未だ眩暈の途中


 ︎︎田中さんと初めてご飯を一緒食べてから数ヶ月。私の世界には“田中さん”と言う存在が組み込まれた以外、特に変化を見せなかった。勤務時間も一緒だし、朝に一口パンを齧られるのも変わらない。本当に彼が加わった以外なにも変わらない世界に慣れ親しみ始めた頃。私はその日珍しく、社食では無く広い休憩スペースでご飯を食べていた。
 ︎︎本来なら同僚と社食で食べる予定だったのだが、急遽予定が入ったとか何とかで、一緒に食べる事が出来なくなったのである。それなら一人で食べれば良いと言う話なのだが、一人で食堂に居るのは物悲しく感じ――踵を返してコンビニで弁当を買い、休憩スペースで食べることにしたのだ。
 ︎︎会社の休憩スペースはとにかく広く、丸いテーブルがある他一人用の席もあった。特に一人用の席は左右が区切られており、ゆっくりと寛ぐ事が出来る。私はそんな一人用の席に座り、携帯を触りながらもご飯を食していた。と、その時だ。休憩スペースと廊下を区切る扉が開き、外から人が入って来たのである。

「ラッキー、誰もいない」

 ︎︎初めに聞こえて来たのは同僚の声だった。どうやら同僚の位置から私の姿は死角になっているらしく、私の存在に気が付いていないようだ。何だ、こっちに来るなら言ってくれればよかったのに。なんて思いつつも存在アピールをする為、少し椅子を後ろに引いた瞬間だった。私の耳に同僚の友人らしき人の声が聞こえたのである。

「でさ、ミョウジさん? ︎︎だっけ。あの人の話聞かせてよ」
「えー、ナマエの話? ︎︎良いけどさ」
「この前フラペチーノ奢ってくれたんでしょー?いいなぁ」
「奢ったって言うか奢らせたって言うか? ︎︎今持ち合わせないって言ったら私が出すから良いよって」
「うわー、悪ど。お金ちゃんと持ってるんでしょ?」
「まーね」

 ︎︎聞こえた声は確かに同僚の声だ。けれどいつもと雰囲気が違う。いつもはもう少しふわふわとした可愛い感じの喋り方なのに、今は言葉に棘がある様な喋り方だ。しかも“奢らせた”って何だ。確かに私は彼女に奢ったが、まさかそんな風に思われていたなんてと少し絶望する。
 ︎︎けれど同時に「やっぱりな」とも思えた。何故なら同僚と飲みに行くと、必ずと言って良いほど悪口が発生する。同僚の友人や上司、果てはあんなに好きだと言った彼氏の悪口など様々だ。私はそう言うのを一つ一つ聞いているから、悪口を言われている事には何ら違和感は無かった。とは言え傷付くものは傷付くので、顔を逸らして息を潜める。

「でもミョウジさんって言ったら何でもしてくれそーだよね」
「してくれるよ、と言うか機械的なんだよね。仕事とかもそうだけど何しても端的だし。飲みに言っても聞いてるだけでさ、多分何言っても傷つかない気がするんだよね」
「えー。それって完全に都合の良い女じゃん」
「かもねー」

 ︎︎ケタケタと笑う同僚の友達の声を耳にしながら、私は音を立てないよう椅子を前進させる。それから出てきた冷や汗を指で軽く拭って、浅く息を吐いた。
 ︎︎同僚にとって私は都合の良い人間でしかなく、友人関係でも何でも無いのだろうか。今まで飲みに行ったり遊びに行っていたりしたが、彼女にとっては本当に都合が良かっただけなんだろうか。そんな事がクルクルと脳内を巡る中で、私は目を細める。確かに同僚にあれだけ言われて傷付いた事もあるが――それより何より、機械的だと言われた事を否定できないのが一番のショックだった。
 ︎︎結局同僚たちは数分会話した後休憩スペースを出ていった。そうして午後、仕事を再開する時には同僚は“いつもの同僚”に戻っていたのである。






 ︎︎仕事が終わったのは昼休憩から約六時間後の事で、私は仕事が終わるなり早々に帰路に着いた。本当なら同僚を飲みにでも誘おうと思って居たのだが、そんな気分にはどうしてもなれなかったので帰る事にしたのである。
 ︎︎とは言え家に帰っても一人だ。やることも無いし、一人だと特に今日の事を考えてしまうかも知れない。だからどんどんと帰る足が重たくなって行く。本当なら帰って直ぐにでも寝た方が良いのだろう。けれどやっぱり帰る気には慣れず、私は踵を返して近場にあった公園へと足を踏み入れた。
 ︎︎公園は夜に近いとあってか殆ど人はいなかった。それを良いことに、私は入ってすぐのベンチに座って「はぁ」とため息を吐く。何故こんなにも上手く行かないのだろう。私の接し方が悪いんだろうか。なんて殆ど泣きながら考えていると、ふと目の前に影が出来る。驚いて顔を上げると、そこには馴染みの顔があった。

