TOP > 更新履歴 > 記事 一彩の民族パロ・狩り編 2025/11/04 20:23 細く吐いた息の音でさえ、時に気取られるほどの緊張感がそこには満ちていた。 一彩は意識的に極力呼吸を止め、土を踏む振動すらも消すようにゆっくりと腰を落とし、茂みに潜んだ。前方約15mほど先で、警戒心の欠片もないような穏やかな空気を纏った野うさぎを狙う狐がいた。もぞもぞと周囲の草を食む野うさぎの後方で姿勢を低くした狐がうさぎの油断する機会を虎視眈々と狙っている。ほんの一瞬、火花を散らす程度の刹那でうさぎに飛びかかり、その体に噛みつき獲物にするのだろう。自然界では、ありふれた光景である。 一彩はそんな狐の右側後方で、気配を消しながら弓を低く構えるべく動いた。そっと背中に背負った矢筒から矢を取り出し、弦のしなる弓につがえる。今日持ってきた弓は、かなり弦を強く張ってきた言わば一彩専用のものである。集落の男たちでもその弓を引けるのは一彩と、今は都に出ている兄の燐音くらいだろう。非常に強い力を必要とするが、その弓が引ければまず貫けないものはない。 「……」 うさぎと狐と、それから一彩。長い膠着の隙間、狐がみじろぎをした瞬間に一彩は呼吸を整え、ギリギリと弓をしならせる。狐の前足が微かに動いた。地を掻くような仕草の後、うさぎに向かって跳ぶという一瞬で一彩は一気に弓を弾いた。ヒュンという風切り音と共に矢が真っ直ぐに、未だその気配に気付いていない狐の腹部を深く貫く。矢の勢いに負けて狐の両足が浮き、そのまま後方に跳ねるように押されていった。そこでようやく気づいたのであろううさぎが甲高い鳴き声を上げ、お得意の足蹴で一目散に去っていった。 一彩はザクザクと今度はあえて音を出して地面を踏みながら、ゆっくりと仕留めた獲物に近づく。草むらの中、長めの矢に貫かれた狐に向かって深く礼をしてから、そっとその矢を抜いた。早く血抜きをしないと、毛皮が汚れてしまうからである。 「……ウム、」 自然界では弱肉強食である。たまたま狐は弱者であるうさぎを狩ろうとし、強者である一彩に狩られたのだ。それだけの事だ。強いものが勝って当然の世界はいつだって単純明快である。強者は糧となってくれる弱者に礼を尽くし、その命を無駄にせぬよう励むのだ。 「ただいま」 「一彩さん。おかえりない」 山を降り家に帰ると、妻がぱたぱたと玄関先まで出迎えてくれた。その姿に一彩は無意識にホッとしてから、今日の獲物を妻に見せる。 「狐が獲れたよ。そろそろ冬も近いから、これで君の防寒具を作ろう」 狐の毛皮は保温性に優れている。ついこの間都からはるばる、彼女の両親とこちらの都合で嫁いできた妻にこの土地の冬はさぞかし辛いものだろうから、一彩は狐を獲って毛皮を贈ってあげたかったのだ。 「私の為に……ありがとうございます。危ない目にはあっておりませんか?」 「大丈夫、狐を狩るくらいなんともないよ。なにより僕が君に獲ってあげたかったのだから、気にしないで欲しい」 彼女を前にすると、口数がいつも以上に増えてしまう。ただ一言「大丈夫」と言えば済むものを色々と自身の思いを伝えたくなるせいで、彼女に喜んで欲しい、更に言うと褒めて欲しいという感情が露呈してしまっている事に一彩は気が付いていない。だからこそ彼女の前では時に饒舌で、自分でも驚くのだ。 「とても嬉しいです。大事にします」 嫁いできた頃は都に狩りの文化が無いからか青褪めた顔で獲物を見ていた彼女も、ゆっくりとこの集落の文化を理解して歩み寄ってくれている。狩りは殺戮ではなく生きる手段であり、相手に礼を尽くす事が前提であると学んだようでいつも丁寧に、獲物にこの集落独特の礼を、最近ではするりと行ってくれるのだ。 「ウム。僕も嬉しい」 彼女の大事な物の一つに自分が入り込めた気がして、一彩は満足そうに頷いた。妻は首を一度傾げたけれどやはり楽しそうに微笑んでくれたので、明日自分の手で彼女の防寒具を作る時間を得ようと決める一彩なのである。 [prev][next] [Back] |