博士は実の孫娘のように可愛がり、見守っていた。
ぽつりと、博士が何気なく呟いた言葉が記憶にこびりついている。
ポケモンたちに囲まれて穏やかに微笑んでいる時に、博士は悲しそうにそう呟いた。
ウツギ研究所の中に案内され沢山の紙が積み上げられた机の前に座らされる。書類置き場と化した机の上を平らにし、目の前で客人を迎える準備をする博士たちを見ると手伝いたくなってしまう。そんな僕を見越して、ウツギ博士から「座っててね」と、釘を刺した。昔から、ウツギ博士は僕を甘やかす。ただの子供みたいに扱うから、少し困る。
四人用のダイニングテーブルの上を更地にし、僕の前だけ重点的に物が退かされ、机を吹き、お茶が出された。それ以外の片づけは諦めたようで博士は遠くから自分の椅子だけを持ってきて、仕切りなおすように声を出して座った。
「よいしょっと。……散らかっててごめんね、ちょっと忙しくて」
「いえ、押しかけたみたいになってすみません……」
「サプライズなんでしょ? 分かるよ、博士のことだもん」
この現状を見ると本当に申し訳なくなる。促されるようにオレンジジュースを口に付け、時間も惜しいと、僕は本題に入った。
「博士からのお届け物です」
「お使いありがとう。そういえば〈ポケモン図鑑〉はアップデートした?」
「いいえ」
カントーからすれば、ジョウトは意外と身近な存在だ。今は別々の呼び方をされているが、昔は同じ地域としてくくられていたからだろう。だから、カントーとジョウトのチャンピオンは兼任という扱いになっているし、四天王だって同じ。負担を減らすために分けようという意見こそ出ているが、まだまだ実現は難しい様だ。
「お使いが終わったらカントーに帰るの?」
「エンジュシティの紅葉を見に行こうかと思っています」
「それじゃあ、図鑑のアップデートはした方がいいね。それとも、移行するかい?」
「移行、ですか……?」
複数の選択があるらしい。僕としてはお金がかからなければ何方でもいいのだが……。
「今のままでも容量は大丈夫だと思うんだけど、〈ポケモン図鑑〉の形状が違うから少し目立つかな」
「目立つ」
にこりと笑って、ウツギ博士は止めの一撃を入れる。
「人前で出さなければいいだけではあるけれど、いい機会だし新しいのにしてみる?」
「料金とかって……」
「エゴノキくーん、〈ポケモン図鑑〉の予備ってあるよね〜!」
ウツギ博士の中で、〈ポケモン図鑑〉の移行が決まった。奥に行ってしまった助手のエゴノキさんに声をかけ、準備をするように促す。大人しく〈ポケモン図鑑〉を渡したほうが世のためか。鞄の中にしまっていた〈ポケモン図鑑〉を取り出し、やってきたエゴノキさんに手渡した。データの量にもよるが、1時間弱もあれば終わるらしい。おとなしく待とう。
僕がエゴノキさんに〈ポケモン図鑑〉を渡している間にウツギ博士は僕が手渡した例の卵を見ている。ポケモンの卵に関する論文で有名になっただけあって、卵を興味深いと観察している。
「今にも生まれてきそうな卵だけど、生まれないの?」
「オーキド博士の話だと、かなりの期間この状態だそうです」
「津波ちゃんが博士から手渡された時も、この状態だった?」
「そうですね。一緒にいた期間は二日、三日ぐらいです」
不思議だなぁと、ウツギ博士は卵を見守る。容器の中で定期的に白く点滅する卵は、ウツギ博士曰く、生まれてくる前兆らしい。
「わかった。しばらく預かってみるよ。ぼくのほうで何かわかったら連絡するね」
「……? 僕にも連絡がくるんですか?」
「僕の予想が正しければ、この卵の持ち主は君になっているはずだよ」
「え」
「その反応から察するに聞かされてなかったんだね」
厳しいというか、説明がないというのが正しいと思うのだけれど。ポケモンの卵なんて、何かしらのツテで入手しない限りはお目にかかれない存在だ。卵から生まれたポケモンは、普通に捕獲したり譲渡されたりするよりもトレーナーに懐きやすい。
トレーナーに従順で、バトルでも扱いやすい。進化してもその傾向が強く、信頼関係が増していくなどという話が出回っているが真偽は不明。ともかく、ポケモンの卵は得られるのならば貰っておいて損はない物と、いうのが世間の認識だ。
「どうして生まれないのか、ぼくの方でも診察してみるけれど最終的には君の元に返されるよ。話は聞いていないみたいだし、無理にとは言わない。博士がぼくに診てほしいと言ったのだから、その辺は大丈夫だよ」
「……。はい」
「津波ちゃんはどのくらいジョウトにいるつもり?」
「え、えと、そうですね……」
あまり考えていなかったけれど、どのくらい居ればいいだろう。最低でも秋は超える。冬……? いいや、移動の手間を考えるともう少し時間が欲しい。
「……。年が移り変わる前には、移動しようかと思います」
「じゃあ、三月頃かな? それじゃあ、その時になったら一度ウチに立ち寄ってくれる?」
「はい」
「半年もあれば生まれると思うんだけど、謎の多い卵だからどうなるかわからないしね」
にこりと笑って、立ち上がったウツギ博士。奥からエゴノキさんが現れ、これから支給される新しい〈ポケモン図鑑〉の取扱説明書を得た。
