泥濘


※尾形が少尉主を殺そうとする話
※主は勇作と仲良かったという設定です。



尾形は異母弟に抱きしめられた。(うろ)の眼が宙を視る。その(かいな)は決して、居心地の良い物では無い。抱きしめられた経験は勿論一度も無い。未知のそれはモゴモゴと何が云って居る様だったが、全ての言葉は(ただ)両の耳を通過して往くばかりである。罪悪感を感じ無い己は人間では無いと。其れは誰の基準だ。自分から云わせてみれば、お前こそ人間では無いだろう。目の前にいるこの男が、恐ろしいとすら感じる。どうしたらコイツは手を血汐で染めてくれる。解らない。解らない、未知の物は恐ろしい。

其処で尾形の目が覚める。あゝ、くそ。何故こんな夢を見なければならない。もう殺した筈なのに。済んだ事なのに。自分で自分がわからなかった。母を殺したのも、父を殺したのも、道理があっての事だったのに、自分は何故異母弟を殺した?

「尾形。」

午後二時。みょうじは手に花を持っている。それを墓へ供えに行くのだろう、随分律儀な男だ。異母弟と仲が良かったと聞いているが、反吐が出る。清い者同士が仲睦まじくしているなどと!

「少尉殿。()れから向かわれるのですか?」
「ああ。お前も一緒に行くか?」
「では、是非お伴をさせて頂きます。」

尾形はもう“みょうじを殺してやろう”という気持ちで充たされていた。歩み寄って来るその姿勢が、尾形には恐ろしいのだという事を、尾形自身は知覚していない。正常な判断が下せなくなる程に、みょうじの行動、言動は尾形を狂わすに充分であった。
たくさんの墓に紛れ、花沢勇作の墓はうっそりと立っている。人は自分達以外に、居ない。目の前には、肋骨服に包まれた首。今血管をサッと切って仕舞えば、虚しく絶命するのだろう。

「尾形。今の花沢中将にはもうお前しか残っていない。どうか、労わってやってくれ……」
「俺は妾子ですよ。どの面下げて行けるんです」
「それでも……」
「それに、あの人は俺を息子だと認めたくないんでしょう。ずっと俺を無視し続けています」
「そうなのか?」

全く(とぼ)けた顔だ。それと花沢勇作の顔が重なって、苛立ちが募る。ああ、こんな男。価値など無い。しかし、殺すには余りにも太陽が眩しかった。夜だ、夜に殺そう。

「少尉殿、今夜お部屋にお邪魔しても宜しいですか。人から貰い過ぎた菓子を貴方に渡したいので」
「ああ、勿論」



その夜、尾形は無論菓子など持たずにみょうじの部屋へ訪ねて行った。戸から離れ後ろを向いたみょうじに軍刀を振り下ろす。(しか)しそれは命中しない。みょうじは尾形の手首を掴み、勢い良く引っ張った。尾形の身体が浮いて、地面に叩きつけられる。軍刀を突き刺さんとする尾形の力と、みょうじの力が拮抗する。

「お前、殺気が駄々漏れだったぞッ」
「ぐうッ」

馬乗りのみょうじの方が、重力も味方して優勢だった。しかし急にみょうじの力が弱まり、刃が豆腐を刺す様に肩口へ滑り込んでいった。

「なッ」

尾形から退いたみょうじは、その肩に刺さる軍刀を抑えている。

「お前、これを刺すまで止めないつもりだったろう」

武器を失った尾形は呆然とみょうじを仰ぎ見る。顔を歪め、痛みに耐え息を荒くするみょうじは、一体これからどうしたものかと思索した。何故尾形が殺そうとしてきたのか、見当がつかないからだった。

「誰に言われてやったんだ」

その言葉を聞いて、尾形は思わず笑ってしまった。みょうじは、尾形のことを微塵も疑っていないのだと。その事実をありあり示す言葉に、止め()無い憎悪が溢れた。

「貴方の無知さ加減に嫌気が差したんですよ」
「な……」
「知った様な口で詰まらんことをべらべらと。もう俺に構わないで頂きたい」
「……わかった、もういい。お前はもう何処かへ行け。見つかってしまう前に」
「は?」
「見られたら、軍法会議ものだ」

もうお前に関わったりはしないから。みょうじはそう云った。しかし勿論それを信用できない尾形は、どうやって殺すかを再び考え始めた。死人に口なし。不気味な沈黙。それを破るように、意外にも早く複数の足音が聞こえてきた。

「少尉殿!先程の音は……?」
「なんでもない!構わんでくれ、躓いてしまっただけだ」
「中に入っても宜しいでしょうか。」
「いや、駄目だ。いろいろと零してしまった!無様な姿を見られたくない!」

ハハ、と外から声が聞こえ、その声は遠ざかっていく。

「尾形。私は、花沢が大切に思っている家族を、同じよう大切にしたかっただけなのだ」

いきなり何を言い出すのか、と尾形は冷静にみょうじを見つめた。

「花沢があれだけ柔らかい表情を見せるのはお前だけだった。お前のことを聞いた。その出自も……。他人事ではない、何故なら私自身とて、両親と血が繋がっていない、孤児という名を背負っているのだから、家庭環境という点に於いて、遠からず……」
「もう良いです。」

尾形は扉の取手に手をかけた。もうどうでもよかった。本当にみょうじは、不敬を働いた尾形を告発する気は無いようであるし、気持ちも萎えた。花沢勇作、死して尚深く絡み付くその名を聞くと、堪らなく狂いそうになる。

「お前は花沢が怖いのだ。自分と違う存在を否定から入ってはいかん。彼はお前を」

尾形は部屋を出て、扉を閉めた。説教じみたその言葉も、聞かないふりをした。

みょうじは考える。
どうか、向き合って欲しい。目を逸らさないで。花沢勇作の、確かにあったその愛を、無為にしないで欲しかった。いつか理解が出来るように。祝福が与えられるように。みょうじはそう願って、肩の疵を治す為に部屋を出た。


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