ほんの数十分前にはじめましてを交わした男からの求婚に、名前は驚きを隠せなかった。
突拍子もない展開に「あの、いや……えぇっと……」と言葉が詰まる。
まさかこんな話に飛躍するとは思いもしない。
冗談であって欲しいという名前の願いに反して、大木の顔はなんとも真剣だった。
「らっきょう農家の嫁は嫌か?」
「その、嫌とかの前にですね、大木さんとはさっき初めて会ったばかりですし……」
よく知らない人に嫁ぐのはちょっとやら、結婚は好きあった同士がするものでやら、名前はしどろもどろに答えた。
この時代の主流はお見合い結婚だったろうかと疑問がよぎるも、やっぱり結婚は好きな人としたいという考えに至る。
正直言って、結婚うんぬんを考える余裕などないのだ。
ようやくここでの生活に慣れてきたところ。結婚願望は人並みにはあるし、いずれはという思いもあるが、今じゃない。
「すみません。大木さんのことよく知りませんし、お嫁さんは別の方に。あと手を離していただきたいなぁなんて……」
「そうか!なら、わしを知るところから始めるか!」
「えっ!?いえ!ですから」
「歳は33だ。血液型はA。身長は」
ダメだ。この人、全然話を聞いてくれない!!
やんわりとした断りの言葉も流され、名前は眉を下げた。
手を離してもらうべく力いっぱい腕を引くも、大木の腕はびくともしない。
綱引きのように引くこと数回。勝てるはずもなく、未だ手は握られたままだ。
離れない手。続く自己紹介。にっちもさっちもならない状況に、どうしようかと名前が途方に暮れたその時だった。
「大木先生、誰これと節操無く手を出すのはいかがかと」
頭上から降ってきたのは呆れを滲ませた声。
よく知る声に名前が顔を上げると、そこにいたのは声色と同様に呆れた顔をした立花仙蔵だった。
「仙蔵くん!」
「なんだ立花、邪魔しよって」
助かったとばかりに喜色を滲ませた声をあげる名前とは対照的に、大木は眉間に皺を寄せなんとも渋い顔である。
仙蔵は名前の手を握る大木の手を、ばちんと加減無く叩いた。
やっと自由になった両の手。解放に安堵する名前の側では、仙蔵から大木へと鋭い言葉が飛んだ。
「大木先生、そんなんだから嫁の来手が無いのではありませんか」
表情は普段と変わらず涼しげだが、声にはまざまざと不機嫌さが滲んでいる。
いつにも増して刺々しい仙蔵の物言いに目を丸くした大木だったが、次いで面白いものを見つけたと言わんばかりに目と口をにんまりと緩ませた。
「よし立花!久々に手合わせするか!」
唐突な誘いに仙蔵は眉根を寄せた。
大木との手合わせは願ったりだが、にやにやと意味深な笑みに嫌な予感しかない。
「わしに攻撃を1つでも当てられたらお前の勝ち、当てられなければわしの勝ちだ。
名前、わしが勝ったら茶屋に行くぞ!」
親睦を深めんとなぁと宣う大木に仙蔵は大きな溜め息を吐いた。
やはり予感的中。あの含み笑いの時、碌なことを言った試しがない。
「大木先生、名前さんを巻き込まないでください」
「報酬くらいあってもいいだろう!」
漠然と手合わせしても燃えんと開き直る大木を無視し、仙蔵は名前の手を取り踵を返した。
「名前さん、相手にしなくていいですから」
「ほほーん。わしに傷一つ負わせる自信もないとは。ど根性が足りんのぉ、立花」
お前がそんなに腑抜けだったとは意外だな、という大木の挑発に仙蔵は歩みをぴたりと止めた。
神経を逆撫でするような嘲る声色に、ひくひくと口許が歪むも、小さく息を吐き一呼吸置いた。
─私は最上級生、こんな見え透いた挑発に易々と乗るものか
理性を働かせ堪え忍ぶ。
だが、腰抜け、根性なし、すけこまし、という雑言が大木から飛んだ直後のことだ。
「やります」
普段より幾分低い声色が告げた承諾。
この立花仙蔵は理性的ではあるのだが、大木からの嘲弄と、ある特定の忍たまらに関してだけは沸点が異様に低いのである。
