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目を開けた瞬間「あ、これ夢だ」と、私はすぐに覚った。
だって目の前にはもう居るはずの無い、前世の母親がいたから。
‐‐‐‐‐‐
「おはよう納豆、今日は起きるのが早いのね」
「…うん」
信じられなかった。
目の前で、お母さんが笑っていることが。
「早くご飯を食べて学校行きなさいね」
もう戻ることなんて無いと思っていた日々。
学校なんて言葉、久しぶりに聞いた。
カレンダーを確認するとそこには『2020年』の文字。私は戻ってきてしまったんだ。以前の私が生きていた『令和』に。
テレビに映る美人なニュースキャスターさんでさえ懐かしい。お母さんの作ったご飯の味も、久しぶりに制服を着た感覚も、全てが本物のようだ。この時代に鬼なんてものは存在しない。もっと平和で、だけど日常生活にも危険は潜んでいて、結局人はいつ死ぬかなんて分からないよねっていうごく普通な生活。
──とても暖かい。
お母さんの声も眼差しも、全て。もう戻ることは無いのだと割り切って、今まで振り返ろうとしてこなかった。その選択は決して間違いではなかった。実際に振り切ったお陰で私はあの世界にも馴染めたし、炭治郎とも分かり合えたのだから。でもそれが……こんな形で戻ってくるなんて思わないじゃないか。
強く握りしめた拳をダンッと机に叩きつけた。
その瞬間、視界が暗転。
再び目を開くとそこには私と同じ高校の制服を身にまとった炭治郎、善逸、伊之助、禰豆子ちゃんの姿が。
「な、なんで……皆…その制服なの……?」
「なんでって、皆同じ高校だからだろ?どうしたんだ納豆?」
炭治郎がいつもと変わらない眩しい笑顔を浮かべている。
「はああああっ!!可愛い女の子と毎朝顔を合わせられるなんて幸せぇ…!」
善逸が恍惚とした表情で私と禰豆子ちゃんに忙しなく視線を移している。
「お前何で今日そんなにぼんやりしてんだよ。変だぞ?」
大胆に制服の前を開けて素肌を晒した伊之助が怪訝そうな顔で私を見つめる。
「もー朝から騒がしすぎますよ!納豆ちゃん、二人で学校行こ?」
口に竹を噛んでもいないし、当然のように日の下を歩く禰豆子ちゃん。
そして私は気がつく。
──嗚呼、私はこんな生活を送りたいと望んでいるのだ……と。
ぐるり、と再び視界が暗転。
次に目の前に居たのは可愛い服を着た蜜璃さんとしのぶさん。その服はまさしく『流行り』という感じのもの。
「今日はとってもいい天気ねー!納豆ちゃん、しのぶちゃん!これから『ショッピング』にでも行かない!?」
「あらあら、それはとてもいい案ですね〜」
「ショッピング」という大正時代の蜜璃さんなら絶対に言わないであろう言葉。
やっぱりこれは私の夢だ。大正とはかけ離れた、私の望む理想の生活の夢。
ほら今も、向こうからカナヲちゃんとアオイさんとなほちゃん達が走ってきてる。
──また、視界が暗転した。
目覚めると私は家のリビングに置かれているテーブルに突っ伏していた。顔を上げると目の前にはキッチンがあって、私に背を向けた状態でお母さんが晩御飯を作っている。匂いからしてカレーを作っているみたい。そういえばお母さんが「カレーはお父さんの大好物だったんだよ」って言っていた気がする。
「そろそろお父さんも帰ってくるわよ」
「……お父さん?」
お母さんのその言葉に、心臓が一際強く鼓動する。……この夢の中で私のお父さんは生きていたのだ。
私はお父さんの顔をあまりよく覚えてはいない。幼い頃に亡くなってしまったというのが一番大きな要因。でもお父さんの顔を思い出そうとすると、なんとなくぼんやりと思い浮かぶのだ。…幼いながらに、私が自分のお父さんの顔を必死に覚えようとしていたから。
お母さんの背中を見つめる。そうだ。よく私はお母さんが料理している背中をよくこうして見ていた。それで、お母さんが、「味見してくれる?」って言って、こっちを振り向いて、私がそれで、それで、それで……──
ズキッと鋭い痛みが頭に走る。
止まない痛みに私が頭を抑え、お母さんに「お母さん、頭、痛い…」と訴えかける。
しかし、私の言葉を聞いてもお母さんはこちらを振り向こうとしない。料理を作る手を止めないのだ。
頭の痛みとお母さんに応えて貰えない悲しみで、目尻から一粒の涙がこぼれ落ち、テーブルの上にポタリと落ちた。
違う、これは、夢だ。私のお母さんはもういない。私はもう、ここには戻れない。進んでしまった。失ってしまった。それでも、諦めなかった。私の大切なものが、あの世界にもあったから。
その刹那、私の着ていた高校の制服が隊服に切り替わった。腰には自分の刀がさしてある。私はガタッと椅子から立ち上がる。
それでもお母さんは、私の方を見ない。
だから私はお母さんの背を見つめながら、問いかけた。
「ねえ、お母さん。もしもお父さんが死んだらどうする?」
お母さんの料理を作る手が止まる。
「そうねぇ…。それはとっても辛いことね。しばらくは間違いなく落ち込むわ」
「うん」
「でも、いつかは立ち直る時が来ると思うの」
「…うん」
「どう足掻いても人はいつか死んでしまうでしょ?なら私達はそれを受け入れていかなきゃ。それに私には子供が居るから独りになる訳でもないし、なにより私が落ち込んでばかりいたら……納豆が困るじゃない」
「……!」
「私は人の親だから。我が子の成長も見届けていかないとね!」
確かにお母さんはお父さんが死んでから、私を女手一つで育ててくれた。いつも笑顔を絶やさなくて、私をいつも一番に愛してくれて……。お母さんは、私が心配するまでもなくお父さんの死から立ち直っていた…?じゃあ、今まで私はただの思いすごしでお母さんの事を深刻に捉えすぎていたってこと……?
