輪の廻廊


※尾形が前世の記憶を思い出す話。



日露戦争なんて、教科書で少し触った以外に尾形は知らなかった。正直、何年の戦争であるのかとか、何が原因であるかとか、そんなものもわからない程には興味も知識も無い。それなのにどうしてこの写真展を目の前にしているのかといえば、友人であるみょうじにしつこく誘われたからである。
<日露戦争を辿る 歴史特別展>と、大きく見出された文字。誘った主は未だ到着しておらず、スマホのメッセージには「10分遅れる!」と吹き出しが表示されている。誘った本人が遅れてどうする。そんな悪態を頭で吐きつつ、寒いので先に入ってしまおう、と透明なガラス戸を押し開いた。暖かい空気。腕についていた少量の雪は一瞬で溶けてしまった。展覧会独特の静かな空気に身が多少引き締まる。来ている客は老人、老人、……1人、若そうな人、また老人……まあ、そんなものだろう。
白黒写真ばかりで内容が把握しづらいが、大勢が座って並ぶものや、ロシア兵と思しき人がこちらに笑いかける写真などがある。ひとつひとつ見はするものの、似たようなものばかりでどんどん目が滑っていく。みょうじは一体、これの何が面白いと思ったんだか。
ふと、目が止まる。これは何だ?



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「尾形!」


その声で、尾形の意識が現実に戻ってきた。(本当に?)いつの間にかみょうじが到着していたようである。(お前はいつも来るのが遅い)その鼻は赤く、外の寒さを窺わせるようだった。(あそこは寒かった)その鼻を抓ってやれば、「痛っ!」と手で顔を覆う。(赤く散る)はは、ざまあない。(身体が傾いて崩れる)何かを思い出しかけて、尾形はまた写真の方を向いた。(お前がこっちを向いた)隣でみょうじがニコニコとはにかみながら同じものを見ている。(嗤ってる)疑念がゴム風船のように膨らんで、弾けた。(二発目を撃った)

「俺がお前を殺したのか」
「え?」

断片。それが集まる。水滴が結合し、大きくなっていくように、散り散りの記憶が固まっていく。しかし、理由だけが。それだけが、頑なに思い出せない。電撃が貫いたように、尾形は動けずにいた。

「殺すって物騒だな、どうした」
「いや……」

否が応にも頭に流れ込んで来る記憶が、尾形を苦悩させる。みょうじは何ともないのか?いや、違う。彼は……いや、合っている、彼も居た、あそこに。何処に?写真に映っている。とっさにみょうじの手を握った。焦るその男に目も呉れず、会場を出た。弟は何処に?いや、居ないだろう。弟とは?ああ、花沢勇作か。

「勇作って誰だ?」
「おい、それより手を……」

尾形はハッとして、きつく掴んでいた手を離した。途端みょうじはそれを引っ込めて、さすりながら相手を睨む。

「痛えよ、尾形……」
「悪い」

喉元まで“前世を視た”と出かかって、すんでのところで呑み込んだ。正気だとは思って貰えないだろう、阿片窟の廃人の如き扱いを受けるだけだ。そう考えて、己は阿片窟など知らないことに尾形は気付く。それよりも……そうか、自分は死んだのか。死んだ、死んだ、死んだ、死んだ死んだ死んだ死んだ

「ははッ」

全ての業が蘇る。それならば。みょうじの目も覚まさねば。「前世って信じるか?」そう尾形が聞くと、みょうじは不信そうな疑り深い目で彼を見る。何だ急に。と応えた彼の手は震えている。何の震えだ。お前は覚えているか?と、そう口に出して聞くことはしないが。挙動ひとつひとつがよく見える。眼が良くなったみたいだ。尾形はその目でいろんなものを見る。見た。見てきた。早く思い出してくれ。思い出したら、いろんな話をしよう。雪の降る外の空気は、吸い込むごとに鋭く肺を刺してくる、それはまだ見ぬ、かつて見た、北海道の記憶を揺り起こすかの如く。


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