───
手合わせ開始から、打ち合い、撃ち合いの両者拮抗の時間が続く。
苦無と木刀がぶつかり合ったかと思えば、小石とはじき玉が行き交う。
そんな中、大木はひどく愉しげに声をあげた。
「立花、だいぶ投げが上手くなったな!」
「……軽々と避けながら言われても、嫌味にしか聞こえませんっ!」
経験の差に技術の差はまだまだ大きい。
仙蔵は悔しそうに顔をしかめた。
掠りとはいえ、はじき玉を頬や腿にいくつか食らっている己とは違い、大木は綺麗に捌ききっている。
もっと精度を上げる鍛練を増やさなければ。そして何より──
「どうした立花、息が上がってきてるぞ!」
大木からの指摘に、仙蔵は軽く舌打ちをした。
消耗戦になれば一気に分が悪くなる。
やはり喫緊の課題は体力の向上。自身で一番理解している分、他者から指摘されるのは尚のこと悔しい。
小平太のような無尽蔵な体力を羨めど、こればかりは仕方がない。
─このまま行けば、体力尽きて私の敗けだ
そうなれば、宣言通りに大木は名前を連れ出てしまう。
さすがに無体を働くようなことはしないと思うが、一方で、尻を撫でるくらい大木なら平気でしそうだと仙蔵は思った。
尻や乳の一つや二ついいだろうと言いかねない。
─想像しただけでも腹立たしいな
頭に浮かんだ大木のにやけ顔を掻き消し、仙蔵はふうと一つ深呼吸をした。
この拮抗した状況を打破するものが欲しい。
何かないかと視線を巡らせる仙蔵の目に映り込んだのは、大木のすぐ後ろに落ちている1枚の葉だった。それはつい先日、後輩である穴堀小僧が持ち歩いていたもの。
地の利はこちらにあると、仙蔵は口の端をあげた。
「借りるぞ、喜八郎」
小さく呟くと、仙蔵は大木の足元めがけ苦無を放った。
苦無を避けるべく大木が後ろへと飛ぶ足の初動を見せたその時だ。
目論見通り、と仙蔵は点火した鳥の子を2つ順に投げ入れると大木との距離を一気に詰めた。
大木の前に落ちた鳥の子。1つ目は木刀により飛ばされたものの、2つ目は無事に発動し、あたりに煙が満ちていく。
大木の灰色の影は、一瞬ぐらついたもののすぐに形勢を立て直した。
足場が崩れようとも、大木にたいした影響を与えられないことは想定済みだ。
狙うはそれではなく、煙満ちる中たなびく一筋の白。仙蔵は捉えた白めがけ苦無を一閃させた。
立ちこめていた煙が晴れ、視界が開けていく。
穴への落下を回避した大木は、仙蔵の手の内にある物に目を剥いた。
細く白い布切れはよく見慣れたものだった。
「おぁ!わしの鉢巻!」
「そうです。大木先生の鉢巻です」
身体にという言及はありませんでしたよね、と告げる仙蔵に大木は舌を巻いた。
少し前と比べ、動きも状況への対処能力も格段に上がっている。
「私の勝ち、です」
「もちろんだ。見事だった立花。いやぁ、良いど根性だ!!」
大木から勝ち確定の言葉を得ると、仙蔵は身体から力を抜いた。
限界に近かったようで、地べたへと腰を降ろし深く息をする。
へたりこむ仙蔵を見下ろし、大木は緩く口角をあげた。
まだまだ未熟なところや課題はあるが、やはり若者の成長は著しい。
名前に茶を2つ持ってくるよう頼むと、大木は木刀を仙蔵へと手渡した。
「これは返しておいてくれ。
立花の課題はやはり体力だな。あとは左の腕力がもうちっとあると良い」
その他にも改善点を上げていく大木の助言を、仙蔵は静かに頷き受け止める。
的確な分析力もさすがだ、と仙蔵が感心していると大木は「それと」と前置きしそっと耳打ちした。
「安心しろ。わしはもうちっと乳と尻が大きな女が好みだからな」
わし好みにこれから育てていくのもありだが、とだらしなく鼻の下を伸ばす大木に、仙蔵はくわっと怒りを露にすると木刀を振りかぶった。
実力は凄いし、忍としての技量も姿勢も尊敬している。
