Moon Fragrance

4月12日 少年時代の希望と憧れ
少年時代の希望と憧れ



 やっと落ち着いた休みを取ることができて、今はヒーリンに行く道中、車に揺られている。あのひしめき合うような街に、自宅に、車を置けるようなスペースはなく、乗っているのは倉庫に隠していたままの"元"自社の一般社用車だった。放置していたせいか埃っぽいが、リクは張り切って朝早くに起き、弁当を作っていたせいかうとうとと船を漕いでいた。そして着くころには、微かな寝息が聞こえるほどだった。

「リク、着いたぞ」
「んんっ、ごめん。寝ちゃってた」
「いい。いつもより早起きしていたんだ。ありがとう」

 目を擦りながら、起きるリクに、素直に礼を言って頬を指の背で撫でると、彼女がへへっと嬉しそうに笑った。

「ツォンさんも行きますよね?」
「いえ、私はここで待機しております。どうぞ、お二人で」
「……そう言うと思ってたので、これ、食べてください」

 後部座席から少しばかり身を乗り出したリクが、ツォンにそう言ってランチクロスに包んだ小箱を渡した。それを見つめたツォンが、驚いたように固まり、小さく礼を言った。予想していなかったのだろう、鳩が豆鉄砲を食らったような珍しい顔に可笑しくなった。
 思い出したように、ドアを開けに出ようとする男を制して自らドアを開ける。リクに手を差し出して、以前そうしていたように彼女の手を取って連れ出した。

「昼過ぎには戻る」
「承知いたしました」

 そうは答えても、離れた場所で待機しているに違いない。
 ドアを閉めるとリクが持っているバスケットも受け取って、彼女と手を繋ぎ、言っているであろう丘へと続く小道を登って行った。

「もうお昼前だね」
「ああ、少し歩いてからいい場所を探そう」
「うん」

 歩き始めてからリクは生い茂る木を眺めるように辺りをずっと見回しながら、ニコニコと笑っている。さっきまで寝ていたのが嘘のように、足取りも軽そうだった。
 春先の強い風が、小道を吹き抜けていく。葉が大きくざわめいた。

「やっぱり風、強いなぁ。久しぶりで忘れちゃってた」
「足元に気をつけろ」
「うん。でも、暖かくていいな」

 そう言いながら歩いていると、目の前が開けた。白やピンクの小振りの花が一面、風に揺らめいていた。リクが立ち止まり、惚けるようにそれを見つめている。そんなリクを見て、立ち込めるような花の甘い香りとともに、なぜだか胸が締め付けられたような気がして握る手に思わず力が入りそうでピクリと指が動いた。それは、初めてリクの強い眼差しを見たときの衝撃のような、甘い痺れだった。

「すっごい! こんなにたくさん咲いてるお花を見たの初めて! 晴れてよかった。一緒に来てくれてありがとう」

 オレを見上げる、まさに花が咲いたような満面の笑みでリクがそう言ったのに、我に返った。思わず言葉が出なくて、ただ静かに頷くだけになってしまった。それを知ってか知らずか、リクは行こうかとオレの手を引いて歩きだす。心地いい陽だまりの中で、リクがオレの隣で腕を伸ばして、歩きながらうんっと伸びをした。

「気持ちいいね。……わっ」

 強い風が、前から吹きつけてきた。リクの短く切り揃えられた髪が、それでも風に靡いた。驚いて、キツく目を瞑った拍子によろけた彼女を抱き止める。こんなほんの些細なことでも、近くで守ってやれることを幸せに感じた。

「ありがと。ルーの髪、ぐしゃぐしゃになっちゃったね」

 そう言ってはにかみながら、髪を整えようとオレの頭に手を伸ばそうとするリクの手を取って、もっと近くへと引き寄せた。腕の中にいるのはなによりも愛おしい存在。その唇を覆う。

「んっ」

 驚いた声を上げてリクが固まっている。きっと目を大きく見開いているに違いない。その顔を見たいと思いつつも、なぜかなにかに倣うようにオレは目を瞑っていた。今日は、これでいい。
 リクからごくりと喉が鳴る音が聞こえて、その体から力が抜けた。きっと目も瞑っただろう、オレに体を委ねてきた。片手に持ったままのバスケットに気をつけつつも、改めて両腕で抱きしめる。また強い風が吹いた。その風に乗せられ、花舞う気配の中で強く抱きしめ合って、唇を重ねている。風が甘く薫った。それは、花か、リクか。
 今はこうしていたいと思う気持ちに、当分は弁当にありつけそうにないと思った。今日は、愛おしい春の日だ。
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