Moon Fragrance

4月5日 彼女の笑顔
彼女の笑顔



 最近、リクがオレの腕の中で、暑さに寝苦しそうにしていた。寝ているあいだにモゾモゾと動く回数が増え、布団から出ていることもあり、抱きしめている腕から解放してやったこともある。だがそうすると、寝たまま自ら腕の中に戻ってくるのだ。それを見て愛おしさが募りつつも、どうにかしてやりたかった。
 もう、冬から春へと向かう、季節の変わり目。寒さが和らぎ、衣服は薄手の長袖がちょうどいい。時折、気温が下がる日にはいいが、厚手の衣服はそろそろ仕舞うころか。
 そんなときに思い出した。リクと散歩中に、彼女がこの店の服は可愛いねと立ち止まっていたのを。確かあの店のショウウィンドウのマネキンには、春先によさそうな服が何着か飾られていたはずだ。事務所に行くと言えば、出かけられるだろう。

「やらなければならない仕事を思い出した。少しばかり事務所のほうに行ってくる」
「わかった。気をつけていってらっしゃい」
「ああ」

 仕事などはないが、口を開こうとしたツォンを見やれば、すぐに口を閉じた。思い立てば早いほうがいいだろうと、昼も少し過ぎた時刻だった。リクも特に疑っていないようだ。好都合で助かる。
 自宅を出る際についてきたツォンが聞いてきた。

「仕事を思い出したなどと、どうされたのですか」
「彼女に一番怪しまれない理由が仕事だっただけだ」
「どちらへ?」
「個人的な買い物だ。護衛は気にしなくていい」
「ですが……」

 オレが外に出るとなれば、ツォンがついて来るのは分かりきったことだ。リクにも仕事だと言ってきた手前、勝手にしろと指示すれば数メートルの距離を置いて護衛をすることに決めたようだった。護衛はただの護衛だ。気にも留めず、オレは先の洋服店へと向かった。
 リクが足を止めた店の前で、オレも足を止める。ショウウィンドウには先日のものとは違った、新作と書かれたネグリジェとガウンがちょうどよく飾られていた。ネグリジェはシルク。胸の辺りにはギャザーが入っており、アンダーからゆったりとワンピースの裾が広がっている。薄手の生地で涼しげ、肌触りは滑らかだろう。ガウンはコットンガーゼで、気温が下がった際に着られるし、肌触りもいいはずだ。リクによく似合いそうだと思った。
 それとともに置かれていた値札を見て納得した。なるほど。あのときのリクはショウウィンドウを覗いて、店内を見るか? と聞いたオレに、ここで見ているだけでいいと答えた。値段を見て諦めたんだろう。リクならこれを寝巻きにしたり、他の服を普段着にしたりするには確実に選ばないような値段だ。今のリクの稼ぎなら、無理をしているような価格でもないというのに。だからと言って、買ってほしいなどとも一切口に出さない。
 本人はなんとも思わないようにしているつもりなのかもしれないが、リクが実は可愛いものが好きだということは知っている。ウエディングドレスも、お姫様みたいなのがいいと答えたくらいだ。だが、必要な物以外は買わない主義らしい彼女は、基本的にそれらの購入を躊躇うか諦める。きっとスラム暮らしがそうさせたのだろう。
 これがいいと、オレは店内へと歩を進めた。店内に客はおらず、落ち着いてオーダーができそうだ。

「いらっしゃいませ」
「あのマネキンが着ているネグリジェを一式貰いたいのだが」

 にこやかに寄ってくる店員に、ショウウィンドウを振り返ってそう伝えた。

「かしこまりました」
「サイズは揃っているのかな。小柄な人なんだ」

 リクの身長は155センチ。頭のてっぺんがオレの肩より、少しばかり下に来る。抱きしめれば容易に包み込め、抱き上げれば驚くほど軽く、本当に華奢だ。

「あちらの商品はフリーサイズとなっていて、そうですね、他の商品で言うとMサイズくらい。裾が長いので身長ですと、155から165センチくらいの方がちょうどいいものになっております。小柄な方でしたら少々、床に引きずってしまうかもしれません」

 155から165と言っても、合わせているならその中間あたりだろう。店員ですら、小柄な人間なら床に引きずるかもしれないと言うなら、ギリギリか。思わず、ぽつりと言葉が出た。悩ましいな。リクは動きやすい服が好みだ。引きずって歩きづらいなら彼女は嫌がるだろうし、それをオレが贈ったとなればなにも言えずに我慢して着続け、ストレスになるだろう。だが、可愛いと言いつつ店内に入ることすら躊躇ったリクを連れて来れば、買ってやると言ったところで遠慮して購入を見送らせようとするはずだ。それこそ指標にできそうな店員は、明らかにリクより背が高い。