ただ、こういう軽薄なところは本当にどうかと思う。
「大木先生のそういうところ!本当に嫌いです!!」
「そうかそうか!わしはおまえさんの涼しい顔でいて実は激情家なところが大好きだぞ!」
にやにやと笑う大木に向け、仙蔵はぶんぶんと木刀を振り、足払い、突きなどを繰り出す。
だが、これまでの手合わせの疲れなど一切見せず、ひょいひょいと軽快に避ける大木に苛立ちは増すばかりだ。
仙蔵は心の中で「体力オバケめ」と妬ましさを込め毒づいた。
茶を飲み、手合わせの疲れも癒えた頃、そろそろ村へ帰るという大木を見送るべく、名前は仙蔵と連れ立ち門前へと出た。
季節は春から初夏へと移ろい、昼の時間が長くなったため、夕刻近いというのにまだまだ空は青い。
「では、またな立花!名前も、いつでも杭瀬村に遊びにくるといい!」
泊まりならなお歓迎するぞ、という言葉が大木から出るや、隣からすかさず「無視でいいです」という仙蔵の鋭い言葉が飛んだ。
あまりに苦々しいその声に、名前は苦笑いをこぼした。
何があったかはわからないが、お茶を手に戻った時から、仙蔵の機嫌はすこぶる悪く、大木に対して割り増しで辛辣だ。
言うとおりに無視するわけにはいかないが、“お泊まり”がいろいろと危険であることは容易に想像できる。お嫁話に続き、お泊まり話も「すみません」と名前は丁重に断った。
遠くなりゆく左右非対称の鉢巻がゆらゆらと揺れている。
はじめましてから嫁騒動、そして手合わせ。あれよあれよという間に色々な事が起きた。
騒ぎの中心だった大木の背を見送りながら、名前は並び立つ仙蔵へと言葉を投げた。
「嵐みたいな人だね、大木先生」
「そうですね。凄い人ではありますが、根っからの変わり者です」
あと女性にだらしないので本当に注意してください、という仙蔵からの忠告に頷くと、名前はそうだと言葉を続けた。
「仙蔵くん、ちゃんと言えてなかったけど、助けてくれてありがとう」
突然嫁になんて言われて本当に困ったよ、と笑う名前の言葉に仙蔵は静かに返した。
「それは大木先生だからですか?」
「え?」
仙蔵からの投げ掛けに名前は目を丸くした。
「名前さんは、誰に言われても困りますか?例えば、……私とか」
これはいつものからかいに違いない。
仙蔵くんてば、何言ってるの?そう冗談めかして返そうとした名前だったが、目に入った仙蔵の表情に言葉を詰まらせた。
笑みを浮かべているが、いつもの雰囲気とも少し違うような気がする。
先に浮かんだ返答を飲み込み、名前は仙蔵の質問を内心で繰り返した。
─仙蔵くんが私をお嫁さんに?……いやいや、そんな。
想像し、そして湧いた感情に、名前は表情を曇らせた。
「えっと、そうだね。困る、かな……」
俯き加減で躊躇いがちに呟く名前を横目に見やり、仙蔵は眉を下げた。
だが、その憂い顔も一瞬。すぐに柔らかな笑みへと変え、仙蔵はいつも通りの声振りで名前へと語りかけた。
「すみません、変なことを聞いてしまって。
ただの好奇心です。気にしないでください」
次いで、貰ったらっきょうへと話題を反らす。
何事もなかったかのように振る舞い、中へと入ろうと促せば、名前の表情もいつも通りへと戻った。
「明日からおかずはらっきょう三昧かもしれないね」そう言って少し前を歩きだした名前の背を、仙蔵はぼんやりと眺めた。
おおよそ予想通りだった答え。困らせてしまうだろうことも分かっていた。
“ただの好奇心”、それも嘘ではない。
ただ、もしかしたら、大木とは違う答えが返ってくるのではないかと淡い期待を抱いたのも確かだった。
─そのせいだろうか。彼女の答えに、表情に、胸の奥底がこんなにもひりつくのは。
気にしないでと告げた瞬間に、あからさまにほっとした表情になった名前を思い出し、なんとも言い表せない気持ちが湧きあがる。
予想だにしなかった感情の乱れに、仙蔵は小さく息を吐いた。