07

草のような苦い匂いが満ちる部屋で名前は一人ぽつんと床に座っていた。
皿洗いが終わるやいなや、仙蔵にこの部屋へと押し込められたのだ。

「小さな傷でも放っておかないようにしてください。その類いにうるさいのが何人かおりますので」

そう言って出ていったきり、仙蔵はまだ戻ってきていない。
誰もいない状況に名前は肩の力が抜けた。
初めての授業、いろいろあった昼食、慣れない皿洗いに加え、様々な人との初対面の連続に気疲れしていた。
しばらくぼんやりした後、暇になった名前は端に置いてある物を見やった。
整頓された見慣れない道具を見て思い出したのは、小学生の授業で行った民俗資料館。説明書きや写真を見ても、どう使ったのか全く想像も出来なかったあの時と同じような感覚だ。
かろうじて分かるのは蕎麦を挽く時に使うような臼くらいだろうか。
本当に何も分からない所に来たんだな。
唐突に実感し、そして噴き出したのは、漠然とした不安だった。
帰りたい。でもどうやって。
心臓がぐっと潰されるような苦しさと共に、目の前が暗くなる感覚が襲う。
やばい。名前がそう思った時だった。

「ごめんね!待ったかな?」

扉が開くと同時、聞こえた声に名前ははっと覚醒した。
聞き覚えがある声に顔をあげると、そこにいたのは乱太郎と共に助けてくれた男だった。


「縄で擦ったところに水仕事したからだね。左手はいいけど、右手は治療しようか」

傷を一目見ると、男─善法寺伊作はほっと息を吐いた。
名前の怪我を診ろと仙蔵から言われ、慌てて来たが、大したことはない。
壁際にある薬棚からチドメグサを取り出し、薬研へと放り込む。
チドメグサは擦過傷によく効く薬草で、不運によりしばしば傷を作る伊作自身も重宝しているものだ。
ごりごりと磨り潰し、汁を搾る。本当なら葉屑ごと湿布する方がいいのだが、手のひらにそれは邪魔である。
伊作は名前の手を取り、出来た薬を傷に優しく塗り込んでいく。
その慈しむような手付きに、まるでおまじないをかけているみたいだなと名前は思った。
母や父、兄弟と幼い頃によくやった“いたいのいたいの、とんでいけ”。
手を当てるだけでもね、痛みが軽くなるのよ。
そう言ったのは母だったか、亡くなった祖母だったろうか。そこらへんの記憶は曖昧だ。

「これでよし!まぁ、軽い傷だから明後日になれば包帯は外してかまわないよ。あとはこの前の怪我も診せてくれるかな」

右の掌の包帯を巻き終えた伊作は、まずはこっちからと名前の右腕を指さした。
転がり落ちた際、一番大きな傷を負った場所だ。
伊作は傷への癒着に気をつけながら、ゆっくりと包帯を剥がしていく。少しでも力加減を間違えては、せっかく出来た瘡蓋まで剥がれてしまうからだ。

「うん、足と左腕はかなり治ってきたね。右腕の傷も良くなってきてるよ。ただ衣擦れで痛むといけないから、まだ包帯は巻いておこうか。あと3日くらいだから我慢してね」
「分かりました。治療していただき、ありがとうございます」
「いやいや、これが僕たち保健委員の仕事だからね。怪我した時は必ずここに来ること、隠すのはご法度だよ」

伊作の言葉に頷く。
右腕の包帯が巻き終わったのを見計らい、名前は伊作へと向き直ると姿勢を正した。

「あなたと乱太郎くんにはちゃんとお礼を言いたかったんです。
助けてくれたこと、ここに連れてきてくれたこと、ありがとうございました。」

もしあのまま崖から落ちていたら。誰にも会うこと無く独りだったら。
簡単に想像できてしまった結末に、名前は怖くてたまらなかった。
かたや、頭を下げる名前を前にして、伊作の胸中は複雑だった。
学園に連れてきたのは善意だけではなかったからだ。
忍として、あれが最適解だったと理解もしている。しかし、只の善法寺伊作としてはまた別だ。彼女の心からの感謝に、嬉しさよりも勝ったのは負い目。
彼女に薬を盛ったことは仕方なかったと簡単には割りきることが出来ないでいた。
一呼吸おいて、伊作は笑みを張り付けた。
己が背負う責任と、彼女の謝意とは関係ないのだ。

「うん、どういたしまして。まだ名前を言ってなかったね、僕は善法寺伊作と言います。よろしく、名前さん!」


名前の足に包帯を巻きながら、伊作はそう言えばと声をあげた。

「名前さんはどうして仙蔵と一緒だったの?」

仙蔵と水仕事が結びつかず、問い掛ける。
かくかくしかじかと、名前が昼食から皿洗いまでの経緯を説明すると、伊作は大きく笑った。

「あはは、さすが乱太郎たちだね」

1年は組いるところに事件あり。そう言われるほどに、彼らは日常茶飯事で何かしら面白いことをやっている。
山田は確かに怖い。だからといって人を置き去りにすることはなかなか無いだろう。
この学園で起こる厄介事の大半に、は組が関わっていること。そして上級生と教師どころか、他の城の忍をも巻き込むことさえあると伊作が告げれば、名前はぎょっとした。

