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斑とPM5:00
2024/02/20 21:11

 あぁ!!仕事が!!終わらない!!

 私は凝りすぎて次第に鈍痛を覚え始めた肩と既にぴくぴくと痙攣の止まらない瞼を抱えて、むくみのせいで妙な張り方をしている脚をどうにかすべく気休め程度にデスクの下でぐるぐると足首を回した。
 12月は基本、どんな会社で働いていても大抵は忙しい。師走とはよく言ったもので、年末年始の休みの為にラストスパートをかける時期なのだ。
 そしてそれは芸能界も同じなのか、最近彼の顔をとんと見ていなかった。海外での活動も比較的多い斑くんは気が付いたら地球の反対側にいる、なんてこともよくある話なのだ。

「あ〜まじ、私そろそろ彼氏構ってあげないと振られる……」

 隣の席の同僚がぼそりと呟いた。最近上手くいっていないと言っていたので、この忙しさは更なる追い打ちだろう。

「あんたの所は大丈夫?……ていうか彼氏外資系だっけ。じゃあ向こうも忙しいかぁ」
「う、うん……今もどこにいるかわからない」
「なにそれ〜」

 けらけらと笑った同僚に私は苦笑いを浮かべる。斑くんは外資系企業に勤めているわけではもちろんないのだが、彼氏が今海外で……と頻繁に言っていたらいつのまにかそういう設定になっていた。都合がいいので私は黙っておく。
 疲労のあまり実のない話をしていると、私のスマホがメッセージの着信を知らせた。第一声で『ママだよお〜!』と書いてある。もちろん本物の母親からではなく、斑くんからだ。

『仕事中だよな。お疲れさま。キリがいい所で早く帰っておいで』

 う、と私は同僚に聞こえない声量で呻いた。帰りたい。ちなみに今はPM5:00。本来は定時の時刻である。
帰っておいで。と書いてあるということは斑くんはもう家にいるということだろう。確かエジプトだかどこだかにロケに行っていたのに、もう帰ってきたようである。
 いいな、帰りたい。久々に彼の太陽みたいなまぶしい笑顔に会いたい。と、既に明らかに彩度も明度も落ちた頭で考える。ただいまを玄関先で声を張って言えば、斑くんのことだから「おかえり〜!!」とドタドタ足音を立てて玄関まで出迎えに来てくれることだろう。私はというとそのままパンプスを脱いで斑くんに抱きつけばいいだけである。

 あ、いいな。抱きつきたい。背が高い斑くんに抱きつくとすっぽり彼の中に収まってしまう感じが好きなのである。さりげなく匂いを嗅ぐと本当に微かに男性ものの香水の香りと斑くん自身の匂いがして最高なのだ。かたや私はすっかり取れた香水と汗と疲労の匂いしかしないので大変申し訳ない所だが、早く帰ってそれを堪能したい。

「帰りたい……」

 無意識に呟いて、仕事のメールを1件返信した。外注に納期を短縮して欲しいというお願いメールだ。返信はおそらく明日だろう。すると斑くんから更に、立て続けにメッセージがきた。

『今日の夕飯はシチューだぞ!』

 食べたい。シチュー。斑くんの作ったものならもはやなんでもいい。というか彼は下手したら私より料理が上手なので、シチューも多分市販のルウではなくホワイトソースから作っているはずである。食事を囲みながらエジプトでのロケがどうだったのか聞きたいし、私の仕事の愚痴をほんの少しだけ聞いて欲しい。ただ「頑張ったなあ!」と言ってもらえれば、私はそれで十分なのだ。
 私は一旦キーボードから手を離すと、とりあえず手短に彼に返信を送った。

『お疲れさま!私はもう少しかかりそうだから先にご飯食べててね。作ってくれてありがとう』

 本当は一緒に食べたいけれど、仕方がない。斑くんだって疲れているはずだしお腹だって空いているはずである。食事だって出来合いでいいのに作ってくれている辺り、愛しか感じない。隣で彼氏に振られるかもとブルーな同僚には心の底から申し訳ないが、私の所は至って順風満帆なのだ。

『私も早く食べたいな〜斑くん』

の作ったシチュー。と入力しようとした所で、私宛に電話が鳴った。先ほどメールを送った外注先からのようである。あぁ文句かなと思いながら電話を受ける。電話用のメモをスマホの下に敷いていたので片手でスマホを払いのけメモ帳を引き寄せた。案の定、外注は文句というよりこれ以上の納期短縮は無理だと言ってきたけれど、そうはいかないので交渉すべく私は疲れた脳の中に咲かせていた花畑をさっさと焼き払い、もう一度仕事モードに切り替えたのである。


「……ん?」

 斑は彼女から帰ってきた返信のメッセージに首を傾げた。煮込み始めたシチューはもう少し時間がかかるが、そもそも彼女が帰ってくるのはもっとずっと後のようなので、少しだけ肩を落としていた矢先だった。

『私も早く食べたいな〜斑くん』

 の、作ったシチュー。が、おそらく正解だろう。明らかに途中送信してしまったのであろうぶつ切りのメッセージに、斑は苦笑した。それだけ忙しいのだろうか。確か彼女は去年のこの時期も毎日身体を引きずって帰ってきては次の日身体を引きずって仕事に行っていた気がする。
 鍋の日を弱火にしたまま、くつくつと柔らかい音を立てるシチューは彼女と一緒に食べようかと決め、斑はもう一度彼女の途中送信してしまったメッセージを見る。

「あれみたいだなあ」

 そして思わず独り言を呟いた。

「ごはんにする?お風呂にする?それとも俺?って言ってみようかなあ!」

 恐らく疲労でアタマのネジが飛んでいるであろう彼女は間違いなく斑を所望することだろう。その言葉だけで斑が極限まで満たされてしまうことを、彼女は知っているのだろうか。
 きっと知らないだろう。 




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