そのたらいの前で、名前は膝に手をつき項垂れていた。
けして楽観視したわけではない。皿洗いのお手伝いくらいは出来ると本気で思ったのだ。
数分前の自分に言ってやりたい、朝の洗顔のための少量の水汲みなどとは全く別物なんだぞと。
たかが水汲みと侮るなかれ。動きは単純だが、いっぱい入った水桶を汲み上げるのは1回でも結構な重労働である。
名前は自身が圧倒的に体力・腕力が足りないことを痛感した。
今さら日頃の運動不足を嘆いても、どうしようもないのだが。
やる気だけでどうこう出来るものではないが、持ち得るものはやる気と根性しかない。頑張れと名前は自身を叱咤した。
「やっと半分……」
3回目の水汲み後、あまりのしんどさに堪らず溢れた独り言。
捻れば出てくる水。スイッチ一つで明るくなる電気。当たり前にあったもののありがたさが身に沁みる。
そもそも、名前がなぜ皿洗いをすることになったのか。
それは1年は組に置いてきぼりにされたことから始まる。尾浜勘右衛門の偽噂話に花が咲き、昼休みは終了間際に迫っていた。
それに気づいた1年は組の皆は、これはまずいとご飯を掻き込むと、ささっと出て行ったのだ。
理由は午後から始まる実技の特別授業にある。実技担当教師は山田伝蔵は大変厳しく、遅刻などしては大目玉だ。
目前に迫った大問題に、は組の面々は名前のことなど頭からすっぽ抜けたのである。
名前もすぐに彼らを追いかけはしたものの、さすが忍のたまご。すでに姿はなかった。
学園内がまだよく分からず、帰れないと途方に暮れていたところ、「仕事が一段落したら土井先生の所まで送ってあげるわよ」という食堂のおばちゃんからの有難い申し出があったのだ。
ただただ待つよりも、少しでも手伝えればと皿洗いを引き受けたのが事の経緯である。
水汲みも終わり、下準備が整った。
ふうと一息ついた名前は感じた違和感に手のひらを見た。縄で擦れ、赤くなっている。
ヒリヒリするが、激痛ではない。そのうち治るだろうと、放っておくことにした。
よし、と名前は再度気合いを入れた。ここからが本番である。
着物の袖が濡れないよう腕捲りをし、聳え立つ食器へと手を伸ばした。
◇◇◇
「まったく、文次郎と留三郎め」
昨日も、一昨日も、なんならその前の日にもやり合ったというのに、今日も小競り合いを繰り返す二人に、仙蔵は馬鹿なのかと毒づいた。
普段なら勝手にやってろと放置するところだが、今夜は、い組とは組の合同実習がある。
城に文を置いてくるという、そう難しくもないものだが、念のため体力は温存させなければならない。
二人を大人しくさせるべく、仙蔵は自身の武器である宝禄火矢を投げ入れたのだが、それが災いした。
丁度通りかかった不運大魔王こと伊作がその宝禄火矢を蹴り飛ばし、訓練場の一角は木っ端微塵の残骸と化した。
その修繕の最中、再び喧嘩をはじめた二人にとうとう仙蔵の堪忍袋の緒が切れたのだ。
再度放たれた宝禄火矢は無事弾けた。
地に伏している二人に毎度毎度飽きはしないのかと問おうとしたがやめた。
聞いたところで「こいつが!」と、また喧嘩を始めることが容易に想像出来た。
この訓練場は幸い六年専用。修繕は後回しにしても問題はない。
あの二人もしばらく放置でいいだろうと、仙蔵は訓練場を後にした。
昼飯用のおむすびを食堂に取りに来た仙蔵は、長屋に戻る途中で足を止めた。
件の女─名字名前の後ろ姿が目に入ったからだ。
あの会議の後すぐ、学園長から好きなだけ調べればよいとの大義名分を得たのだが、昨日は不発に終わっていた。
怪我を考慮してか、彼女はずっと客間に詰められており、おまけに監視役か土井が共にいたため、遠巻きに顔を見るに留まった。
彼女が来て今日で3日目だ。
せっかくの機会だと、仙蔵は名前を監察することに決めた。
見下ろせる木の上に位置取り、おむすびをがぶりと頬張る。
ちょうどよい塩気と、握り加減。
おばちゃんのおむすびはいつも通り、いい塩梅である。
おむすびと付け合わせの沢庵をぺろりと腹へとおさめた仙蔵は頬杖をつき、しばし名前の様子を眺めた。
真剣な顔で茶碗を洗っている。その姿は至って平凡。どこにでもいる女性とそう変わらなく見えた。
伊作の言うとおり、密偵にはとても見えない。
(何か一つでも情報が掴めればいいのだがな)
しかしこの後すぐ、仙蔵は女が何者かなどどうでもよくなる事態に見舞われることとなる。
……何をしてるんだ、あの人は。
皿洗いと袖をまくりあげる行為を繰り返す名前を目の当たりにし、仙蔵は愕然としていた。
かれこれ、もう10回目の袖まくりだ。
袖が濡れないよう気にかけるのはいいが、たすき掛けもせずに水仕事など土台無理なことをやっている。
小袖を着たことがないのか?それとも水仕事をしたことがないのか?