お母さんは私と居られれば幸せだったの?
そして私は、どうしてもお母さんにこれだけは聞いておきたかったことを問い掛ける。
押さえ込んできた色んな気持ちが溢れて、思わず声が震えてしまう。
「じゃあお母さんは、私がいつか結婚して、お母さんから離れる日が来ても幸せでいられるの……?」
限界まで堪えていた涙のせいで前が滲んでよく見えない。
でもそのとき、私の問いかけを聞いたお母さんが一瞬だけ、満面の笑みを浮かべた状態で私の方を振り向いた。
「もっちろん!自分の子供の幸せを願わない親なんていないわ!」
その言葉を皮切りにダムが決壊したかのように零れ出した涙。それは止まることを知らない。
お母さんを置いて生まれ変わってしまったことへの罪悪感。
お母さんの最期に立ち会ってあげることが出来なかった後悔。
お母さんを失ったことへの悲しみ。
吐き出したくても吐き出して来れなかったものが今この瞬間、涙と共に溢れた。
「そっか…そっかあ……!」
嫌だよ。お母さんと一緒に居たいよ。何で先に死んじゃったのさ。お母さんと会えるかなって思って後追いしたら、私どうなったと思う?大正時代に生まれ変わって鬼と戦ってるんだよ?本当は怖くて怖くて堪らないんだ。鬼と戦うのが。…でも大切な人達を守りたいと思うから、戦うよ。もうお母さんの時みたく何も出来ない自分にはなりたくなかった。
私があの両親の家を出たのだって、自分の心の中で色んな理由を付けて言い訳してきたけど、本当はお母さんとお父さん以外の人を親だなんて思いたくなかっただけなんだ。……酷い子供だよね。いきなり居なくなるなんて。駄目なことだって分かっていたけど、どうしても逃げたかった。
実は私ね、ずっとお母さんは私が離れていったら死んじゃうんじゃないかって思ってたんだ。だからお母さんが死んだ時、心の中がグチャグチャになってしょうがなかった。
本当に一緒に居ないとダメだったのは、私の方。……お母さんはそんな私にずっと付き合ってくれていたんだね。本当のことを私に突きつけるわけでもなく、ただ寄り添ってくれた。最高のお母さんだなって思うよ。
だから尚更、夢から覚めたくないなぁ。本当なら今、私がこうして刀を手にすることも無かった。
…………でも、お母さんが「幸せだった」って言うのならもう何でも良いや。
次は私もちゃんとお母さんの分まで幸せになってみせるから。
「……気分は晴れた?」
「え?」
私の方を振り向いたお母さんは、静かに泣いていた。
「一人にしてごめんね、納豆。今のあなたがとても幸せそうで本当に良かった」
「お、お母さん…」
泣きながら微笑むお母さんが見ていられなくて、近寄ろうとしたとき、ガチャッと玄関の扉が開く音がした。そして誰かがリビングに向かって歩いてくる足音がする。
「でももう起きなさい」
お母さんの私を突き放すかのような冷たい声色にビクッと肩を揺らす。
「夢はあくまで夢でしかないし、自分の望むものが必ず実現するわけでもないのよ。それに納豆にはやるべきことがあるんでしょう? だからもう起きなさい。あなたは起きて、戦うの」
ドク、ドク、と心臓の鼓動が速くなる。
……もう少しだけ、ここにいたい。でもそれをお母さんは許してくれない。
そもそもよく考えたらおかしい所が多すぎる。この夢は鬼の血鬼術のはず。なのになんで、私の夢の中のお母さんは、自我を持っているの……?
このお母さんも、私が望んでいるお母さんにしかすぎないの……?
だとしたらさっきの質問の答えも、全て私が無意識にこう答えて欲しいという気持ちが現れてしまっただけなんじゃないの……?
ヒュッと息がしにくくなって、指先が冷たくなるのを感じた。
そのとき、リビングの扉が開かれた。
「……───────────?」
「……え?」
「いつも応援してるね。私も……お父さんも」
「ちょっと待っ」
私のお父さんと思わしき人が、リビングに入って来た途端に、視界が歪み意識が薄れていった。
その中で聞こえた『お父さんの言葉』とお母さんの言葉。
そして完全に意識が消える直前に一瞬だけ見えたお父さんは「…バレた?」と言いだしそうな不安げな表情をしていた。
「どうして、あなたが……?」
列車の中、禰豆子ちゃんを入れる箱に凭れながら眠っていた私が起きた時の第一声がその言葉だった。