Moon Fragrance

2月13日 Sweet lingerie
Sweet lingerie



 朝の仕事前は、郵便受けから新聞や手紙を取り出すのが日課。それらを持って階段を上がる前に、壁に貼ってある予定表の確認。今日は大型家電か小型家電の作業、どちらをするかを決める。うん、今日は午前中で作業は終わりそう。それから一度、リビングもある二階へと戻ってそれらを置きに行く。

「はい、ルー。今朝の新聞来てたよ」
「ああ、ありがとう」

 私は朝刊からチラシだけを抜き取って、新聞をルーへと渡した。ルーがソファーでそれを受け取って、コーヒーに口を付けながら読み始めた。私は自分の手元を見て、今日はなんだかチラシが多いなと思う。

「今日の新聞は夕刊のように薄いな」
「あ、私、チラシが多いなって思ってたところ」

 ほら、と私はチラシの束の側面をルーへと見せて笑った。ルーもチラシでかさ増しかと苦笑いを浮かべていた。
 私はそのチラシの束をダイニングのテーブルへと置く。これはイリーナさんやレノさんが見ていたりするからだ。見終わったものは彼らが処分してくれる。そして私は仕事をしに作業部屋へ向かう。
 ラジオの電源を入れて、流し聞きをしながら作業をする。目の前の機器に集中して、音なんてほとんど聞こえていない。

「ふー」

 予定していた修理が終わって伸びをすれば、腰がパキッとなってしまった。それに思わずふふっと笑って、横を見ると雑誌が目に入った。イリーナさんから渡されていた、女性向けの情報誌。あまりこういうものは読まないけれど、バレンタイン特集だなんて言っていた気がするからなんとなく開いた。時間もまだお昼ご飯には少しある。
 ちゃんとは頭に入ってこないそれをペラペラと捲り、そういえば明日だなんて思ってなにも考えていなかったことに気づいた。こういうイベントには縁がなかったせいか、疎く、忘れやすい。どうしようか、などと考えているとドアがノックされてルーが入ってきた。作業に集中しているとノックの音も聞こえないことが殆どだから、ノックはしてもみんな勝手に入って呼びに来てくれる。それに私はなぜか慌てて本を後ろ手に隠した。

「なにを隠した?」
「なんにも」

 本当に特に理由なんてないのに、なんだがバレンタインのページを開いていたのが気恥ずかしかった。

「昼食ができたそうだ」
「分かった。手を洗ったら行くね。呼びに来てくれてありがとう」

 私は椅子から立ち上がって、その雑誌を椅子の上に置いて椅子ごと作業机のほうへと押しやった。その後、洗面所へ行って念入りに手を洗う。リビングへ行くと、イリーナさんが作ってくれたオムライスが並んでいた。

「あ、リクさん。お仕事は何時くらいに終わりそうですか? よかったら夕方ごろ、一緒に出かけたいんですけど」

 みんなでオムライスを食べていると、イリーナさんが私にそう聞いてきた。

「今日の作業はそんなになかったのでもう終わりました。いつでも大丈夫ですよ」
「だったら、これ食べたら行きませんか?」
「わかりました」
「ということで、社長! リクさんをお借りしますね」
「ああ」

 そして、黙々と食べ終わって出かける準備をして、私の店の前で集合してそのまま出かける。どこへ行くのかなと一緒に歩きながら考えていると、イリーナさんが口を開いた。

「明日はバレンタインじゃないですか。その材料を買いに行こうと思ってたんですよ」
「私、さっき思い出したんですよ」
「誘ってよかったです」

 リビングには全員いたから、内容を話しづらかったらしい。イリーナさんと、どんなのを作ってみんなに渡すかを話しながら歩いていく。私も、ルーにどんなのを渡すか決めないと。あんまり凝った物は作れないし、失敗しないといいけれど。

「そういえば、どこで作るんですか? うちだとみなさんがいるし……」
「もう明日は当日ですし、この際できあがるまでお楽しみってことで、男性陣には夕方まで出てってもらいます!」
「あはは!」

 思ってもみなかった、イリーナさんらしい真っ直ぐな案に思わず大声で笑ってしまう。イリーナさんも満面の笑みだから、笑いが止まらない。

「もう、リクさん笑いすぎですってば」

 イリーナさんが不貞腐れながらも、一緒に笑い出す。そして、それとと付け足して一枚のチラシを私に見せた。それはきっと、今朝のあのチラシの束に入っていた物だろう。私はその紙面を見て、固まってしまう。内容は、クーポンのついた下着の広告だった。

「もうそろそろ新しいのに新調したいなって思ってたんですけど、ほら男ばっかりだからショッピングに行くってだけで休みづらくて。バレンタインが近いから、こうやってクーポンとかセールとかやってるみたいで、材料を買うついでにちょうどいいなって思ったんです。リクさん、口実に使っちゃってごめんなさい!」

 イリーナさんが早口で捲し立てるように言うから、圧倒されてしまう。でも、なんでバレンタインが近いから、下着がセール?

