TOP > 更新履歴 > 記事 零と別れ話をする 2025/11/04 20:48 馬鹿も休み休み言いやがれ。 零は無意識に、ミネラルウォーターが注がれたグラスに手を伸ばした。既に氷が溶けたそれは、周囲に水滴を纏ってじっとりと零の手を濡らす。安い個室居酒屋で出される程度の水なのだから、グラスが濡れてくるのも仕方のない話だ。ここ最近接待で水一杯でいくらも取られる高いレストランでしか食事を摂らせてもらえていなかった零からしたら、ほんの少しだけ不快感を抱える感触に指を滑らせないようにしながら水を口に運ぶ。 アルコールでぼやける舌の輪郭を元に戻すには少々刺激が足りない温度のミネラルウォーターではあるものの、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。今冷え切った水でも口に含もうものならば、ショックで張り裂けそうな心臓が、いよいよ熱疲労でひび割れて粉々になりそうである。 目の前の彼女は俯いたまま、こちらを見なかった。彼女も珍しくアルコールを飲んでいるからか額が微かに赤い。今思えば、彼女なりに勢い付かせるためのガソリンだったのかもしれないが、今の零にとってはそんなものどうだってよかった。 「もう一度言ってくれぬか」 冷静さを保とうとして、わざといつもの口調で話しかける。出た声は先ほどのミネラルウォーターでは潤わなかったのか酷く雑味が多い音をしていた。言わずもがな、動揺は水如きでは流れてくれなかった、という事だろう。 「……別れようって、言ったの」 彼女が小さな小さな声で、そう言った。もしこれを彼女の家で伝えられていたのなら即座に手で口を塞いでやっている所である。が、個室とはいえ公共の場なので、暴れ出しそうな右手はどうにか頬を支える杖にしたままにしてある。 「なぜ」 切羽詰まっている事くらい、自分でも理解している。語尾に疑問符を付ける余裕すら無いのだ。否、今の零の正しい心境からしたら、疑問符など必要ない。何故彼女が突然そんなことを言い出したのかを、強引にでも聞き出したい獰猛さが宿っている事を確かに自覚している。 「……嫌いに、なったか?」 彼女が別れたいと言い出す理由はいくつも思いついていた。零の職業上の立場から身を引いた。側にいる自信が無くなった。環境的な理由。気持ちに余裕が無い。そんな理由で別れる恋人達が多々いる事を、零はちゃんと知っている。 知っているけれど、その中でも一番そうであって欲しくない、一番彼女から聞きたくない理由を最初にわざと持ってくる事で、彼女がそれを否定した時他の理由ならばどうにかしてでもリカバリー出来ると思ったのだ。 零はまだ、今も現在進行形で彼女を愛している。愛している人間から、嫌いになったなんて言葉は絶対に聞きたくない。自分で聞いておいて、身体の芯が震える。頷くな、頷くなと音のしない呪いを彼女に向かって心臓の内側から吐き出しながら、彼女が「そうじゃない」と言い出すのを零は指先を冷たくしながら待ち侘びた。 ミネラルウォーターの入ったグラスは確かに冷たいはずなのに、零の指先の方が冷たいのか、どこか生温く感じる。 「そうじゃないよ。そうじゃ、ない」 「……ふーん」 思ったより冷たい声が出た。彼女に嫌われていなかったという安堵と、ならば何故そんな酷なことを言うのだという摩擦が火花を散らしたせいで冷たい熱を放つ。彼女が零の声に身体を跳ねさせたのが見える。怖がらせるつもりはなかった。けれどもう吐いた言葉を仕舞う事は出来ないのだ。 彼女がチラ、と零を見た。そしてそのまま、テーブルに置いた自分のスマホを見る。何故かロックを解除したままの彼女のスマホ。まさかこの別れ話を録音でもしているのかと思いきや、彼女はまた、じっとスマホの端の方を見た。 通話を繋げたまま画面だけホーム画面にすると点灯する小さなアイコンが、画面にチラチラと写っている。 「でも、もうだめ、だと思ったから。零くんの足を……ひっぱっちゃうから」 そうつっかえながら彼女は呟く。零は適当に相槌を打ちながら、自分のスマホでメモ画面を開く。 『誰と通話している』 彼女にスマホを渡す。妙に沈黙が長いと通話の向こうに怪しまれそうだから、零は深いため息をわざと吐いた。 彼女がそっと、泣くように鼻をすすってから指先を滑らせた。書いたのは、リズリンのスポンサーであるとある会社だ。そこまで大きいスポンサーではないのに社長が何度も撮影に足を運んできては、娘を連れてきていた。零の接待が最近多い理由の一つでもある。 事務所のスタッフである彼女はその意味を知っていただろう。零は巧妙に彼女との関係を隠していたがどこかから漏れ出し、こうして彼女を恫喝しているのかもしれない。 『こいつに目の前で別れろと言われたのか』 零は嫌々撮らされた、社長の娘との写真を取り出しトントンと画面を指で叩いた。この問いに、彼女は頷く。その瞬間、カッと目の前が赤くなったような錯覚を覚えたがなんとか抑え込んだ。ここで暴れては意味がない。零は思い切り息を吸って、細く吐き出した。 「……わかった。おぬしがそう言うのなら」 零は一度強く唇を噛み締めてから、なるべく淡々とした声を出すよう努めて、そう返事をした。例え嘘でも、二度と口にしたくない言葉に気が狂いそうになる。 しかし彼女の瞳からぶわっと涙が溢れたのを見て、零はいかに愛されているかを自覚した。別れ話なんて、とんでもない。彼女はどこまでも自分を愛している。愛しているからこそ、守ってくれようとしたのだ。そう考えたら零も彼女とは違う意味の涙がこぼれそうである。 零は音を立てないように、そっとテーブルの上に置いた彼女の手を掴み、指を絡めた。冷たい指先から、零に相談せず一人で覚悟を決めた彼女の強さを感じる。絶対に手放さないと、零は思った。 「もういい。全部、わかった」 そう呟いて、零は彼女のスマホを見た。その瞬間、通話のアイコンが消えた。言質を取ったと思い、満足したのかもしれない。 「帰ろう。ちゃんと話をしておくれ」 彼女が涙を拭いて、強く頷いた。零にまで真相を話さず一人戦っていた彼女をとにかく抱きしめてやることを決めて、零は立ち上がったのだった。 [prev][next] [Back] |