タッチパネルを採用しているようで、ボタンは最小限。開き方に癖があるみたいだが、カントーのものと比べてもかなり簡略化されている。一通り説明書を読み、後は実物を触ってみて調整だな。
いつの間にかウツギ博士は何処かに行き、暇そうに僕の膝の上で丸くなる風音だけが部屋に居た。ずっと構っていられなかった風音を撫でると、もういいのかと耳を立てて此方を向く。
「ずっと暇にさせてごめんね。喉乾いてない?」
大丈夫だと返ってきた。なら、オレンジジュースは飲み干してしまおう。
僕の持っている説明書が気になったのか、風音が首を伸ばす。見やすいように腕を下ろし、資料を風音の目線に合わせた。……このくらいが見やすいはず。声を出して確認をする。傍から見れば変な光景だけど、僕らにとってはありふれた日常だった。
ウツギ博士の研究所に一晩泊めてもらい、見送られてワカバタンを出た。新しい〈ポケモン図鑑〉へのデータの移行はつつがなく行われ、おかしな挙動も見当たらない。古いものは鞄の底に仕舞った。
「(もう図鑑として機能してないっていうけど、送り付けたら玩具になるな……)」
随分と高い玩具になりそうだと苦く笑って、次の町に着いたらどうするか決めよう。
森の中の一般道を通っても、カントーで見慣れたポケモンたちばかり。一部見慣れない子も居たが、図鑑を向けて顔と名前を一致させる。
草むらから飛び出してきた子は、基本的に風音が対処してくれた。此方に敵意が無くとも、びっくりして襲い掛かってくるのだ。そういった子は一度戦闘不能にしたほうが丸く収まる。倒れてしまった子は、人に見つかりにくい木陰に隠して、ささやかな木の実を置いておけば自然と野生復帰ができると信じている。信じているだけだ。確信は無い。
たまに見つける看板に従い歩き続ける。炎李や疾風に頼むのもいいと思ったのだが、どうも炎李に頼むとバトルを挑まれる率が高くなった。風音と一緒にいるだけなら、断れば素直に引いてくれるのだが炎李だとそうならないので、争いの火種はボールの中へ。炎李がバトルしたいときにだけ出てくればいい。ここら辺のトレーナーの質が悪いのか、炎李が強すぎるだけか、火炎放射∴齡ュで終わるのは流石に目元を抑えたくなってしまう。
夜。看板の案内的には明日のうちには次の町に付くだろうと予想し、適度に野宿できそうな場所で準備をした。焚火にあたりながら、新しい〈ポケモン図鑑〉を弄る。
「(そういえば、帝冴の情報。僕、何も知らないや)」
カントーでは見たことがないから、ジョウトで何かしら伝承がある子なのだろう。テレパシーを使えることから、その辺はもう割り切っている。基本的に外に出したら絡まれることは目に見えているので命の危険がない限りは出さない方針で行こう。
《スイクン》
《オーロラポケモン》
《「北風の化身」と呼ばれ、風のように氷上を駆け抜ける様は優雅》
《滑るような身のこなしで大地を走り、濁った水を清める力を持つ》
図鑑から流れ出る機械音を聞き、口元が引きつる。
明らかに人が捕獲したら不味そうな子じゃないか。自然環境が狂ったりしないだろうか。今からでも遅くない。逃がすか……? 最新版と聞いてたけど、この図鑑は不良品かな? 色が違うんだけど。
『人の子=x
「!」
勝手にボールから出てきた帝冴が話しかけてくる。ロックはかけていなかったけど、まさか勝手に出てくるとは思わなかったよ……!
「ちょ、人に見られたらどうするの」
『ふむ、しばし待て=x
待てど何か変わった様子は無い。仕事は果たしたといわんばかりの顔で膝を折り、氷河は地面に伏した。
『
「丸見えだけど」
どこからどう見ても丸見えだ。立派なスイクンが地面に座っているようにしか見えない。
『汝は我の水晶壁を通れただろう。水晶壁を通れる者は、影響を受けん=x
「……。風音、見える?」
『いいえ。声は聞こえるんで変な感じです』
風音の目には見えないようだ。少しだけ違和感があるようで首を傾げている。
『不満なら対象も搾れるぞ=x
『お話なら私も聞きます。仲間外れにしないでください』
風音の返答に満足したのか、帝冴は喉の奥で笑った。
『さて、人の子。我を逃がそうと考えていたな=x
「野に放ったほうが世のためだと思ったけれど」
『薄情な子だ。我が良いと言っておるのに、人の話を聞こうともしない=x
よよよと、泣き真似まで始めた。からかわれているのはわかっているので、心を鬼にして対応する。
「押しかけてきたのは帝冴だった気がするけど」
『些細なことだ。
「むしろ居ないものとして扱う気満々だけど」
『すとうかあなる者はうっとおしいからな。汝が絡まれると思うと不憫でならん=x
とりあえず、心配されているということだけは理解した。帝冴も色々と苦労しているんだなぁと、耳から入ってこない言葉を聞き流す。
いい時間だし、明日に備えて寝よう。帝冴に聞くと、話したいことは話し終えたらしく、ボールの中に戻るとのこと。僕のようにいつ見える者が現れるかわからないからと言っていたが、それなら最初から外に出ないという選択を取ればよかったのでは……? 僕は言葉を飲み込んだ。
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