「あの、でしたら……」

 どうするかと考えていると、店員が店の中央付近へと向かって、一足のルームシューズを手にしていた。それもガウンと同じ素材だろう、スリッパだ。

「こちらはあちらのネグリジェと同じシリーズのルームシューズになります。少しだけ床から高くなるので気にならなくなるかもしれません」

 2、3センチほど床から余裕のできそうなそれを見て、同じシリーズなら違和感もないだろうと購入することに決めた。

「なら、それも頂こう」
「かしこまりました。ありがとうございます!」

 そう礼を言った店員の顔は、営業とは程遠い満面の笑みを浮かべた。

「プレゼント、ですよね? ラッピングはどうされますか? 袋ではなく、ボックスでのお渡しもできます」
「それなら包装紙は淡いブルーに、リボンは深紅に近いものを」

 仕事外ではリクへの贈り物しかしないが、それでも一目で彼女への贈り物だと分かるように、ラッピングの指定はいつもそうしていた。オレから、深紅の瞳が美しいリクへ。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 店員が丁寧に値札を外し、きっちりと折り畳んで用意した箱へを詰める。その間に、オレは他の商品を見て回った。リクが可愛いと思うだろう、それでも動きやすそうな服が他にもある。今度は手を引いてでも、彼女を連れて来よう。遠慮するリクをなんとか言いくるめ、我慢しなくてもいいのだと彼女が気に入った幾つか新しいものを買ってやろう。

「ありがとうございました。またお越しください」

 支払いも済ませ、ラッピングを終えた箱を店先で受け取る。元気よく挨拶した店員は、少しばかり商売には向いていないかもしれないが、客のことはよく見ている。いい店だと思えば、素直にまた頼むと言葉が出た。


―――※―――※―――


「ただいま」
「おかえりなさい! 早かったね」

 今日の分の仕事を終えたのか、リビングのソファーに座っていたリクが振り返って言ったあと、オレの手を見てキョトンとした顔になった。 

「それは?」
「リクへのプレゼントだ」
「今日は、なんの日でもないよ?」
「別に特別じゃなくたって、プレゼントしてもいいだろう。おいで」

 まだ不思議そうにしているリクを、着替えやすいように寝室へと誘う。箱を差し出し、開けてもいいのかと目で聞いてくる彼女に頷いた。まだいまいち状況が掴めていないようだが、それでも嬉しそうにラッピングを解いて箱を開けた。

「わぁ! かわいい! パジャマ!」
「ネグリジェ」

 パジャマと言ったリクは、本当に機能性しか求めていなかったのだと知って可笑しくなる。

「ネグリジェ?」
「ワンピース型のナイトウェアをネグリジェと呼ぶ」
「へぇー、そうんなんだ。ふふっ。あ、これ……」

 店名に気づいたらしいリクが、予想に反せず戸惑っている。嬉しそうだった顔が、途端に不安げに変わった。

「先日、リクが立ち止まった店のだ」
「いいの……?」
「もちろん。気になったなら遠慮する必要はないし、買わなくても店内を見てみるくらい迷惑にはならない。それに、最近は暖かくなってきたから、寝苦しかったんだろう。それならそんなことはなくなるだろうし、肌寒い日はセットのガウンを羽織ればいい」
「ありがとう」

 また笑ってくれたリクに心がくすぐられる。

「着てみていい?」
「ああ」
「あっち、向いてて」
「分かった」

 ベッドに腰掛けていたオレは、笑いながら言われた通りにリクに背を向けるように座り直す。着替えを見られるのだけは、今でも恥ずかしいようだ。後ろではゴソゴソと着替えている気配がする。数分経って着られたらしいリクが、控えめにいいよと言った。似合うだろうとは分かりきっていたが、実際に見ると想像通りによく似合っている。

「どう、かな?」
「想像通りだ。よく似合っている」
「よかった」
「やはり、少し裾が長いか」

 リクが思っているだろうことを、ちゃんと言いたいことは分かっていると伝えた上で、一緒に入っているルームシューズを勧めた。リクがこれ? と手に持って見せたものに、頷いた。

「あ! これで」
「ちょうどいいな」
「うん! ありがとう!」

 礼を言いながらリクが勢いよくオレに抱きついてきた。それを抱きとめて、これでこんなにも喜んでもらえるなら、本当に安すぎる買い物だ。次は、ちゃんとリクの欲しいと思ったものを、あの店に探しに行こう。記念日でなくとも、リクの笑顔が見られるなら、最良の日になり得る。
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