「あ。」
職員会議もようやく終わり、資料をまとめてファイルに入れていた時だった。コーヒーの入っていた紙カップに肘が当たり床へ落ちたのだ。幸い中身は飲み干していたのでカラだったが、その光景は私の中の苦い記憶を呼び覚ました。
(一体あなたにとっての私はなんなの?)
ダンっと机を叩き彼女はそう告げて私の事務所から出ていった。コーヒーの入った紙カップが床に落ちていく。彼女はオールマイト事務所で働く職員だった。駆け出しであったあの時、充分な給料も支払えていたかと言われればそうでは無い。職場内恋愛、ありがち、だった。
(あなたがヒーローであり続ける限り、あなたを支えることの出来る人なんていないわ。)
彼女はあらゆる言葉で私を罵り続けた。凍った様に固まった表情で。所詮私は、ヒーローである事をやめることは出来ない。引退するまで抗い続けるだろう。落ちた紙カップを、まだ私は拾うことが出来ずにいた。
「大丈夫かい?オールマイト」
校長先生が私の左肩をポンッと叩いた。モヤがかかっていた視界が鮮明に戻る。叩かれた方向を見上げると、額に傷のある人間ではない、校長先生様がこちらに微笑んでいた。
「君もまだ疲労が回復してないんだよ。ゆっくりは出来ないが今は極力体力を温存しておいてくれ。来るべき時の為に。」
来るべき時。それはそう遠くない未来なのかもしれない。近くに蔓延る悪の後ろに、彼らを引率する巨悪がチラついている。
「そうですね、先生。」
私は校長先生に挨拶をして会議室を後にした。スマートフォンを取り出し、ロック画面をとく。私の自宅にあるソファで笑うなまえの画像が表示された。不意打ちに撮ったものではあったが、待受画面に設定している彼女の笑顔はいつも私に元気をくれる。
(あなたを救うのは、私でありたい)
なまえの笑顔が麻酔薬のように感じられた。私を癒してくれる唯一の人。私は彼女を生命に変えても守るつもりだが、彼女の救済を求めているのもまた事実だった。
「なまえの好きなカフェ、連れてってあげなきゃな」
もうじき体育祭の季節にもなる。忙しくなる前になまえの好きな場所に行くのもありだな、と考えていた。思えば深い仲になる前、何度も足を運んだのはカフェだった。休日にカフェ巡り、というのもいいだろう。私はその計画を提案する為にLINEアプリをタップした。
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当たりは暗闇に包まれていた。重たい扉が開く。夕日と共に差し込んできた光は、人工的な懐中電灯。眩しさに目を細めると、不気味につり上がった目元が視界に入る。はっとし現在の自分の状態を把握しようと思考を巡らせる。口にも腕にも縄。身動きは取れない。
「あんな路地を一人で歩いてた自分を恨むんだな。じゃねぇと個性持て余してる俺達みたいな日陰者に、玩具にされちまうぜ?」
男は舌で私の頬を舐めあげ服を引き裂いた。背筋に寒気が走る。脱出、という思考が停止しかけていた。コミックなら、ここでヒーローが登場し助けてくれるはずだった。頭に彼の名前がよぎる。
「オールマイト助けて〜!とか、言わなくていいの?」
無理だ。彼も万能な神ではない。目の届かないところまで救うことは出来ない。ようやく事態を脳内で理解し涙が目尻にたまり始めた。
「そうだな、TVでやってたヴィラン連合。あれにあやかって俺達もオールマイトに喧嘩吹っかけるのもありだな」
「ンン......!!」
(そんな形で彼の足枷になるなんて嫌だ)
縄によって塞がれている為に私の叫びは声にならないでいた。オールマイトに沿うという事は、大きな危険を伴う。この無粋な奴らは偶然私を人質に取ったに過ぎなかった。しかし、ヴィランに襲われた事なんて無かった私には長い悪夢の幕開けとなった。
「いい夢みろよ」
再度薬品を口元に当てられ私の意識は遠のいた。夕闇に私は飲まれていく。ヒーローはピンチに現れる。それは都合のいい人達が決めたものなのかもしれない。私が完全に闇に包まれる前に見えた姿は、No.1ヒーロー、オールマイトではなく、俊典さんだった。彼が私にとってのヒーローなのだと、こんな時なのに納得していた。
(おかしいな)
なまえから連絡が帰ってこなくなって二日目の朝。一日目は忙しいからだと言い聞かせていたが、流石に気になった。まさか、とは思ったがなまえが帰ったのはお昼頃、私が彼女と出歩く際はトゥルーフォームでありヴィランに気付かれる事もなかった。しかしなまえの性格からして音信不通になり続けるのは考えられない。そんな時。