「いえ、それはいいんですけど、どうしてバレンタインだと、その……、下着が安くなるんですか?」
「え!?」
「え?」

 私の質問がおかしかったのか、イリーナさんが驚いた声を上げたのに私も驚いてしまった。

「バレンタインって男の人が期待するじゃないですか」
「チョコを?」
「それもだけど、そっちじゃないです!」

 そっちじゃない……? 私の中には疑問しかない。バレンタインで好きな人からチョコが貰えるかもしれない、以外になにを期待するんだろう。

「リクさん、まさか……」

 まさか……?

「社長に可愛い下着姿見せてあげたりしないんですか?」
「へっ!?」

 私が大きな変な声を上げたから、道行く人が私たちを訝しげに見て通り過ぎて行く。私は慌てて口を押さえた。
 ない、ないよ! 普通の、セットの下着……。頑張っても、古くならないようにくらいしか気にしてない。

「カップルとかだと、チョコ以外にもあまーい雰囲気を期待するものですよ。だからその時のために、勝負下着どうですか? ってことです。分かりました! 材料よりまずはこっちです!」
「ちょ、ちょっと、イリーナさん!」

 イリーナさんが私の手をおもむろに掴んで、ずんずんと道を進んでいく。そして私は彼女に引っ張られながらショッピング街に並ぶ下着専門店に放り込まれた。専門店は流石に初めてで、私はなぜだか目が泳いでしまう。どこに視線をやればいいのか分からない。落ち着かなくて、今すぐ駆け出して外に出たいくらいだ。しかもカップルで来てる人もちらほらといて、こんな所で買ったことのない私はなんだか場違いな気がした。そんな私をよそに、イリーナさんは、あれ可愛い! と言って、店の奥へと入って行ってしまった。
 どうすればいいか分からず、呆然と立ち尽くす私をターゲットにしたのか、店員さんが近づいてきた。

「なにかお探しですか?」
「へ、あ、ええと……。友人に連れて来られたんですけど、よく分からなくて……」

 私はしどろもどろに、イリーナさんを指差しながらそう言う。

「友人がその、バレンタインだからって……」

 私がそう言うと、店員さんの目の色が変わった気がした。営業モードに入ったらしく、お相手の方はどんな感じの方ですか? 好みなど分かりますか? お客様は普段どういった物をお召しに……などと、質問攻めにされる。
 泣きそうになりながら、まずはサイズを測りましょうと他のお客さんからはちゃんと死角になっている奥の試着室のほうへと連れて行かれた。流石というべきか、手際よくトップとアンダーを測られて、お客様はこちらのサイズですとこの辺りにならそれが揃っておりますなんて言われて戸惑ってしまう。
 華美な物なんて恥ずかしすぎて、目が自然とシンプルな物を探してしまう。手を伸ばそうとしたのは、ごく"普通"に見える、小花柄の刺繍がされたもの。それを見た店員さんが、お客様は可愛らしいほうが好きなのですね。それなら……と、横にあったラックから淡い水色の、それもアンダーからレースが垂れ下がっているものを選んだ。しかもセットになっているショーツは……、普段ならゴムの部分が、ひも……。

「あー、リクさんこんな所にいたんですね!」

 え、嘘……と、固まっているとイリーナさんが来てくれた。助かったと思ったのも束の間……。

「それすっごく可愛いですね! リクさんとても似合うと思いますよ!」

 なんて大きめの声で言い出して、私の周りには今、敵しかいないことに気づく。店員さんも追い風が来たと言わんばかりにそれを持って私を試着室に押し込もうとした。しかも、イリーナさんまで試着楽しんでくださいねなんて言って。
 私は手に持たされたその、いわゆるランジェリーとやらを試着室の中で呆然と眺める。こんなの当然、着たことない。どうしようか迷っていると、外からお客様〜なんて間延びした声が聞こえてくる。

