突然の雨に降られる、熊や猪など獰猛な獣に追われる、山賊に遭遇する、穴に落ちる等々、どれも単体で見ればままあることだ。ついてなかった、当たりが悪い日だったなと笑い話になる程度だろう。
しかし、『不運大魔王』というなんとも不名誉な名を冠する善法寺伊作は、先に挙げた全てをたった半日たらずで受難してしまうほどの不運の持ち主である。
薬草を取りに行くにしろ、演習に出るにしろ、学園内での活動にしろ、平穏無事に何事も無く終わることの方が稀。日常的にこの類いの不運が起こる。
仮に何事なく終わっても、反動で特大不運が後発するまでがお約束だ。
そんな伊作が委員長を務める保健委員、6年の同輩達は行動を共にすることが多いこともあり、不運によく巻き込まれる。
中でも同室である食満留三郎は他の面子に比べ、巻き込まれる頻度が格段に高い。
ゆえに『巻き込まれ不運』と揶揄された。
気の置けない仲間しかいない今は、揶揄されたとて「うるせぇ」と軽口を返すのみだが、まだたくさんの同輩がいた低学年の頃は、揶揄する者と片っ端から応戦し、あまりにも執拗な者には手も出ていた。
からかわれること自体が腹立たしかったのはもちろんだが、本元の思いは別。全ては同室の伊作に帰依する。
今でこそ、不運が起きたとしても「すまない、留三郎」と言うにとどまり、伊作は過度な謝罪をしなくなったが、数年ほど前までは不運で周りを巻き込む度にひどく傷ついていた。忍になる夢を諦めようか悩み落ち込んだこともあったほどだ。
翻弄されながらも、人一倍苦労している様子を側で見てきた留三郎は、伊作の頑張りを知りもしない者が不運を笑うことなど到底我慢ならなかったのである。
現在、最上級生として活動できているのは、伊作がこれまで邁進してきた努力の賜物だ。
彼の憤りも懸命さも知っているからこそ、留三郎は何度不運に巻き込まれようとも「気にするな、同室じゃないか」と手を差し伸べてきた。それはこれからも変わらないと誓って言えた。
例えそれが、予測も理解も不能のどんなに桁違いな不運だったとしてもだ。
───
自室で机に向かい一人黙々と作業に没頭する用具委員会委員長の表情は真剣そのもの。
手には四方手裏剣。視線を真っ直ぐに刃先へおろし、慣れた手つきで砥石に滑らせては、石と刃が奏でる独特の擦過音に耳を澄ませている。
用具委員会は他のどの委員会よりも忙しいと、委員長である留三郎はそう自負していた。
本来の仕事である苦無や手裏剣などの武器、さまざまな備品等の管理に加え、どこぞの馬鹿が頭突きで壊した塀の修補に、体力馬鹿や穴掘小僧が掘った穴の埋め戻し、おっちょこちょいな事務員や不運な同室が壊した棚の修理などなど仕事は多岐にわたる。
大変かつ費用がかかる活動であるにもかかわらず、どうしてか予算は少ない。会計委員会委員長である潮江文次郎に幾度となく直談判しているが、増える兆しも無かった。
それどころかむしろ退転。直談判が白熱、勝負へと発展し会計委員会の部屋を壊すこと数回。直訴、破壊、修理の堂々巡りが恒例の流れになりつつある。
「本当に無意味なのでやめていただきたいです」と会計委員である4年の田村三木ヱ門から本気のダメ出しを受けたのはつい先日のことだ。
そんなこんなで、常にじり貧運営である用具委員会は、節約のため出来る限りの修補は自分たちで行っている。
壁や塀などは下級生たちに任せても大丈夫なほどになってきたが、難しい建具の修繕や武器の手入れなどは留三郎の役目だった。
中でも、大仕事なのが手裏剣の研磨。仕上がりの良し悪しが及ぼす影響は大きく、均衡が崩れれば手裏剣として機能しなくなってしまうからだ。
後輩たちと賑やかしくやる修補も好きだが、一人黙々と研いでは確認を繰り返す地味な作業の時間も留三郎は好きだった。
満ちていく鉄の匂い、砥石と手裏剣の刃が擦れる小気味良い音、研ぐほどに滑りが良くなっていくこの過程がなんともたまらない。
研いだ手裏剣の刃先を目を細め確認すれば、ガタガタとこぼれていた刃の凹みはならされ、歪みなく綺麗な線を描いた。
「うん、いい仕上がりだ」
