TOP > 更新履歴 > 記事

茨に女装してもらう
2025/11/04 20:06

 嫌な予感はしていた。

 ようやく仕事が落ち着いてきたのもあって久々に彼女との時間が取れたので家を訪ねたはいいが、玄関で出迎えてくれた彼女からの視線がいつも以上に熱っぽかった。否、久々の逢瀬を心から喜んでくれているのならそれはそれで悪くはないとは思う。しかしなんとなく居心地の悪い視線であることは間違いなくて、茨はサッと彼女の瞳から視線を逸らしたのだ。

「あの……、お久しぶりです」
「久しぶり。会いたかったよ茨くん」
「それは僥倖……」

 彼女からの会いたかった。なんて台詞、本来はほの甘いはずなのに何故か全然甘くない。茨は気まずい思いでソファに腰掛けると、その瞬間に距離を詰めてきた彼女に思わずギクッと身を強張らせた。

「ねぇ!」
「なっ、なんですか」

 彼女が自分のスマホを見せてきた。その瞬間思わず素っ頓狂な声が喉から飛び出る。

「げっ!!」
「これ茨くんでしょ?!」

 そこには以前仕事で女装した時の自分の姿が写っていた。我ながらめちゃくちゃ機嫌が悪そうなのを無理やり押し隠した顔をしている。

 しかし彼女はというと、それを見せてきつつもやはり熱っぽい視線を向けてくる。軍事施設で培った所謂野生の勘が、茨に警報を鳴らしていた。

「すごい綺麗……綺麗だよ茨さん……」
「いばらさ、」

 呼ばれたことのない呼び方をされて、思わず復唱してしまう。彼女は茨の服を掴み、ずい、と顔を寄せてきた。本来であれば久々に会ったのだからと触りたいし触られたい欲が茨にも多少なりともあるのに、それどころではない。
 そして彼女は茨にとって最悪な言葉を吐く。

「女装してる姿、間近で見たい」
「却下でありま〜す」

 な、なんで?!と予想外の反応をする彼女に、茨は舌打ちしたい気持ちを抑えて作り笑いを浮かべた。

「仕事で渋々やったのですからプライベートでなんて絶対やりたくありません」
「そんなぁ……綺麗なお姉さん、間近でみたい…綺麗なお姉さん……」

 茨の身体は間違いなく男であることを、彼女はすっかりと忘れているのだろうか。とにかく話を逸らす為に甘い言葉の一つ二つ吐いてキスの一つや二つすれば忘れるだろうと思い、茨は彼女の手を引いた。この方法なら自分のこっそりと隠し持っていた欲も満たせるので一石二鳥だ。そう思ったのに。

「待って茨くん!!」
「なっ、なんですか?!」
「私、これ使う!ほらこれ!」
「うわっ卑怯だろ!」

 彼女が一旦ソファから離れると、一枚の紙切れを持って戻ってきた。白い名刺用の紙に茨の字で『一日奴隷券』と書かれており、ついでに自分の署名までしてある。
 詰まることろの『なんでもしてあげる券』である。

「なんでもしてくれるんでしょ?!女装してください!!メイクは私にやらせてください!!」
「いやだ」
「なんで!!なんでもしてよぉ!!一日奴隷よりはいいじゃん!!」

 ちなみにその券は以前忙しさのあまり彼女を2ヶ月ほど全く連絡もせず完全放置してしまったお詫びに一枚あげたのだ。「こんなのいらないよ」と笑っていた彼女に半ば無理やり押し付けたものだが、そのまま甘えて引っ込めておけばよかった。よもやこんな事に行使されるなんて、聞いていない。

「お願い!プロのスタイリストさんには遠く及ばないけど絶対綺麗にしてあげるし!もしやってくれるなら私も一つお願い聞くから!」
「それじゃその券の意味ないじゃないですか」
「ある!!私にはそれだけの価値がある!!」

 あまりの力説に、そして彼女の方もなんでもしてくれるという甘言に、とうとう茨は唸ってから首を縦に振った。写真は絶対に撮らないという約束付きだ。彼女は勿論。とその約束に頷く。

「綺麗な茨さんを独り占め出来るなら写真なんて撮らない」

 複雑な愛の言葉に、茨はため息を吐いた。


「言っておきますが、髪も服もこのままですよ」

 撮影の時は髪はエクステ、服はスタイリストがピンポイントで喉仏や肩幅を隠すよう仕上げてくれたが、彼女の家ではそうもいかない。茨はなんとかして彼女を諦めさせようとした。しかし今日の彼女はどこまでもポジティブである。

