それは雨の日だった。
社屋を出ようとして初めて気がついた。雨だ……。紛うことなき雨。しかも土砂降りの。昨日も一昨日もハンドレットガンナーのせいで泊まり込んだから天気なんて知らなかった。
「傘、ないや……」
この中を歩いて帰るのは厳しい。でも明日はせっかくの休みだから帰って寝たい。どうしたものかと立ち尽くしているとまた思考があっちこっちと散っていく。
休みの間に書簡を買って、辞表の書き方を調べて……明後日には出せるかなぁ、課長はなんて言うかなぁとぼーっとしていたら、いつの間にか後ろに人が立っていた。
「おい。今度は何を考えている?」
「辞表を……ヒッ!」
出入り口のガラスに映るその人の姿を見て声にならない悲鳴を上げた。
「昼間といいキミは私を幽霊か何かと勘違いしていないか?」
振り向くとどこか不満げなルーファウス社長が立っていた。
「申し訳ありません! ぼーっとしていたのでつい……」
「そのようだ。それで? 辞めるのか?」
「え……?」
「辞表と言っただろう」
「あの、ええと……」
すっと社長の目が細められる。決して怒っているような目じゃない。静かに答えを見守るような目だ。そして答えないという選択肢は用意されていない目でもある。
「考えているだけです。まだ決めていません」
うん。嘘じゃない。でも、真実とも少し違う。自分のクビがかかっている原因がハイデッカーだとは報告できない。誤魔化してしまえばきっと社長には関係ない。この会社は世界一の大企業だ。平社員が1人辞めただけで何か変わるものでもない。今こんな会話をしていても、辞めたら気付きもしないだろうし思い出しもしないだろう。
私の真意を図るようにじっと見つめられる。社長の青い目は吸い込まれそうで居心地が悪い。
「まあいいか」
本日2度目のまあいいかだった。なにがいいのかと首を傾げて思考を飛ばそうとした瞬間ついてこいと言われた。
返事も待たずにスタスタと歩いていくからついて行くしかない。無言で歩くスラリと高く白い背中を小走りで追う。
たどり着いたのは地下駐車場で、あの……と声を掛けようとして社長が立ち止まった。鼻先をその背中にぶつける。
「……すみません」
「いや、いい。そのぼーっと考えるのはキミの癖か?」
「そうです。子供の頃からずっとです。いつも色んなことを無視してすぐに考え事をするのでよく母に叱られてました」
あっ、そういえばもう直ぐ母の……と考えて微かな笑い声が降ってくる。
「あっ……」
恥ずかしくなって隠れたくなる。社長に対して今日だけでもうすでに何度もやらかしてる。
「確かに気をつけた方がよさそうだ」
「すみません」
「乗れ。送ってやる」
「えっ! い、いえ結構です」
突然の提案に私は少し後ずさった。社長の、しかも女性社員ほぼ全員と言っていいほど憧れの人物の車に乗るなんてとんでもない。月曜日は絶対に私の血の雨が降る。
それに、それに……着替えて手と顔を洗っただけでシャワーを浴びてない私はきっと油と鉄のにおいがするはずだ。そんな状態で乗れるはずがない。色気のないパーカーまで着ちゃって!!!