誰に聞かせるわけでもなかったが、満足いく仕上がりに留三郎は声をあげた。
出来映えを眺めていたいところではあるが、生憎時間がない。自他共に認める不運な同室が出掛けている今のうちに、出来る限り作業を進めなければならないのだ。
避けられる危険を避けることも非常に大切である、という顧問である吉野の説得力ありすぎる言葉を胸に、留三郎は一人頷く。
さて次だと、まだまだ山のようにある手裏剣へと留三郎が手を伸ばした時だった。
「留三郎くん」
聞こえてきた柔らかな声、それで紡がれた自身の呼称。振り返らずとも分かる訪問者に留三郎は頬を緩めた。
最初の頃は、この“留三郎くん”呼びをなんとも恥ずかしく思っていた。
嫌ではないが、呼ばれる度にむず痒く感じ、そわそわと落ち着かなかったからだ。いっそ呼び捨てで構わないとすら思っていたが、今となっては彼女だけが使う呼び名と特別に思える。
部屋の隅に置かれていた風呂敷を抱えると、留三郎は名前の元へ向かった。
「名前さん、忙しいところ来ていただいてすみません。こちらが伊作からの預かりものです」
中に入っているのは薬草などに関する本数冊。「手伝いをするうちに興味を持ってくれたみたいなんだ」と嬉しそうに語りながら伊作が準備していたものだ。
直接渡したかったようだが、不足した薬草の採集や実習などの用事が重なり泣く泣く留三郎に預けた次第である。
留三郎から包みを受けとり、名前は顔を綻ばせた。
「ありがとう、留三郎くん。あと、迷惑じゃなければここで本を読んでもいいかな?」
分からないこととか、読めない文字があった時は教えて欲しい、という名前の頼みに留三郎は二つ返事で頷いた。
迷惑だなんて微塵も思うわけがない。
やかましくすること確定の小平太ならば拒絶一択だが、彼女の健気な願いを断る理由などどこにも無いのだ。
開け放った入り口からは爽やかな風が吹き込み、擦過音の合間に紙の擦れる音が混じる。
ちらりと後方へと視線を向けた先、名前の真剣な表情が窺え、留三郎は口許に弧を描いた。
真後ろに位置取ったのは、作業の邪魔にならないようにという配慮からだろう。
つまずくことなく頁を捲っている様子から、本の進捗も順調のようである。
─気が散るからと一人きりで作業するのが常だったが、誰かの気配を感じながらの作業も悪くないな。
そんな思いを抱きつつ、留三郎は意識を再び砥石へと向けた。
心地よい環境のおかげか、普段よりも手裏剣の手入れがかなり捗る。
緩やかに時間は流れ、半刻ほど過ぎた頃のことだった。
2冊目を読み始めたと思えば、すぐに頁を捲る音が止み、留三郎は研ぎの手を緩めた。
どうしたのかと思った次の瞬間、あれ?やら、うーんという微かな唸り声が聞こえてくる。
何かしらにつまずいたらしい。
─そろそろ俺の出番だろうか。
手は動かしながらも、留三郎は名前へと気を配った。
つまづいたのは文字か薬草か。伊作には及ばないが、他の面子よりは薬草に触れる機会も多い。どちらにせよ何かしらの力になれるはずだ。
ただ、助けるのは求められてからが鉄則と、声が掛かるのを待つ。
しばらくすると、申し訳なさそうな声が名前からあがった。
「ごめんね留三郎くん、今大丈夫?」
ようやくの出番。待っていましたといわんばかりに、留三郎は身体を名前へと向けた。
「大丈夫です。何か分からない文字でもありましたか?」
「文字もなんだけど、ふさ? 中、術って何?」
「……なっ、はぁ?!」
名前の口から飛び出した思わぬ単語に、留三郎は驚嘆の声を漏らした。
動揺から、持っていた手裏剣は手から床へと滑り落ち、ゴンという鈍い音が部屋に響く。
いや、待て。どうして、くのたまでもない彼女の口からそんな言葉が出てくるのか。
驚きつつも、留三郎は名前を見た。
すると、眉を寄せ難しい顔をしている名前の手元、その手に握られている書物に見覚えがあった。
あれは内容が非常にあれであれな為、代々の保健委員会委員長が管理している房中術の指南書。授業で使うため五年生に届けるんだといって、先日伊作が風呂敷に包んでいたはずだ。
─待て待て待て!どうしてこんなことになってんだ!!