「あ、あの……似合わないから、別のに――」
「リクさん! 嘘はダメです。まだ着てないですよね」
「うぅ……」

 なにも言い返せなくて黙り込むと、店員さんも試着できましたらサイズの確認を致しますので、お声がけくださいねなんて、本当に八方塞がりだ。
 また泣きそうになりながら、仕方がないと服を脱ぐ。身に着けていた、本当にシンプルな自分のブラジャーを脱いで、覚悟を決めてそれを身に着けた。一度、鏡を見ると愕然とする。
 これ、胸、刺繍の合間から透けてない……? レースも横へと流れていて、お腹も普通に見えているし。いや、やっぱりこれ、胸……。カップルで来てた人たち、彼女、これ、普通に着てるの!?
 パニックになっている外で、店員さんがお客様いかがでしょうか? 大丈夫ですか? なんて聞くから、思わずはい! と上擦った声で反応してしまい、では失礼しますねなんて、カーテンを控えめに開けて入ってくる。

「とてもよくお似合いですよー! サイズもバッチリです。肩紐だけ調整させていただきますね」
「あの、これ……、胸が、その……」
「そういうデザイン、最近よく流行っているんですよ。うちでも人気商品で、男性の方にも評判がいいらしく、彼に見せてあげるんだと数種類買って行かれる女性が多いんです。きっとお客様のお相手も喜ばれますよ! ではまた外でお待ちしていますね」

 言いたいことを言い終えた店員さんに、これは完全に買う流れなんだと理解してしまった。また控えめに開けたカーテンの隙間から出て行く店員さんが、イリーナさんに本当によく似合ってらして驚きましたなんて話し始めて、卒倒しそうになる。
 私は諦めてその下着を脱ぐと、元来た状態に服を着直した。試着室を出れば、イリーナさんがにっこりと笑って私を待っていた。

「店員もよく似合ってるって言ってましたよ。一緒にレジに行きましょう」
「え……、やっぱりこれ」
「ほらー、私だって買うんですから!」

 そう言うイリーナさんのカゴの中には、可愛らしい一般的な物しか入ってない。

「イリーナさんはこれ、好きな人の前で着られますか?」
「もちろんです。だって可愛いって思ってほしいですもん」

 そっか。女の子はそう思うんだ。ルーはよく、可愛いと言ってくれる。ルーがお世辞で言ってくれてるなんて思わないけれど、でも言われ慣れてないからそんなことないっていつも思ってしまう。
 これを着たら、ルーは可愛いって思ってくれる、かな。だって、着たことないよ。私がこんなの着たら、変だって引かれたりしない?

「社長も喜ぶんじゃないかなー。私が男だったら、その場で襲っちゃうなー」
「おそ……っ」
「特別だって思えばいいじゃないですか。バレンタインだから特別って。1年に1回、ね? あ、クリスマスとかも……」
「とくべつ……」
「大丈夫ですよ。もし似合わないなんて言われることがあったら、私が社長を怒ります」

 あまりのイリーナさんの勢いに、私は渋々乗せられてしまう。一緒にレジに行けば、店員さんが満足そうに待っていた。

「お客様、本当によくお似合いでしたよ。自信持ってください」
「は、い……。あの、この、ショーツはどうやって……」
「ああ! こちらは片方を結んでから、1度足を通します。そしてもう片方も結んで調節すると上手に穿くことができますよ」
「わかり、ました」
「お相手の方といいバレンタインを過ごしてくださいね!」

 声は小さくなってしまったけれど、ありがとうございますと返してイリーナさんと私はお店を出た。そのあとはチョコレートの材料を予定通り買いに行ったけれど、買ってしまった下着の袋が気になって上の空気味だった。
 これ、どこに隠しておこうかな……。まず洗濯もしないといけないし、バレちゃうよ。

「リクさん、今度はなにを悩んでるんですか?」
「え……、洗濯しないといけないけど、バレちゃうなって」
「ああ! そういうことなら今回は任せてください。私のほうで洗濯して、明日みんなを追い出したら渡しますから!」
「でも、それじゃあ申し訳ないです」
「気にしないでください。無理に誘っちゃいましたし、協力します」
「ありがとうございます」

 帰りましょうかと、いくつかの荷物を持って帰る。みなさんにはチョコレートトリュフと、ルーにはそれとは別に洋酒入りの生チョコを作って渡すつもりだ。上手く、できるといいんだけど。
 帰ってからのイリーナさんの第一声は威勢よく――。

「みなさん、明日は朝から夕方ごろまで出てってください!」

 だった。
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