「やぁやぁ!」
「あっ、え、田中さん!」

 溢れ出たばかりの涙を拭い「どうしてここに」続けてそう問うと、彼は少しばかり笑みを浮かべて「たまたま君の姿が見えたから」と返して来たのだ。恐らく彼も帰路の途中だったんだろうと考察しつつ、私は苦笑いをした。

「そうでしたか。すみません何だか辛気臭い所をお見せしてしまって」

 ︎︎人に弱い部分を見せた事が無い私はそう言って、何か別の話題を提示する為に思考する。そうして数秒ほど思考していると、ふと脳内にいつも行っている居酒屋さんの風景が現れたのだ。

「あの、すみません。良ければ飲みに行きませんか?」
「いいよ!」
「二言返事どころか即答ですね……本当に良いんですか?」
「君と話す時間は面白いからね、それに一般的な反応も見る事が出来るし」
「何だか良く分かりませんが、ありがとうございます」

 ︎︎一般的な反応って何だろうと疑問に思ったが、それを口に出すことは無かった。どうせ聞いても分からない、なら聞かなくてもいい。思考がそこまで巡って来て結局聞かない事に決めたのだ。そうして私はベンチから立ち上がり、待ちぼうけている田中さんに「行きましょっか」と言葉を掛けたのである。



 ︎︎お店に着いたのはそれから数分後の事だった。私が良く行く居酒屋さんは焼き鳥を主に扱っており、お酒の種類も割と豊富だったりする。何より雰囲気が良いのでいつも利用していた。
 ︎︎着ていた上着をハンガーに掛けて席に座る。今日の席はカウンターだ。いつもは二人席やテーブル席を使うのだが、今日はカウンターしか空いていなかったので仕方が無くカウンターにした。
右隣に座った田中さんを見つつ、私はメニュー表を取り出す。今日は何のお酒にしようかな。そう思って最初は見ていたのだが、ふとお酒を飲んだ時の自分について思い出して、そのページを閉じる。
 ︎︎私はアルコールにそこまで強くない。人並みには飲めるけれど、酔いが回ってからは制限の二文字を知らないかの様に飲み続けてしまう。同僚の前や友人の前ならこんな事悩まなかっただろうが、今日は田中さんが相手だと言う事でアルコールを入れる事は止めたのである。結局ソフトドリンクの欄にあるジンジャーエールに決めて、メニュー表を田中さんに回した。彼は数秒メニューを見つめたあと、私にメニュー表を返したのだ。それを期に気になっていた事を口にする。

「あの、マジックって難しいんですか?」
「難しくは無いよ! ︎︎ただ慣れるまでには時間が掛かる」
「成程、プロの回答って感じですね」

 ︎︎織り成す会話は大抵マジックの話だった。私の話をしたって面白くは無いし、かと言ってこれと言った会話の共通点は無い。だから彼お得意のマジックの話をしようと、そう思ったのである。いや、本当はそんなの建前でただ“非現実的”な世界に憧れているだけかも知れないが――と思っていた時、奥から店員さんが現れた。

「御手拭きです。熱いのでお気を付けて下さい。ご注文はお決まりですか?」
「えっと、私はジンジャーエールで」
「私もそれで」

 ︎︎私の言葉に続けて注文した彼に、私は少しばかり目を見開く。だが直ぐに思考を逸らして店員さんに言葉を投げかけたのだ。

「食べ物はとりあえず後でお願いします」
「はい」

 ︎︎注文を聞いた店員さんは、そのまま店の奥へと消えていく。その後ろ姿を見つめつつも、なに注文するか考えとかないととメニュー表をまた卓上に置いた。

「食べ物どうしますか?」
「君が選んで良いよ!」
「私がですか、分かりました」

 ︎︎完全に丸投げ状態だけど、アレルギーとか嫌いな物は無いのだろうか。まぁ合っても注文する時とかに申告するかなと考え、私は適当に何を頼むか決める。ついで世間話をする為に会話を繋げた。

「前から気になっていたんですが、田中さんって普段は何されているんですか?」

 ︎︎私は彼がマジックをしている姿しか知らない。もしくはご飯を一緒に食べている時だが、やはりマジックの話しかしないので彼については殆ど知らないが正しいだろう。唯一初めて出会った時はお腹を空かせて倒れていたが、あれもマジックの演出だと思えば納得がいった。そう言う訳で失礼な質問かも知れないと思いつつも、好奇心が勝って聞いてしまったのである。

「うーん。強いて言うなら秘書だ」
「えっ、秘書!?」

 ︎︎思っても見なかった職業につい声が出てしまい、慌てて口を軽く抑える。ついで先程よりも小さい声で「すみません、意外だったもので」と言葉を紡いだ。

「秘書ってあれですよね、議員さんとかのお手伝いやら何やらをするって言う」
「そう」
「凄いですね。私、職業が秘書の方に初めて会いました」

 ︎︎今まで会った事のある珍しい職業の方と言えば、翻訳をしている人くらいだ。秘書が職業の人とは会った事が無いし、そもそも秘書ってこんな身近に居るんだなと思わせられる。でも、何故秘書なんだろうか。彼の器用さがあれば何だって出来そうなのに、と考え始めた頃。ふと人探しの事を思い出したのだ。