「そんなにですか……」
「まあ、は組の皆はその分、まさかの時に強い良い子たちだから!頑張って、名前さん」

名前は曖昧に頷いた。正直、何をどう頑張ればいいのやらである。
ただ、は組の子達が良い子なのは伊作の言うとおりだと名前は思った。は組だけではない、目の前で治療をしている伊作も、怪我を気遣ってくれた仙蔵も、皆優しく良い人だと。


「よし、これでおしまい。窮屈感とかはどうかな?ちょっと動かしてみて」

全ての怪我の処置が終わり、伊作は名前に動作確認を促した。
足は歩くのに支障をきたす恐れもあるからだ。

「大丈夫です」
「良かった。じゃあ、そろそろ土井先生のところに戻ろうか。案内するよ」
「ありがとう善法寺くん。お手数おかけします」
「伊作でいいよ。皆、名前で呼ぶから、名字だと僕が呼ばれ慣れなくて」

部屋の入り口へと歩き出した伊作に続き名前が立ち上がろうとした時だった。
突然、乱雑に開いた医務室の扉。そこでは二人の男がどっちが先に入るかでいがみ合っている。
伊作は見慣れた光景に苦笑いを浮かべた。

「留三郎に文次郎、そこで何してるんだい?」
「おお、伊作。すまないが傷薬をくれないか」

そう声をかけたのは、伊作と同室の食満留三郎、その隣にいるのは留三郎と犬猿の仲である潮江文次郎だ。
留三郎は伊作の後ろにいた名前の存在に気付くと、一瞬目を見開いた。

「すまん、先客が居たんだな。出直すか?」
「いや。名前さん、もうちょっと待っててもらってもいいかな」

傷薬を取りに棚へと向かった伊作に、名前はもちろんと返すと元いた場所へ座った。
留三郎は医務室へと入ったが、文次郎はじっと名前を見据えたまま動かない。
隈の目立つ意思の強そうな目。まっすぐに向けられたその目に名前は少しだけたじろいだ。

「なんだ、どうした?」
「薬だけ後でくれ」

その様子を訝しんだ留三郎が声をかけるも、文次郎は短く返答するにとどまった。
結局そのまま立ち去った文次郎の背を、なんだあいつと、留三郎が怪訝な顔で睨み付けていると、薬を手にした伊作が戻ってきた。

「あれ、文次郎は?」
「知らん。虫の居所でも悪かったんだろ」

二人して仙蔵にこてんぱんにされたからかなと笑う伊作に、ばつが悪そうに頭をかきながら、留三郎は名前の向かいに腰を下ろした。

「あれは、あいつがつっかかってきやがったから……って、この話はもういいだろう。それで、この人が例の人か?」
「そう、名前さんだよ」
「はじめまして、食満留三郎と言います」
「はじめまして、名字名前です」

頭を下げた名前を留三郎は見定めた。
名前に警戒する様子は無い。
差はあれど、忍は常に緊張感を保っているものだ。間合いや手の位置などあげればきりがないが、余程のことがない限り、完全に無防備となることはない。
だが、目の前の彼女はどうだ。少しは危機感を持てと心配になるほど隙だらけだ。
薬研を挽く伊作と楽しげに話す名前を見る。
この近距離でも視線一つ気付かない様子に留三郎は眉を下げた。

“伊作の言ってた意味が分かった”

矢羽音を飛ばせば、返ってきたのはだろうと言うような伊作の目線。
密偵か否か、そんな次元ではない。
この人は密偵などになり得ないほどに、忍としての基礎がないのだと留三郎は確信した。



◇◇◇



密偵かもしれない者との思いがけない邂逅に、よしと意気込んだ文次郎だったが、会った瞬間にその意気込みは霧散した。
纏う雰囲気が忍のそれとは明らかに違ったからだ。
なんだ、あののほほんとした女は。
それが文次郎が名前に抱いた所感だった。
仮にもここは忍の養成所だというのに、一切の危機感が感じられないとはどういうことか。
自室へと帰る間も、そのことが頭を巡る。

「仙蔵はあの人をどう見てる」

長屋の自室に帰ってくるや、文次郎は同室の仙蔵へと問い掛けた。
唐突な質問にも関わらず、仙蔵はそれが名前のことだとすぐに察した。

「伊作の見立て通り密偵はないな。手に苦無だこもない。今日しばらく時間を共にしたが、普通の女性だ。かなり浮世離れはしているがな」

いつにも増して険しい顔をしていた文次郎を一瞥し、仙蔵は自身の考えを述べた。
たすき掛けに驚き、は組での出来事を話す名前を思い返す。
到底演技には見えなかった。仮にあれが演技だったならば、己は忍たま1年からやり直さなければいけないなと仙蔵は軽く笑った。

「あと彼女の出自はわからずだ。ただ、学園長先生が隠蔽を率先していた。何の為にかは不明だが」
「そうか」

仙蔵の返答に同意も否定もせず、ただ短く呟くと文次郎は自身の卓へと向かった。
その表情は仙蔵からは見えない。
彼女と文次郎がどのような邂逅を果たしたのかはわからないが、おそらく己と同じように彼女に違和感を抱いたのだろう。
頭を抱え始めた同室の後ろ姿に仙蔵は柔く笑った。

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