TOP > 更新履歴 > 記事

宗とAM4:00
2024/02/20 21:10

AM4:00。目覚ましは滞りなく鳴動し、滞りなく僕は目を覚ました。一番にマドモアゼルにおはようを言えば、麗しの少女はいつもと変わらない微笑みを向けてくれる。まるで僕を応援してくれているように穏やかで、それでいて気品に満ち溢れたその表情に僕は自分がまだ顔も洗っていなかった事を思い出す。
 レディを前にして顔も洗わず挨拶をするなんて品位が足りなかった。

「すまないマドモアゼル。君に対する礼を失したわけではないのだよ」

既にきちんと身なりを整えた少女にそう言えば、サファイアの瞳の少女は「気にしなくていいのよ宗くん。それより早く昨日決めた事をやらなくちゃ」と僕を凛と導いてくれる。

「ありがとうマドモアゼル」

 小さく、でも優しく呟いてから少女のワンピースの裾を丁寧に直すと僕はまず自分の身なりを整えた。仕事まではまだかなり時間がある。しかし僕の気が済まないからと服もきちんと着替えて、首元のリボンを締める。それだけでなんとなく気持ちが引き締まる気がした。
 パリもすっかり冬の足音が聞こえてきている。その足音に合わせてリボンの生地はベロアにした。ボルドーとネイビーで迷ったが、今日はなんとなくネイビーの気分だったのでそれを身につける。彼女が気に入っている色だから、というわけでは決してない。ただの気分だ。

 僕はキッチンでお湯を沸かすと手早くティーカップを温めた。茶葉は朝らしくスッキリとしたアールグレイにしようと決め、棚から茶葉の缶を取り出す。収納棚の中には常に数種類の紅茶缶を常備し、気分によって気に入りの紅茶を淹れている。
 最近はその中に一つ、ココアの缶が紛れている。紅茶よりもココアが好きな彼女の為に買ってあるものなのだが、仕事の知り合いが勧めてきたので仕方なく買っておいただけのものだ。

 ……まぁ、高いものでもないし、こういったものの賞味期限は長い。早めに準備しておいて損はないだろうと思って買ったのだ。封はまだ切っていない。
 なんだか余計に緊張してきて僕は早々に収納棚を閉じるとお湯をティーポットに注いだ。
 朝ごはんはまだいいだろう。正直、喉を通らない気がする。


 さて、きちんと紅茶を蒸らしてからカップに注いで、あとはやる事が無くなってしまった。いや、やるべき事はこれからなのだが、それを実行する為にやるべき準備を全て終えてしまったのだ。
 時刻はAM4:20。まだ20分しか経っていないと言うべきか、もう20分も経ってしまったと言うべきか。チラ、とマドモアゼルの方を見れば、少女の気品あふれる瞳は「早く!」と何かを急かしているようだった。

「わかっている。勿論わかっているよ。かわいいマドモアゼル」

 よし、と僕はとうとうベッドに置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、通話アプリを開いた。履歴の少しだけ下にある名前をタップして、そっとスマホを耳に当てる。3コール、4コールと単調な電子音を重ねていく内にだんだんと緊張が増してきたが、次に聞こえてきた彼女の声を聞いたら一気に力が抜けてしまった。

「…………ぁい?」
「……君、寝ていたのかね」

 パリが今朝の4時だということは、日本はまだ午前中辺りだろう。なのに彼女の声は今この電話で起きたかのようなひどく寝ぼけたものだった。

「……しゅうくん」
「そうだよ、僕だ。そろそろ起きたまえ寝ぼすけ」

 呆れたように言ったつもりが、少し甘やかしたような声になってしまった。小さく咳払いして勝手に仕切り直せば、スマホの向こうでゴソゴソと身動きする音がした。ベッドから起きたのか寝返りを打ったのかはわからないが、少しだけ彼女の声が鮮明になる。

「おはよ〜」
「あぁ、おはよう」
「宗くん早いね。まだそっち朝の5時とか4時とか?」
「そうだね。そろそろ4時半だよ」

 日本語が久しぶりなわけではないが、彼女と話す事自体は久しぶりだった。なんとなく、舌がもつれそうになる。

「そっかぁ今日は仕事早いんだね。無理しないでね」
「問題ないのだよ。ちょうど朝の紅茶を楽しんでいたのでね」

 緊張を紛らわせる為に淹れた紅茶が役に立った。少し口に含めば、アールグレイの爽やかな香りでほっと胸が落ち着く。

「君はその、変わりないか?」
「ないよ。昨日ちょっと夜更かししちゃってまだ寝てたけど」
「……何をしていたんだ?」
「何も〜」

 少しだけ、心がもやついた。恋人である僕に言えない事とは何なのだろう。気になるけど食い下がって聞くのは何となくできない。折れそうになった心を奮起して、肝心の話題を口にしようと、息を吸い込んだ。

「……なんて、嘘だよ〜。浮気とか疑った?」
「ノンッ!」
「うわっごめんってば。 面白いゲーム見つけちゃってやってただけ」

 浮気するほどモテないから!と先ほどより更に鮮明になった声で弁明する彼女の必死さに、僕はついほっとしてしまう。距離が離れているというのは大きい。それを実感してしまう程には彼女に飢えている。
 僕は大きくため息を吐いて今までの懸念を吹き飛ばしてから(彼女は呆れた?ごめんね。と謝っていたようだが、もはや僕の耳には入ってきていない)そっと本題に差し掛かった。今年の長期休みは彼女にパリで一緒に過ごしてほしいという、僕たっての願いをゆっくり口に出す。

 マドモアゼルが穏やかな瞳で見守ってくれている。戸棚の中には彼女の好きなココアもある。きっとうまくいく事だろう。



[prev][next]
[Back]

Copyright (C) 2016 PB All Rights Reserved.