Never let me go

(決して離さないで)



「一日の最後に聞きたいのは君の声なんだ」
「可愛いこと言うのね」
「本当さ。だから、君の言葉で言ってくれ」
「…愛してるわ」



古いジャズが好きだ。ポップ・ロックも勿論いいがジャズを聴いていると日常の一コマも映画のワンシーンのようかに思えるからだ。
目の前の彼女は端正な顔立ちの為シアターに映し出されたアクトレスのよう。形のいい唇がニコリと動きこちらを向いた。



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ピピピピ!!!!



珍しくアラームで目が覚めた。
そして珍しく昔の夢を見た。
遠い昔の淡い思い出。
あの頃は本当に若かった。オールフォーワンから逃れ、アメリカで力を蓄えた。お師匠との約束を果たす為に、肉体精神共に鍛えた。



(いいか、俊典。愛することは人間を成長させるんだ。)




恋愛などにうつつを抜かす事はできないと思っていた。だから意外にもお師匠から言われた言葉は想像していた答えと正反対だった。お師匠に言われたから、という訳では無いが自分も多感な時期だったあの頃は、恋をした。
懐かしい、甘い記憶。




(もっと色気が欲しい)
(このセリフ、どこかで聞いたことあるよ)
(確か古いラブストーリーのセリフよ)
(だからか)
(トシはいいわね、いい声してる)
(そうかな?)
(うん)


名前は長い髪の毛を左肩にかける癖があった。耳したから覗くうなじがとてもセクシーだったのを覚えている。彼女は色気がないなんて言ってたけど、20歳そこそこにしてはオーラがあったと思う。少なくとも自分は翻弄されていた。同い歳とは思えない。あまり語らない、彼女のミステリアスな部分に惹かれている自分がいたのもまた確かだった。



そうか。
名前に似ていたからだ。


昨晩会った女性は名前の若い頃に似ていた。だから既視感を覚えたのだ。しかし世の中には3人くらい自分に似た人間がいるという。彼女は名前に酷似していたがやはり違う。何故ならば彼女は私と同い年。誰もが平等に歳をとっているのだから名前も年相応の顔つきになっているはず。



(あの時、名前を手離さなかったら...)




いや。
彼女から切り出された別れに応じて正解だった。今の自身の姿を見てみろ、オールマイト。腰から螺旋状に広がった惨たらしい傷痕、落ち窪んだアイホール、削ぎ落ちた頬肉。名前が愛してくれた私の姿とは程遠い。




(さぁ、今日は雄英に行く日。しっかりしろよ、平和の象徴)



ウォークインクローゼットからダークグレーのスーツ取り出し袖を通した。スーツはマッスルフォームの状態で採寸していた為トゥルーフォームの今はダボダボだ。見るからに貧相なその姿は、情けない。




「よし。」




私はダボダボのスーツのまま、自宅を後にした。来年から母校である雄英高校にて教鞭をとることになる。それに伴い新居も探さなければならない。
やる事は山積みだ。
今日は雄英高校を訪問した後に仲良しの警部、塚内くんとも会う約束をしている。サイン済書類を渡すのと、お土産を渡すのが目的。



(薔薇の入浴剤、名前好きそうだな)




彼女は香りに敏感だった。いつも石鹸の香りかグレープフルーツの香りを纏っていて、みずみずしい名前を文字通り表したような爽やかな香りがした。
ある日色気が欲しいからとドヤ顔で薔薇の香りを香らせてきた時には笑ったっけ。
そんな事を考えながら懐かしの母校への道をたどっていた。





「「あ。」」





名前に似た昨晩の女性が反対車線にいたのだ。だが昨晩とは少し雰囲気が違うような。昨日に比べるとぐんと大人びていた。





「こんにちは、昨日は楽しい時間をありがとう」
「こちらこそ。六本木から離れたこんな所で会うなんて気が合うね。」
「ええ。まるでドラマみたいね。あなたは何故こちらに?」
「仕事だよ」
「あら、お疲れ様。かく言う私もそうよ。それにしても八木さん、あなたやっぱりいい声してるわ」
「ああ、昨日も言ってくれていたね」




見れば見るほど似ている。
私が愛したあの女性に。違うのは、昨晩と同じオリエンタルな香りを纏っている事。私の記憶の中の名前からは想像もできないくらい色気がある事、そして髪の毛を肩にかけずとも首元からうなじがのぞく事。



「.....って聞いてる?八木さん。」
「あ、ああ、ごめん。なんの話だったかな」
「だから、もしよければまたお食事でもどうって話よ。」
「ええ!いいの?」



なんとも間の抜けた言葉がこぼらる。かつての恋人に似ている若い女性からのお誘いに胸を高鳴らせている中年男なんて気にもしないみょうじさんは、昨晩映画の話で盛り上がった件でまた食事でもどうかと申し出てくれていた。




「じゃあ、明日の夜、駅前のカフェで」
「ああ。楽しみにしておくよ」





これも神のイタズラか。
私は雄英高校を出たあと、塚内くんと談笑し書類もお土産も渡す事ができた。薔薇の入浴剤なんて彼は使わないだろうが、彼には学生の妹さんがいる。彼女が使ってくれるだろう。

塚内くんにみょうじさんの話をすると、変なヴィランに騙されてるんじゃないかと心配された。勿論細心の注意は払っている。伊達にNo.1ヒーローを長年やってきたわけじゃない。だがみょうじさんは大丈夫。私は謎の根拠の無い自信を持ち合わせていた。



「それじゃあ、八木さん。また連絡します。」
「うん。また。」
「あ、そっちの相談ものりますから。また聞かせてください」
「Hey、からかうなよ」
「はは、では」


塚内くんと別れ、近くのホテルに泊まった。



(一体、なんなんだあの女性は)



キングサイズのベッドへダイブした。端正にベッドメイキングされたオフホワイトのシーツは、心地よい太陽の香りがする。何年も前の記憶が蘇る。



(いい声してるわ)



この身をヒーロー人生に捧げてきた。愛することは人を成長させる、お師匠が教えてくれたその言葉に甘えて女性を愛したこともあった。しかし、オールフォーワンとの死闘からは自己犠牲によって身を滅ぼしていく私に付き合ってくれる女性はいなかった。




「未練たらたらじゃないか」




独り言をもらし、私は疲弊した身体を休めた。
名前は今ごろ、女優としてアメリカで頑張っているのだろうか。
皮肉な事に私の頭の中は名前でいっぱいだった。
そして明日まさか名前に母校で会うなんて、私は思ってもいなかった。










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