「オールマイト!TV付けてみろ!」
塚内君からの電話だった。嫌な予感がした。TVのチャンネルを変え続けると漆黒の覆面を付けたヴィランが映し出された。
"オールマイト。こちらには人質もいる。こちらの指示する場所に来られたし"
電波ジャックをするという事は、電気系の個性を持つヴィランがいるということ。私は画面を瞬きをせずに凝視していた。
「あいつら、ヴィラン連合に便乗してオールマイトを追い込むつもりだ。出れるか?」
「あぁ。すぐ行く」
塚内くんに短く答え、私はヒーローコスチュームに身を包み家を飛び出した。
(頼む、私の勘よ、当たらないでくれ)
私はヒーローらしからぬ私的な考えをせずには居られなかった。人質がいる。慎重に対応しなければならない。塚内くんと合流し指定された廃墟へと向かう。そこは以前から潜りが多く警察も手を焼いていた場所だった。日にちを決めてヒーローが本腰を入れよう、そんな話が出ていた程である。
「じゃあ、私一人で行くからね」
人質の安全最優先。私は正面からゆっくりと進んだ。廃墟にあるガレージの入口を開ける。
「私が来た!」
「......と、し...」
願いは届かず、私の危惧は現実となった。目の前に居たのは、椅子に縄で縛られたなまえだった。
「どこだ」
オールマイトである私は、彼女の名前を呼ぶ事も出来なかった。額に浮かんでいるだろう血管が切れそうなのが自分でも分かる。私的な感情に任せ無いようにするのが精一杯だった。
「誰だよ!オールマイトが弱ってるっ言ったの!」
そこからは2、3分で蹴りが着いた。隠れていたヴィランが一斉に出てきたが、私には全てがスローモーションに映り一瞬にして弾圧した。
「すまない」
憔悴しきったなまえを抱きかかえ、後で迎えに行くから、と耳元で呟き救急車の方向へ向かう。
「来てくれたんですね、私のヒーロー」
耳を近づけないと聞こえないくらいのか細い声だったが、彼女は私に答えた。
「すまない」
もはや何度目か分からぬ謝罪をこぼした。両目を強く閉じ歯を食いしばった。必ず生命に変えても守ると誓った先がこれか。No.1ヒーローが聞いて呆れる。瞼を上げるとなまえは安心したかのように微笑み眠っていた。すーすー、と寝息を立てている。見たところ外傷は擦り傷程度だろうか。
「すまなかった」
眠りについた彼女に届かないであろう謝罪をまた私は呟いた。救急隊員に彼女を託し、私は塚内くんと共に警察署へ向かった。本当なら救急車に乗り込みたい気持ちでいっぱいだったが、ヒーローという肩書きがそれを許さなかった。
「もしかして、彼女、大事な人?」
警察署に着くと、塚内くんは私には問いかけた。え?と声が裏返る。
「顔に出過ぎなんだよ、オールマイトは。わかりやすい、ほら」
彼は私になまえの搬送された病院名の紙を差し出した。そして目を閉じて親指で早くいけよ、とドアを指差し退出を促した。
「ありがとう、助かるよ」
私は急いで搬送先の病院へと向かった。受付で彼女との面会手続きを取る。トゥルーフォームの私に看護婦は誰も気づかない。小走りに病室へ向かうと、走らないで下さい!と注意された。病室へ入ると、なまえは規則正しい寝息を立てながら横たわっていた。ベッドの隣に腰掛け、手を握る。目が覚めるまでここにいよう。そして私にはある考えが浮かんでいた。
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まるで水の中に居るようだった。ブクブクと私の息から空気の泡が漏れる。それは水面に到達すると直ぐに消えていく。シャボン玉の様に。誰かが何かを叫んでいるが、水中で耳に膜がはられたみたいによく聞こえない。私は水面に映る光に手を伸ばした。
「なまえ!」
目が覚めると、右手を強く握る俊典さんがベッドの隣にいた。ゴツゴツとした手が、ギュッと私の指まで掴んでいる。
「ちょっと痛いです」
「あぁ!ごめん....!とにかく無事でよかった」
「名前、呼んでたの俊典さんだったんだ」
目の前のガリガリさんは顔に?を浮かべて私を握る手に入る力を緩めた。ずっと横に居てくれたのだろうか。No.1ヒーローを独り占めしていたみたいで、不謹慎にもちょっと嬉しくなった。
「なまえ、これは私のエゴかも知れないんだが、提案をしたい。」
私の浮かれた考えを他所に俊典さんが碧い瞳をこちらに向ける。彼はもう片方の手で、私の肩を優しく掴む。
「私と一緒に住んでくれない?」
突拍子のない俊典さんの提案に私は言葉を失ってしばらく答えられないでいた。