得体の知れないもの。
その人本人であると信じきっていたものを、本当のところは偽者であると突きつけられたら。
一体なにが真実でなにが嘘なのか。
何もかもがわからなくなることは怖くて、辛くて、暗くて悲しくて、俺にはとても耐え切れない。

スワンプマンが己が泥から作られた紛い物であることを自覚してしまったら、そのとき何を思うのだろう。


しばらく件のバーから足が遠のいていた。
なるべくあのひとのことを考えないよう努めていた。
積雪があらゆる音を吸収していく月見野にいるのが苦痛で、俺は神室町に足を運んでいた。

「なんや、馬場ちゃん。えらい辛気くさい面しとるな」

隣で煙草をくゆらす冴島さんがこちらを向いて物珍しそうに口を開いた。
わざわざ彼に指摘されるくらい陰気な顔をしていたのか。

久しぶりに会う冴島さんは大柄な身体も仏頂面も何ひとつ変わりなくそこに在って、確かに冴島さんだ。
そこに偽物なんじゃないかなんて疑わせる要素は微塵も無い。
自己の同一性がどうたらなんて、確固たる己の信念に基づいて生きる冴島さんにはおよそ無縁な話題だろうな。馬鹿馬鹿しいと一蹴されるのが目に見えている。

そう考えるとこんがらがった頭も不思議と軽くなるようで、俺の精神に影を落とした名前さんのどす黒い情念が少しだけ薄まる気がした。

「そうですかね…でもなんか、安心したのかも」

「は?」

「いや、なんでもないです」

「なんやそれ」

首を傾げる冴島さんには悪いが、きっと話したところでなんの意義も得られないだろう。化かされたんじゃあないのか、なんて鼻で笑われる可能性もある。
そして何より、俺が軽率に話すことで彼と冴島さんの間に何かしらの縁が結ばれてしまったら。

纏わりつく嫌な予感をかき消すように頭を振った。

紫煙が夕暮れの空にどこまでもたちのぼってゆく。
そこかしこに散らばるゴミも煩わしい客引きの声も、今この瞬間だけは彼を忘れさせてくれる。
それどころか、常ならば嫌気がさす程の忙しない雑踏と灯り出したネオンに安堵感を覚えたのは初めてのことだった。

「そういや馬場ちゃん」

「なんですか?」

「名前って男、知っとるか?」

手にした煙草の先の灰がぽとりと落ちて。
街中でひっきりなしに鳴るサイレンの音ばかりが聴覚を覆って。
俺はあのときと同じ、不気味で悍ましい寒さが静かに背中に忍び寄る空気を感じた。




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