何故あんなものが彼女の手の中にあるのかと疑問が湧くも、すぐに原因は察せた。
先日の荷作りの際に誤って入ったに違いない。
突如起こった巻き込まれ不運に、留三郎は心の中、あらんかぎりの声で同室の男の名を叫んだ。
紛れ混んだのがよりによって一番厄介な本、慌てるなというほうが無理である。
どうするかと留三郎は頭を抱えたが、取り乱している場合ではない、冷静になるんだと己を諭す。
ひとまず、現状の確認だ。
留三郎は意を決すると、恐る恐る名前へと問いかけた。
「名前さん、その、内容は読みましたか?」
「それが、達筆すぎてひらがな以外は全然読めなくて」
かろうじて読めたのが冒頭の見出しの単語だけだった、と眉を下げる名前に留三郎はひとまず安堵した。
不幸中の幸いとはこのこと。当時は挿絵も無いのかよと皆で不満をこぼしたものだが、無くて良かったと今は心の底から思った。
読めていないのであれば、誤魔化しがきく。
留三郎は努めて冷静に言葉を発した。
「それは健康術の一種なんです」
そう房中術とは養生術の一つ。節度ある男女のまぐわいにより健康を促すという古来より受け継がれてきたれっきとした術である。
いろいろ、いや大事な部分の大半を省いてはいるが間違いは言っていない。
忍でもなければ恋仲でもない彼女に、それ以上の説明など出来るはずがないのだ。
さっさと話題を変えなければ。別の本を薦めるべく、口を開こうとした留三郎だったが、それを名前の感嘆の声が遮った。
「健康術!そんなのもあるんだね!」
覚えたら私も出来るかなと興味津々な名前に留三郎は思考が止まった。
一瞬脳裏に浮かんだ彼女のあらぬ光景を瞬時に打ち消す。
まさか食いつかれるとは思いもしない。めちゃくちゃ危険な爆破の術だと言っておけば良かったと後悔するも、残念ながら後の祭りである。
「いや、でも、これはその……すごく大変な健康術でして」
ものすごく勉強をしないといけない術だとか、たくさん実践を積まないと出来ないだとか、なんとか諦めて貰うべく留三郎は必死に名前を諭した。
稚拙すぎる返ししか浮かばず、情けなくなるが仕方ない。
覚えたい、やりたいと言われても大変困るのだ。
「だから、名前さんにはこの術は無理だと思います」
「そっか、そんなに大変なら私には無理だね。あ!留三郎くんはできる?」
「え?!」
目を輝かせ問う名前に、留三郎は閉口した。
数年前までは実践もあったらしい房中術だが、「男同士でなんて死んでも嫌だ」という先輩らの涙の嘆願によって廃止となり、現在は座学のみ。
文次郎のように三禁を徹底していたわけではなかったが、これまで縁もなく経験はない。はっきり言ってしまえば、まだ生息子。知識として知っているだけだ。
曇りなき眼で答えを待つ名前の姿に、どう返したものかと留三郎は眉を下げた。
未経験であることなど、これまで気にしたことなかったが、出来ないと正直に言うのはやはり気が引けた。男なら皆持っているしょうもないプライド故である。
さらに、思い浮かんだ1つの懸念。
しばしの逡巡を経て、留三郎は口を開いた。
「残念ながら俺はまだ出来ないんです」
なんとなく勝負に負けた後のような嫌な敗北感に心持ちは悪いが、これで正解だったと確信している。
己のために虚勢を張るよりも、この先の危険を避けることの方が余程大切だ。
留三郎がすみませんと謝ると、名前はいやいやと両の手を振った。
「ううん、全然!
でもたくさん鍛練してる留三郎くんでも出来ないなんて、本当にすごい術なんだね」
見てみたかったなと残念そうに溢す名前に、留三郎はやっぱりなと苦笑いを溢した。
これまで手裏剣やら忍術やら、やたらと興味を持っていた彼女だ、出来ると言えば見たいとなるだろうという予想は大当たりだ。
純粋な興味で彼女に他意はない。だからこそ厄介なのである。
ひとまず最悪は回避出来た。虚勢を張らなくて良かったと留三郎は心から安堵した。
見たいとせがまれても非常に困る。いろいろな意味で困る。
これ以上要らぬ火の粉が降りかかる前にと、先手を打った。
大変な術の本を読むよりもこっちの本の方がいいと告げ、名前の手から房中術の指南書を抜き取ると、留三郎は薬草の本を差し出した。
無事に回収した危険物を机の下へと放り込み、これで漸く一安心である。
─まったく、とんだ災難だ。
留三郎はふうと小さく息を吐いた。窮地を脱したことで、気が楽になったのか一気に疲労が押し寄せる。
もはや手裏剣を研ぐ気力などあるはずもなく、修補は諦め、名前の補佐に回ることに決めた。
対面へと座った留三郎は、頬杖をついて名前を眺めた。
こちらの心労など知るよしも無く、薬草の本を見て、へぇと小さく頷いている。
「本当、巻き込まれたのが俺で良かったですよ、名前さん」
一人ごちるように留三郎は小さく呟いた。
三禁馬鹿なら真っ赤な顔で慌てふためき説教、不運大魔王ならさらなる不運を呼んでいたかもしれない。
一番まずいのはきっと体力馬鹿。馬鹿正直にあれこれ説明してしまっただろう。
確実に、これ以上の大惨事になっていたに違いないのだ。