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前世で私がまだ幼いとき母にこんな風に抱きしめられたことがあった。あまりよく覚えていないけど、あれは父が交通事故で死んだ時だったかな。「ごめんね」と、少しも母は悪くないのに泣きながら私を抱き締めて謝り続けていた。あの日、私は思ったんだ。『この人には側にいる人が必要なんだ』と。結局私も母も死んでしまったから今となっては懐かしい思い出の一つくらいの認識だけど、たまに考えてしまう。もしもあの日、母も私も死ななかったら今頃どう暮らしていたのかな…と。母には一生側にいてあげられる人が必要だった。でも私もいつかは別の男の人と恋愛をして結婚をしていたかもしれない。その場合、物理的に母とは別れてしまうことになっていた筈だ。そうなっていたら、母は私に何と言っていたんだろう。
「幸せになってね」「元気でね」「行かないで」「独りにしないで」
言葉はいくらでもある。私は離れていく私を母が見送ってくれる様子は想像することができたけど、自分自身が好んで母から離れていく様子は想像できなかった。果たして、本当に一人で生きられなかったのは私と母のどちらだったのか。どちらにせよ、あのまま過ごしていたとしてもあまり良い人生にはなっていなかったのかもしれない。
父の死以来、依存体質になってしまったのは……母ではなく私だったのかも。
炭治郎や禰豆子ちゃんを追いかけてここまで来たのだって、私が二人に無意識に酷く執着していたからかもしれない。……依存しているのかな。とても暖かく接してくれた二人に。


「きっと納豆は、本当は傷ついてる自分に気が付いていないんだな」
「『傷ついてる自分』……?」


私の話を聞き終わった炭治郎がそんな事を言い出した。『傷ついてる自分』とは何なんだろう。私は傷ついてるの?何に?
母が死んだことは確かにショックだった。それこそ自殺という道を選んでしまうくらい。でももうそれは前世の話だから、いつまでも引きずるわけにはいかない。今世の私には認められなくてもちゃんとした両親が居て、新しい生活がある。言わば記憶を受け継いだだけの『別人』。それをずっと引きずっていたらこれから先私は私の人生をまた泥沼に落としてしまうことになる。だから新しい二度目の人生を、前世とは全く別のものにして忘れようとしているんだ。

あれ。でもなんで私はまだ忘れられてないんだろう。



「なぁ、さっき納豆は俺に一人で頑張れる人なんて中々いないって言ってくれただろ。それは納豆にも言えることだからな」
「うん。けど私には炭治郎や禰豆子ちゃんがいるし……」
「うーん…。まだ納豆は俺達に頼れてないと思うんだよなぁ。この話だって今まで何年間も秘密にしてきたわけだし」
「そ、それは……ごめんね」
「あ!責めてるわけじゃないんだ!ごめんな!?でもなんだろう……こう……上手く言えないんだけどさ、今の俺達ってなんだか似てるよな」
「……違うよ。私が家族を亡くしたのは前世の話だよ。今じゃないんだから、炭治郎とは同じじゃない。…比べることもできない」


似ているわけが無い。全く違うんだから、私と炭治郎の苦しみは。二度目の親ができて、わりと裕福な家に生まれた私はこの世界では恵まれている方なんだから。前世の苦しみを持ち出すなんて、後出しのジャンケンみたいなもの。


「ほら、そういうところ。自分の中で色々考えて勝手に気持ちを抑え込むところ。その癖も俺と同じだ。全く……納豆も人の事言えないじゃないか」
「えっ」
「確かに納豆の言う通り、人の苦しみの度合いなんて比べられるはず無いんだ。ちょっとしたことでも傷つく人はいるし、中々肝が据わってて傷つきにくい人もいる。そんな世の中で『この人の方が可哀想だ』『この人は可哀想じゃない』なんて、他人である俺達が決めることなんてできない」