「傘を持っていないんだろう? それにその調子で考えていたら明日になる」
社長はそう言って助手席のドアを開けると私の背中に手を回して乗るように促す。
結局、早くしろと言わんばかりの青い目に負けて社長の車に乗った。エスコートするように社長がドアを閉めてくれると私はシートベルトを締めてドアに寄りかかるように小さく縮こまる。
「家はどこだ」
社長も運転席に乗り込んで、シートベルトとエンジンを掛けながらそう尋ねた。
「弍番街の駅付近の社宅アパートです」
「ああ、あそこか」
「わかるんですか」
「社宅が設置されている地域は大体把握している。何かあれば社の責任になるからな」
なるほどと私が小さく呟けば、優雅な手つきで社長はステアリングを握って緩やかに車が動き出した。
密閉された空間でよくわかる。子供の頃から毎日嗅いでいる油と鉄のにおいだ。
居た堪れなくなって窓を少し開けていいですかと聞いたら、雨が入ってくると当たり前の理由で却下された。
車体にあたる雨の音を聞きながら、ステアリングを握る社長の手をチラッと盗み見る。そして俯いて自分の手を眺め見て窓へと視線を移した。
男の人なのに社長の手は白く、指は細くて綺麗だ。それに比べて私の指先はゴツゴツとしていて黒ずんでいる。念入りに手は洗ったはずだが、車内を汚さないか過剰に心配してしまう。
私は窓を流れる雨粒をじーっと眺める。会話は特になくて余計に居心地の悪さを感じた。
わからない。掃いて捨てるほどいるうちの1人をわざわざ家まで送り届けようとしているこの人が。電車だってギリギリあったのだからさっさと置いて帰ってしまえばよかったのに。
「なにをそんなに気にしている」
とても静かだけど、車の走行音と大きな雨音にも負けない鮮明な声に社長の横顔を見た。
「そう見えただけだ。私の思い過ごしなら忘れてくれ」
「いえ……その、自分の油と鉄のにおいが気になっているだけです」
「懐かしくていい」
懐かしいの意味が分からなくて、どこか遠くを見ているような社長の横顔を見つめた。
「昔、神羅カンパニーがまだ小さな製作所だった頃のことだ」
そう言われて初めて思い至った。そういえば神羅カンパニーが今の大きさになったのはここ十数年の話だ。もっと以前は町工場だったと聞く。
「あの親父も私が子供の頃は機械油と鉄のにおいがした。嫌いではなかったのだがな」
社長は自嘲気味にふっと笑った。父親であるプレジデントが死んで悲しんでいるようには見えない。それでも何かを嘲っているようで余計にこの人が分からなくなった。
「指先もキミの手のように黒ずんでいた。……ああ気にしているのならすまない。だが、誇っていい職人の手だ」
「……そんなこと、言われたの初めてです」
「見る目がないな」
「へ?」
「いや、気にするな」
他意もなさそうに呟いた言葉が頭に残る。見る目がない、誰に言った言葉なのか。私は、はいとしか答えられなかった。
そしてまた沈黙が車内を包む。もう直ぐアパートに着くころ、社長は少し意を決したよう(私にはそう見えた)に口を開いた。
「キミはメイシン鉄工所の娘だろう」
その言葉を聞いて私は目を見開いた。
「子供の頃に親父に連れられて行ったことがある。キミとも話したことがあるはずだが」
そう言われて思い出そうとしてみるがわからない。来客なら父を慕ってたくさん来ていた。だからこそ埋もれてしまってわからなかった。
「すみません。覚えていません」
「やはりな。キミはあの頃も物思いに耽っていた。工場はどうした」
「潰れました。神羅26号の計画がなくなって、一緒に仕事もなくなって」
「ご両親は元気か」
「……」
私は俯いた。続ける言葉を迷ってしまう。知らないはずか。葬儀には誰も呼ばなかった。
「キミの親父さんは技術者としてとても優秀だったと聞く。そうか、手伝ってもらいたかったんだがな……」
社長は私の様子で気づいたようだった。独り言のように静かに呟くとアパートの前についた。
自分の鞄を握りしめて、早口で礼を言うとドアノブに手をかけた。
最後に絞り出せた言葉は本心のはずだ。仕事でもこれ以上、居場所がなくなるのは嫌だった。
「送ってくださってありがとうございました。恨んでませんから……」
「そんな人間だとは思っていない。名前を教えてくれ」
「整備場で名乗りました」
「ファーストネームだ」
「私に会ったことがあるならご存知ですよね」
私のファーストネームを教えて何になるのだと、逃げるように降りようとすると左手を優しく握られ引き止められる。
「キミの口から聞きたい」
手を取られた驚きと、聞く人によれば口説き文句にも聞こえるセリフに私は社長の顔をまじまじと見た。
真剣な目が私を射抜く。この人の宝石のような目はなぜこんなに私をざわつかせるのだろう。本当に居心地が悪い。
「リクです」
「リク。またキミと話がしたい。辞められては困る」
「私は掃いて捨てるほどいるただの整備士です。父には敵いません忘れてください。今日はありがとうございました」
そう言い残して車から降りると大雨の降る中、早足でアパートの自室に入った。
遠くで風邪を引くなよ、と聞こえた気がする。
エンジンが遠ざかる音が聞こえてドアを少し開けて外を覗き見る。車がもういないことを確認して何故か誘われるように道に出た。走り去って行ったであろう方向を見て、シャワーのように降り注ぐ雨を全身に受けて膝を抱えてしゃがみ込んだ。
これはあの統括のせいで自分も仕事を失うかもしれない不安からなのだろうか、両親のことを思い出したからなのだろうか、それとも何かを勘違いしそうになっているからなのだろうか今の私にはわからない。
泣いてるんじゃない。これは雨のしずくだと自分に言い聞かせた。
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Moon Fragrance