都度ずり落ちてくる袖に、わたわたもたもたとする名前の拙い動きに、仙蔵は短くため息をついた。
まるで着物を着たての幼子と変わらない。
あのままでは皿を洗い終える前に、小袖を洗うはめになるだろう。
所作に人一倍気をつけている仙蔵は、いろいろ気になって仕方がなかった。もう限界である。
まだ接触するつもりなどなかったというのに。
そう吐き捨てると、仙蔵は地へと飛び降りた。
「ちょっと失礼します」
一声かけ、名前の背後へとまわりこむと仙蔵は懐から紐を取り出した。
器用にたすき掛けをし、着物袖をたくしあげる。
急に男が降ってきたことに加え、その男に密着された名前は驚き慌てた。当然の反応だ。
そうなると分かりきっていた仙蔵は、努めて丁寧な口調で話しかけた。
「突然すみません。着物が汚れてしまいそうでしたので。こうやって紐でたすき掛けすれば、袖は落ちてきません」
仙蔵の言葉に、名前は落ち着きを取り戻した。
確かに、あんなにばたついていた袖がいくら動かしても落ちてこない。
「すごい!たすき掛け?初めてしました」
動きやすさが全然違うと感動する名前をよそに、仙蔵は驚きと呆れで頭が痛んだ。
たすき掛けを知らないなど、どんな箱入り娘だ。
武家か酒屋か土倉か。いくつか豪商が浮かんだが、聞き出すほうが早く確実だ。
この機会を逃すまい。仙蔵は名前へと薄く微笑んだ。
「はじめまして、六年の立花仙蔵といいます。名前さんのことは学園長から伺っておりました」
「そうなんですね。本当にありがとうございました。正直、ちょっと困っていたところだったので。助かりました」
「お役に立てたのなら良かったです。皿洗い、手伝いましょう」
仙蔵はたらいの前へとしゃがみこむと、名前を手招きした。
ここで、彼女が遠慮するのは想定済だ。
申し訳なさそうにする名前を畳み込むように、二人でやった方が早い、何より話をしてみたかったと告げれば、目論見通り、名前は仙蔵の隣へと並んだ。
皿洗いをしながらそれとなく雑談をする。
もちろん、仙蔵は聞き役。少しの話題を投げかけ、相手の話を促し、情報を得る。
そんな仙蔵の意図など知らぬ名前は、は組での授業の感想、皿洗いの経緯、へちまがよく汚れを落とし驚いたなどを笑顔で語っていた。
物腰柔らかな立ち居振舞いは、相手の心と口を緩くする。それに容姿が伴えば尚更。
ちなみに相手が女性だった時の成績は、仙蔵が群を抜いて優秀である。
そろそろ頃合いかと、仙蔵は問いかけた。
「そういえば、名前さんはどちらのご出身なのですか?」
「ごめんなさい。出身は言わないようにとお願いされていまして」
土地や家柄など有力な手がかりとなると思ったが、そう上手く事は運べない。
それにしても、出自を隠すよう言うとはいよいよきな臭かった。
どこぞの姫なのか。いやそれなら護衛がいるはず。
名前の人となりが掴めず、仙蔵は眉をしかめた。
この違和感はなんだろうかと。
どこにでも居そうな町娘の様相だというのに、全く言動が伴わない。たすき掛けを知らず、へちまに驚くなど、彼女はかなり浮世離れしている。
出自が無理ならと、仙蔵は話題を変えた。
「確かに見知らぬ者に出身を明かすと危ない。名前さんの親御様はしっかりしていらっしゃる」
「え?」
身内話に持っていこうとしたものの、疑問符を浮かべる名前に、仙蔵も疑問符が浮かんだ。
親ではないのか。では誰が。
名前の言葉を反芻する。親からであれば“お願い”はおかしい。言いつけられていると答えるだろう。
まさかと顔をひきつらせた。
「差し支えなければ、教えて欲しいのですが。誰が言ってはいけないと?」
「学園長さんです。黙っててねと」
脳裏をかすめるは、あのお騒がせ老人のしたり顔。
仙蔵はしかめた顔をそのままに、持っていたへちまを地へと叩きつけた。