「ハイネック着てるから服はそれでいいよ!センタープレスのパンツも素敵!」

 たまたま今日ハイネックのニットを着てきた自分を茨は呪った。

「ロングのお姉さんも綺麗だったけどショートボブのお姉さんも綺麗だから大丈夫」

 もはや大丈夫の意味がわからないが、もう茨は諦めた。今度彼女に何をしてもらうかだけを考える事にしたのだ。

「あのねあのね、もらったはいいけど私には似合う気がしないデパコスの赤リップと、色間違えて買ったアイライナーと、付けたら予想以上に似合わなかったアイシャドウあるんだけど、茨くんならどれも似合いそうなの!」

 似合ってたらあげるね。と言われて思わず「いらねぇ〜」と呟くと、彼女はテンションゆえか茨の頬にちゅっと一つキスをしてきた。

「ファンデ塗ったらキスしたくないから今のうち!」

 いや普段はファンデ塗ったあんたの頬にもこちらはキスしてますが?と茨は思ったが、諦めた。この分でいくとリップを塗る前に唇にもしてくれるのでは、という下心が湧いたのである。

 そこからは大人しく彼女があれこれと塗ってくるのを黙って耐えた。たまに至近距離で「肌綺麗〜社畜の肌とは思えない」だの「まつ毛長い〜ビューラーで挟んでもほら!」と反応しにくいことを言ってるので黙る。そして何より彼女の顔が近いので正直な所そのまま抱き寄せて押し倒したくなるが、とりあえず我慢する。そういった要望は先ほどの「なんでもしてくれる」時に行使させてもらえばいい。

「やだ〜茨さん跳ね上げアイライン似合う……私自分のメイクより上手にできてる……」

 ちなみにリップを塗る直前にしてくれるかもしれなかったキスはしてくれなかった。茨のフラストレーションはまた少し溜まる。
 最後にグロスを塗って、彼女は「できた」と呟いた。

「すごい……めちゃくちゃ綺麗なお姉さんを錬成してしまった……」

 誰もどこへも行かないのに「待って、待って待って」と呟きながら彼女はおもむろにヘアワックスを持ってきて、茨の前髪の分け目を少し変えて片側を耳に掛けるように後ろに流す。最後に彼女の手持ちのイヤリングを付けさせられ、ハイネックのニットの上にチェック柄のストールを羽織らされ、肩幅まで隠したら完成である。

「き、きれい……」

 顔にいつも以上に色んな物を塗っているせいで、なんとなく息苦しい。茨はノロノロと鏡を持ち上げて自分の顔を見ると、化粧の濃い自分の顔が映った。ただただ自分の顔が女性向けの化粧で加工されただけにしか見えないが、彼女の反応を見る限り余程の傑作であるのは明白である。はしゃいで騒ぐと思っていたのに妙に静かになってしまった彼女のリアクションが気になりそちらをチラと見れば、惚けた顔で茨を見ていた。

「満足いただけました?」

 やる気のないトーンで試しに話しかけてみる。すると彼女がそれに反応するようにビクッと体を揺らした。何か変だと、彼女の腕をそっと掴む。

「……きゃっ、」

 きゃ?茨は怪訝な顔を隠すことなく彼女に向けた。未だかつて、そう、例えばベッドの中でもこんなに乙女な声を、彼女は出したことがあろうか。
 多分、ない。

 茨は自分の仮説を証明する為に、無言で彼女の腕を引き、顔を近づける。彼女の頬を両手で挟んで逃げられないようにして、その顔をじっと見つめた。
 みるみる赤くなる彼女の頬に、泳ぐ目線。挙げ句の果てに、彼女は甘々な声で呟いた。

「は、はずかしいから見ないでぇ……」
「いや、なにいってんの?」

 恥ずかしいのはこっちである。なのに彼女は普段の自分が迫った時の何倍も照れて、そう、メロメロになっているではないか。

「ふーん、こういうの好きだったんだ」

 俺よりも綺麗なお姉さんの方が好き?そういえば、彼女は茨に頬を挟まれたまま、ぐいぐいと首を振った。

「ち、ちがうちがう……茨くんなのはわかってるんだけど、いつもと違う風に綺麗なんだもん、あの、す、すき、いばらくんが」

 支離滅裂な愛の言葉に笑い出しそうになったが耐えて、そのまま彼女にキスをした。ぺったりとした艶のあるグロスが、彼女の唇にも移る。

「じゃあ今度は自分のお願いを聞いてもらいましょうか」
「ひゃ、ひゃい、なんでもします……」
「いいこですね」

 ニッコリと笑ってから、茨はぐい、と身体を近づけ彼女に押し付けた。

「え、へへ、……ひっ、」

 綺麗なお姉さんの身体が全然お姉さんではないという現実に、茨は彼女を軽々突き落としたのである。


 結局茨がメイクを落としたのは夜になってからで、普段よりも喉を枯らした彼女が水をくれと拗ねたように頼んでくるのはそこからもう少し経ってからである。




[prev][next]
[Back]

Copyright (C) 2016 PB All Rights Reserved.