「あ、秘書をやってるのも人探しに関係してるんですか?」
「ん? ︎︎あぁ、してないよ。これは単純に成り行き」
「成り行きで秘書になれるんですね……やっぱり凄いや」

 ︎︎成り行きでどうしたら秘書になるのかと言うツッコミはさておき、私は笑みを浮かべる。私とは全く真逆の人、夢や希望に溢れている様に思える人。そんな人を“羨ましい”と思いながら見つめていると彼は一息吐いた後口を開いた。

「貴方は今の仕事が嫌いなの?」
「えっ?」
「まるで鳥籠の中に捕らわれた鳥のような顔をしてるから」

 ︎︎詩人のような例えを出す彼に、私は少しばかり考える。仕事が嫌いと言われればそうだし、好きかと言われてもそうだと答えられる。曖昧だ。今すぐ答えなんて出てこない。けれど彼に捕らわれた鳥のようだと言われて、あぁそうかもとも思えたのだ。

「……そうかも知れません。私は成り行きと言うか、予め引かれていたレールの上を歩いてここまで生きてきたので。今の仕事に不満は無いんですが、同時に満足感も無いんですよね。だから田中さんに憧れてる節もあります」
「私に?」
「えぇ。貴方のマジックは私を非現実的な世界に引き込んでくれますから」

 ︎︎彼のマジックはどこか幻想的だ。私を夢の中へ引き込んでくれるし、まるで本当に現実じゃない様にも思える。色々なしがらみから私を逃がしてくれている、そう言う風に思う。だから彼が羨ましく憧れの対象でもあった。
と、私が笑みを浮かべていた時。こちらへ来た店員さんが喋りながら飲み物を机の上に置いた。

「お待たせしました。ジンジャーエールです」
「ありがとうございます。あ、注文良いですか?」
「はい」
「えっと……とりあえずこのサラダと、あと唐揚げ。あとこの焼き鳥セットを二セットずつお願いします」
「かしこまりました。あっ、申し訳無いのですが、今火の調子が悪く……出来上がりが少し遅れてしまうのですが、お時間大丈夫でしょうか」
「私は大丈夫です。田中さんは?」
「私も特に、今は時間に縛られていないからね」

 ︎︎田中さんの回答を聞いてから店員さんに顔を移す。

「すみません、ありがとうございます」

 ︎︎そう申し訳なさそうに頭を下げた店員さんは、注文表を持って厨房の方へ帰って行った。
 ︎︎そうしてぼんやりと店員さんの背を見ている時だ、ふと昼の光景を思い出した。普段は見せない同僚の姿、私に対する悪口。あんなの世界中を探せば似たような事が起こっている人なんて多いだろう。きっと解決策だって五万と転がっている。けれどそれを今すぐ探すと言う気持ちにはなれず、気がついたら口から言葉が盛れ出していた。

「少し相談をしても良いですか?」

 ︎︎私が言うと彼は「さっきの続き?」と質問返しをして来たのである。それに対し小さく頷くと、彼はメニュー表を片付けて私に視線を向けた。

「……先程仕事が嫌いだと言いましたが、実は同僚とも上手く行ってなくて……機械的だって言われてしまったんです。私、それを否定できませんでした。確かに私は機械的な対応をしてしまうし、現実ばかりを見せられて来たからそれに沿う対応しか出来ません。合わせるのにも精一杯で、結局人の顔色ばかり伺ってしまいます」

「私、これからどうすれば良いのか分からなくて」
「貴方は」

 ︎︎一息置いて、また彼が息を吸った。

「貴方はこの世界が好き?」
「……本当の事を言うと嫌いかも知れません。確かに安定した暮らしは出来ますが、毎日毎日自分を殺して生きているみたいで気が重たいです。生き甲斐も無い今、この世界が楽しいとは思えませんし」

 ︎︎初めて出た本音だったかも知れない。今まで誰にも言えなかった、心のうちに潜めていた物。それが簡単に口から出てしまって不思議な感覚に陥ると共に、秘書だからか会話を引き出すのが上手い彼に関心してしまう。そうして関心していると、ふと田中さんが目を瞑った。

「なら僕が連れ出してあげようか」
「そうしてくれたら嬉しいな、なんて。すみません愚痴ばかりで」

 ︎︎連れ出してくれるなら連れ出して欲しい。私だってもっと夢を見てみたい。色々な事をしてみたい。けれども叶わないと分かっているから、私は苦笑いを浮かべて謝りの言葉を入れる。すると後方から店員さんが現れたのだ。

「お待たせしました、サラダと唐揚げです」
「ありがとうございます」

 ︎︎サラダと唐揚げを受け取り机の上に置く。ついで田中さんの方に顔を向けたが、先程の会話を続ける気はもう無く。以降田中さんに愚痴を零すことは無かった。