入学式、そして新学期から数日。クラスメイトの顔ぶれはほとんど変わらないし、授業も今の所さほど難しくない。
特に刺激のない日々。おかげで5限目は非常に、猛烈に眠気が強い。先生の講釈が右から左へ通り抜ける。樹形図だの積の法則だの、アブラカタブラ開けゴマと何がちがうんだろう。ちんぷんかんぷんだ。
おまけに、まぶたが異様に重い。今、居眠りしたら相当気持ちいいんだろうなぁ……。
黒板から目をそらし、窓の外を眺めると、眼下に広がるのは麗らかな春爛漫の陽射しを湛える校庭。彼がいる。なぜか、どうしても、あの間抜けな初対面からずっと、目が引き寄せられる。「運命の人」だなんて柄じゃないことを閃いたせいかな?……改めて考えれば、なんて小っ恥ずかしいんだろう。
そわそわとした気分を変えるために、全体に目を向ける。岳羽先輩がいた。
へえ、二人は同じクラスなのか。
今はどうやら長距離走を行なっているみたい。ちょうど体力測定の時期だからかな。
でも、持久力のテストならシャトルランの方がまだマシ。私たちがやる日、突然土砂降りになって種目変更になればいいのに。
多くの生徒が校庭の真ん中にしゃがんでいるところを見ると、今走っているのは体力がある人たちらしい。運動部の岳羽先輩はともかく、彼も残っている。その上、結構余裕そうだ。華奢な印象だったけれど、運動神経はいいんだ。ふぅん。
感心して見入るうちに、無意識に窓の方へ体が傾いていく。
ハッとした時にはもう遅い。慌てて向き直るも、教壇上の先生からは何か言いたげな一瞥が投げられた。内申点にピシリとヒビの入る音がする。
その瞬間無情にチャイムが鳴り響いた。
あ、ヤベ、板書が途中で終わってる……。
慌ててシャーペンを手にするも、両端から文字が消されていく。
え、ちょっとまってよ。何もそんなに急いで消さなくとも……。
呆然と口を開けている間に黒板はピカピカの深緑色一色になった。そんなあ。
「はぁ〜〜。」
ぐったりしながらラウンジのソファにもたれかかる。数学の授業の後も妙についてない午後だった。次の授業の現国では夕飯のメニューを考えていたところを急に当てられてしどろもどろになったし、掃除ではじゃんけんに負けてゴミ捨て担当になった。管弦楽の部活では音程がなかなか合わなくてパートリーダーにちくちく言われた。半泣きで帰ってみれば名前を書き忘れたシュークリームが誰かに食べられてたし、泣きっ面を蜂に刺されてそのまま水たまりへ豪快に突っ込んだような気分だ。
しかし不運はまだわたしをいじめきっていなかった。完全に油断しきって脱力してたところに帰ってきたのが彼。
「ただい……。」
「あっ……。」
一気に体感温度が氷点下をブッチ切る。痛いくらいの沈黙。出会って一週間かそこらの女の子が足おっ広げてダラダラしてるところを見たら困惑するのが当然だ。ていうかもしかしてパンツ見えてない?不味いな。
スッと何もなかったように脚を閉じ、姿勢を正す。
「お、おかえりなさい、有里先輩。はは、あははは。」
情けなく笑ってみても彼は無表情に目を瞬かせるだけ。頼む適当に流してくれ。なんでか、この人には短い間にカッコ悪いところばかり見られている。出会い頭に階段を転げ落ちるとか自分でもどうかと思う。
「あ、」
え、嘘でしょこの流れでつっこんじゃう!?これ以上ダメージを負う前に逃げなきゃ。影時間までに立ち直れる気がしない。
「あーーっと、今日宿題いっぱい出ちゃったんだった!わたし失礼しますね!」
一寸も彼の口を挟ませることなくまくし立てて脱兎のごとく自分の部屋へと避難した。
「〜〜〜っ!!」
声にならない悲鳴をあげてベッドへ倒れこむ。しばらく有里先輩と顔を合わせたく無い。いや、目の保養になる彼を眺めることはしたいが、面と向かうことができない。一週間は彼が出たことを確認してから学校に行こうか。いやでも、そうすると遅刻しそうな微妙な時間になるしな……。いっそ私が早起きすればいいんじゃない?起きれるならだけど。
どうやって有里先輩を避けるかぐるぐる考え込んでいたらまた、いつのまにか寝てたみたいだ。今日はこんこんと折り目正しいノック音で目が覚めた。
「エリ、そろそろ影時間だ。」
「はあい……。」
「眠っていたのか?」
「お、起きてた、起きてたよ美鶴ちゃん!」
「そうか、ならば良い。私は先に作戦室に行っている。……そうだ、ちゃんと鏡を見てから部屋を出るんだぞ。顔に枕のあとでもついてれば明彦が帰ってきた時うるさいからな。」
さすが美鶴ちゃん。私の居眠りなんてお見通しってわけ。ありがたい助言通りに洗面台の鏡を覗き込むと枕やよだれのあとはなかったものの、寝乱れて髪がボサボサだった。適当にブラシを通して曲がったリボンもついでに直す。
「よし。」
鏡の中の自分はまだ多少眠たげだったが、影時間だからで言い訳は通るだろう。のろのろと階段を上がる。
作戦室にはすでに岳羽先輩、美鶴ちゃん、理事長までが揃っていた。前も岳羽先輩が言ってたけどこんな複数人で寝姿の観察なんて気が引ける。ていうか、せめて当番制とかでいいんじゃないだろうか。動きのないスクリーンに飽きて欠伸がでかかったその時だった。ピピピという電子音とともに画面にコーリングサインが浮かんだ。
「明彦か、どうした?」
「すごい奴を見つけた!」
間髪入れず答えた真田先輩は些か興奮しているようだった。
「これまでみたこともないヤツだ!」
おぞましいほど大きな満月が照らす作戦室に一閃の緊張が走った。