炭治郎は私を抱き締めるのを止め、正面に立って優しい目付きで私を真っ直ぐと見つめてくる。
そして気が付いた。炭治郎の言う「似ている」は私達それぞれの境遇を比べて言っているわけでは無いということに。



「似てるんだよ俺達は。誰かに頼りきることができなかった所も、家族がいなきゃ駄目だった所も。前世だから何だっていうんだ。一度でも大切な家族を亡くした事には変わらないじゃないか。俺だって今、生まれ変わったとしてもこの人生で大切な家族が死んだことは一生忘れられない。だってこんなにも悲しくて苦しいのだから……。どんなに時間が経とうと、納豆が苦しいと思ったらそれは他人がどう言ったとしても苦しいことには変わりない。だからもう良いんだ。自分の前世を忘れようとしなくても。俺と比べなくても」
「炭治郎……」



悲しくなるくらい優しい瞳が私を見ている。そして炭治郎の暖かい手が私の頭に優しく乗せられた。

そっか、私は苦しかったんだ。でも身近に炭治郎や禰豆子ちゃんという自分より辛い思いをしている人がいるから我慢しなきゃと思いすぎて、自分の気持ちに嘘をついていた。炭治郎の言った「鍵を掛けるみたいに心の奥底に閉じ込められている」とは、前世の秘密のことじゃなくて私の苦しいと思う気持ちだったのかもしれない。
……かなしい、悲しいか。うん、悲しいに決まっている。唯一の家族である母が……いや、お母さんが亡くなってしまったんだから悲しくないはずがない。こんなに簡単なことだったのに炭治郎に言われるまで分からないなんて馬鹿だな、私って。本当に前世で16年間生きてたのかって思うくらい心が幼稚すぎた。炭治郎に頼って欲しい一心で大人ぶってきたけど、もうやーめた。だって炭治郎が大人すぎて大人ぶれないんだもの。こんなの頼りたくなってしまう。でも良くないよね……。これじゃあまた、依存ルートまっしぐらだ……。

私は頭に乗せられている炭治郎の手から逃れるよう、二歩程後ろに下がる。炭治郎が少しだけ悲しそうな表情をした。
そんな顔するのやめて……罪悪感が……。


「……ありがとう、炭治郎。確かに炭治郎の言う通り私はまだ苦しいみたい。でもね、泣かないよ。涙はもう前世で出し尽くしちゃったから。大切なお母さんだったからまだあの時の苦しさや寂しさは残ってる。だけど今、もう少しで前に進めそうなんだ。お母さんを『忘れる』って表現は良くなかったかもしれないけど、今は今で大事なものがある。忘れはしない。でももう振り返らない。それが私なりのけじめなの」
「そうか。納豆が自分でそう決めたのなら、俺はそれを応援するよ!俺の大切なものの中には納豆もいるから」
「私の大切なものの中にも炭治郎は入ってるよ?もちろん禰豆子ちゃんも!!!」
「ありがとう納豆!すごく嬉しいよ!禰豆子もきっと喜ぶ……」


炭治郎は私の言葉を噛み締めるように目を閉じる。そんなに喜んでくれるとこっちまで嬉しくなってしまう。こんなの照れちゃうじゃん!!!とんでもねぇ炭治郎だ……。

そのとき私はこの二年間ずっと炭治郎に言いたかったことがあったのを思い出した。


「炭治郎!」
「ん、どうした?」
「あのね言いたかったことがあるの」
「なんだ?」



これだけは何年かかったとしても、どうしても炭治郎に伝えたかった。



「村中の人が炭治郎の家族に花を手向けに行ってた。皆でお金を出し合ってちゃんとした僧侶も呼んで、炭治郎や禰豆子ちゃんの分まで炭治郎の家族を弔ったよ。だからちゃんと炭治郎の家族は迷わず天国にいけたからね。……皆、炭治郎の家族が大好きだよ」



だから安心してね炭治郎。






私の言葉を聞いた炭治郎は膝から崩れ落ち、「ありがとう」と何度も繰り返しながら声を上げて泣いていた。

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