潮騒の音と鼻をくすぐる涼やかな香がひどく懐かしくてふわりと意識が覚醒した。
薄く瞳を開けると、夕焼け空に散りばめられた星が控えめに輝いていた。
「………」
すこし遠くから聞こえてくる行き交う人々の喧騒、背中に感じる湿った砂浜の柔らかい感触、海の香りを肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくり起き上がる。
「……………」
夜の帳が下りようとする中、ぱちぱちと爆ぜる焚き火に向かう男の後ろ姿は見覚えがあった。
「………サッチ?」
ぐいと酒瓶を煽るしぐさも、傍らに放り出されたカトラスにも、久しく目にしていなかったはずなのに、つい昨日まで隣で舵を切っていたような気さえしてくる。
あれはただの夢だったのだ。たちの悪い、いやに現実的な悪夢。
ここには高くそびえる壁も人を食う巨人もいない。胸糞悪くなるようなものは何も無い。
当たり前だ、全部ぜんぶ、夢だったのだから。
潮の音に混じって、呟くような歌声が聞こえてきた。
さあ、今こそ旅立たん
錨を揚げろ、錨を揚げろ
我らが航海の時は来たれり
この船にさあ、帆を張らん
帆綱を引っ張れ、帆綱を引っ張れ
我らが航海の時は来たれり
さあ、船を針路に乗せろ
フォアシートを引け、フォアシートを引け
我らが航海の時は来たれり
荒ぶる波を越えてゆけ
海峡を突き進め、海峡を突き進め
夕潮に乗りながら
この航海が終わったなら
天国へと舵を切れ、天国へと舵を切れ
神は汝と共にある
さあ、今こそ旅立たん
錨を揚げろ、錨を揚げろ
我らが航海の時は来たれり
彼が何を思ってこの歌を歌ったのか、小さく歌い終えたきり黙した背中からはわからない。
ふと郷愁にひたりたくなったのか、単に思いついただけなのか。
それとも、もしかしたら、誰か近しい人を亡くしたのかもしれない。
「サッチ……」
控えめに声をかける。聞こえなかったのか、サッチは微動だにしない。
もう少し近づこうと一歩踏み出したところで、砂浜を踏む別の足音が近づいてきた。
「ここにいやがったか。時化た面しやがって」
「おめえか…」
呆れたようにサッチの隣に腰をおろしたのはケンウェイだ。人相の悪さも横柄な態度も変わらない。なんだか可笑しくて、ひとりで笑った。
「もうあいつのことは諦めろ。お前が酒をかっこんだところで、何も変わらないだろう」
「……そう簡単に割りきれるもんじゃねえんだ。おめえにゃわかるまい」
「ああ、わかりたくもなかったね。黒ひげも存外軟弱だな」
「…馬鹿言え…ひっく」
「よう。久しぶりだな、」
「これ以上面倒見きれんぞ。俺は行く」
「おぉ行け行け、どこにでも行け!…どいつもこいつも、最期に辿り着くのは、どうせ地獄さぁ…」
「サッチ?ケンウェイ?」
「だが、あいつだけは…故郷もねえ、家族もいねえ。あいつは母親を知らねえんだ…あんまりだろうよ、神様…あんまりだ…」
「……まあ、良い奴だったよ。良い海賊だった」
「おい?…ふざけてるのか?」
やや大きな声を出して言っても、二人はこちらを見もしない。まるで俺が存在していないかのようなやりとりを続けるさまに、背中を嫌な汗がひとすじ伝った。
たまらずサッチの肩に手を伸ばす。俺のあまりにもバカバカしい考えを否定したくて、けれども。
「…良い奴だったよ。本当に」
「可哀想になあ…ナマエ…」
夜の黒々とした波が素足を冷たく濡らした。
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