姿が見えた。ヘムヘムも数馬と名前に向け笑顔で前足を振っている。
あともう少しだ。
喜び廊下を進む2人だったが、この三反田数馬も立派な保健委員もとい不運委員の一員である。
彼の足元、着地点にあったのは1年の誰かが落としたであろう1粒の鉄砲玉。
踏み場所悪くそれに足を取られた数馬がつるりと綺麗にすっ転ぶと、手を繋いでいた名前も仲良く床へと倒れこんだ。
ゴンという音に続き、“2人して転倒!さすが不運委員会!”という勘右衛門の実況が響き渡る。
名前は打ち付け痛む身体を起こすと数馬へと声をかけた。
「数馬くん大丈夫?」
「……すみません、名前さん」
「全然平気だよ!怪我とかはしてない?」
「腕を少し」
その言葉に目をやれば、数馬の左腕には擦り傷があり血が滲んでいた。
傷だけなら心配ないが、打撲など他の外傷がないとも限らない。
早く医務室へ行かないとと名前が告げるも数馬は渋った。
せっかくいい機会だったのに。
見舞われた不運に肩を落とす数馬をなんとか諭し、医務室へと向かわせる。
その姿が見えなくなったのを見計らい、名前はそろそろと立ち上がった。
転んだ時の衝撃の余波だろうか。先ほどから足に走り始めたじんじんとした鈍い痛み。
そのうち治まるだろうと思ったが、ヘムヘムから札を受け取り数歩歩いたところで名前は足を止めた。
強まる痛みに堪らず眉間に皺が寄る。
そんな名前の様子に気づいた勘右衛門は、即座に足を診た。
捻挫か肉離れか。目視だけでは何とも言えないが、無理に動かせば悪化する。
応急処置として、勘右衛門は自身の頭巾を名前の足に巻き付けると心配そうに問いかけた。
「名前さん、どう?いけそう?」
「ありがとう尾浜くん。歩いてならいけると思う」
ゴールまで頑張らないとね、と意気込む名前に勘右衛門はわかったと頷いた。
もし限界だとなった時は、己が彼女を抱えればいい。
一緒にゴールまで行こう。そう言って勘右衛門が名前の手を取ろうとしたその時だ。
風に拐われたかのように名前の姿が目の前から消え、変わりに視界に広がったのは靡く黒髪と深緑色。
名前を抱き寄せる小平太の姿に勘右衛門は口をひくつかせた。
「……七松先輩、今からやっと僕の見せ場なんですけど」
「それはすまん!」
登場が早すぎると嘆く勘右衛門に小平太は謝罪の言葉を口にしたが、その表情は謝意など一切感じないしたり顔だ。
「尾浜、見せ場は譲ってくれ!」
私も漸くの出番なんだと口の端をあげ、小平太は腕の中に収まる名前へと目をやった。
突然のことに驚いたのだろう、目を丸くしたままぽかんと口をあけている。
「名前、ゴールまで私が連れていってやるからな!」
「小平太くん、気持ちは嬉しいけど歩くよ。
ちゃんと自分でゴールしたいし」
「だが、足を痛めたんだろ?無理をすればまた伊作に怒られるぞ」
小平太の言葉に、それは回避したいと名前は俯いた。怒られるのはもちろん、伊作の手を煩わせるのも本意ではないのだ。
最後まで自分でという名前の殊勝な気持ちは買ってやりたい。小平太はならばと声をかけた。
「じゃあ、下まで運ぶ手助けならいいか?」
「ありがとう、よろしくお願いします」
「よし!まかせておけ!」
にかりと笑った小平太は、名前の腰に片腕を回すとひょいと抱き上げた。
満足そうな小平太とは対照的に、名前は戸惑っていた。以前に横抱きされた時とは違い身体がふらふら揺れる。
抱きつけばいいのか、どうするのが正解なのかと悩んだ末、恥じらいが勝ち小平太の肩に手を置くに留めたものの、小平太の歩みに合わせて身体が揺られ落ち着かなかった。
「名前、私の首に腕を回してくれ」
危ないからと告げる小平太は、普段と何ら変わりない。一人で恥ずかしがるのもどうかと、名前は言われた通りに腕を回した。
「小平太くん、重くてごめんね」
「全然。金吾らと変わらないぞ?」
「それは言い過ぎだよ」
さすがにそんなに軽くないと返す名前に、ばれたかと小平太は笑った。
片腕にもかかわらず平然と歩く小平太の様子に感心していた名前だったが、階段ではなく教室の中へと進んでいくことに疑問を抱いた。
隠し通路のようなものでもあるのかもしれない。
そう思っていたのも束の間、開け放たれた窓枠へと足をかけた小平太に名前はまさかと、声を震わせた。
「こ、小平太くん。ちょっと、待って?」
そんな名前の声に小平太は「なんだ?」と相槌を打ちながらも、自身の頭巾で己と名前の胴体を括りつけた。
「これでよし!」
「本当にここから降りるの?!3階だよ?」
「大丈夫だ!」
舌を噛むといけないから口は閉じてろよと小平太は言うが、名前はそれどころではない。
そろりと窓外を覗き込んだ。
当たり前だが、高い、地面が遠い。
無理と腰の引けた名前の身体を、小平太は構うことなく強く抱いた。
準備は万端。設置済みの鉤縄を引っ張り強度を確かめると手にぐるぐると巻き付けた。
「ねぇ小平太くん、階段の方が安全じゃないかな!?」
「何ら問題ないぞ!しっかり掴まっていろよ、名前!!」
違う!問題あるのは私の方、という名前の嘆きは特大の「いけいけどんどーん!!」にかき消えた。
◇◇◇
校庭の中央にいるは名前と出茂鹿。どちらも満身創痍だ。
強制懸垂下降により腰が抜けた名前は、恐怖で半泣きになりながらも小平太に手を引かれなんとかゴールしたが、未だに立てないのか地べたに座り込んでいる。
4年の2人に加え5年の久々知兵助にこてんぱんにやられた出茂鹿は、がくりと項垂れている。第3課題の「捕まえろ」は3年の方向音痴コンビの失踪により未達成のためだ。
この出来レースに異論を唱えるかと思いきや、そんな気力も無いらしく「豆腐怖い」とうわごとのように呟いていた。
「皆の者ご苦労であった!此度の事務員争奪競走は名前ちゃんの勝利とする」
忍たまらからも歓声があがり、万々歳と学園長は頷いた。
「晴れて名前ちゃんは事務員じゃ、良かったのう吉野先生」
「ええ、本当に」
そう対話する学園長と吉野は満足げだが、他の教師らの顔は冴えない。
大義名分としては忍たまたちの教育の一環、そして名前を事務員に確定させると同時に出茂鹿之助の執念を削ぐという計略だ。
だが、こんな回りくどいことをせずとも良いのだ。それこそ学園長の一声でどうとでもなる。
あけすけなく言ってしまえば、これは退屈を持て余したお騒がせ老人の暇潰しに他ならない。
山田ならびに教師陣は名前と出茂鹿2人に憐憫の眼差しを向けた。
かけられる言葉は御愁傷様の一言である。