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斑が迎えに来てくれる春の夜
2025/11/04 20:56

「おかえり」

 柔らかくて甘いのにどこか響く優しい、耳慣れた声に顔を上げると終電を終えた中、煌々と照る電灯が眩しい駅の改札前と、そこから一歩踏み出せば灯りの少ない暗闇の境目に彼は傘を差して立っていた。

「ただいま……どうして?」

 私はアルコールで少しぼんやりと霞む頭でなぜ彼がここに立っているか考えたけれど、生憎と答えは出てこなかった。彼氏とはいえ、なぜアイドルである斑くんが人の気配などほとんどしないといえど、駅で私を待っているのだろう。

「終電って言っていたからなあ」

 確かに都心から少しだけ離れたこの駅は、終電になると人などいないに等しい。時折酔っ払った人がチラホラいるだけなのである。そんな中、私もその酔っ払いと同じくつい先ほどから降ってきた細かくて柔らかい雨にでも濡れながら帰ろうと思っていたのに、彼の手には自分が差している傘以外にビニール傘がもう一本あった。終電になることを連絡したのは確かだけれど、まさか迎えに来てくれるなんて思わなかったのである。

「行こうか」

 そっと背中を押すように促され、私は彼の手にあった傘をもらって無意識の動作でそれを差した。パラパラ、パサパサ、といったような軽い雨音がビニール傘の表面を優しく撫でていく。ふと横を歩く彼の顔を見ようと傘を傾け斜め上を見てみるが、生憎と身長差と彼の傘に阻まれて、見えなかった。

「わざわざ、ごめんね」

 サラサラと雨が長く、より細くなってきた。私はそれを傘越しに見つめながら斑くんに向かって謝れば、彼はいつもよりグッと声量を落として「いいや」と呟いた。

「たまにはこういうのもいいだろう?俺も新鮮で楽しいぞお」

 君の帰りを駅で待つなんて初めてだからなあ。とどこか弾む声は、水溜りを踏んで跳ねた軽い音と綺麗にユニゾンした。

「迎えに来てもらうなんて初めてだもんね。びっくりしたけど嬉しいよ」

 彼の職業上、外で会うことはなるべく避けている私たちは、こうして肩を並べて隣を歩くのだってほとんど経験したことがない。先ほどから降り出した春特有の温かい雨に加えてどこか非日常な空間は、身体の周りをまとわりつく湿気た空気すらもどこか軽く、すっかり日付を越えている時間なのも忘れそうなほど、浮かれてしまう。 

「帰るの遅くて、ごめんね?」

 彼の答えがわかっているのにそう言うと、斑くんは「いいや」と優しい声で言う。

「女友達と飲んできたのならいいんじゃないか?楽しかったんだろう?」
「うん」
「よかったなあ」

 雨の柔さに負けない感触がしそうな、優しい声だ。少しくすぐったいくらいである。

「明日……いや、もう今日か。今日一日を俺に割いてくれるならそれで満足だ」
「斑くんは相変わらず欲がないねぇ」

 ふと上を見上げると、透明なビニール傘に桜の花びらが付いているのが街灯の下、真っ白な電灯に照らされてよく見えた。すぐ横にある桜の木から散ったのだろう。

「そんなことはないぞお。さっき俺がわざと女友達って言った理由を、少しは考えてくれ」
「あはは。男がいたらヤキモチ妬いてくれたの?」

 そう言った瞬間、ビニール傘についた桜の花びらがつるりと丸いフォルムを滑って落ちる。

「妬かないと思ったのか?」

 少しだけ固くなった声に、彼の本気が窺える。先ほどまではこの柔らかい雨によく馴染む甘い声だったのに、突然水の膜を破って剣先を突きつけられたような鋭さを帯びたその声は、ふと視線がかち合った瞬間
の彼の瞳の深い緑色を、より鈍く光らせた。

「……ごめんね。意地悪言っちゃった」

 意地悪ではなく、戯れ程度の試し言葉ではあった。けれど彼の声は、瞳は本気の色をしていたから、私は彼の嫉妬を喜ぶよりも、彼を不安にさせたことを謝った。

 長く細い雨を薙ぎ倒すように、生ぬるい風が分厚く吹き抜けた。思わず傘をその風に立ち向かうようにかざしてそれを防ぐと、風が止んだ瞬間、彼が私の傘を取り、片手で畳んだ。そのまま私の傘を左手に持ち、私に自分の傘の半分を軽く傾けてくる。

「意地悪を言われたつもりはないぞお」
「そう?」

 誰もいないのをいいことに、彼の服を小さく掴んだ。濡れて散りゆく桜の花びらを視界になんとなく捉えながら、彼の居場所は私の隣だと言わんばかりに彼の服を掴んでおく。

「明日一日、家でのんびりしよう。きっとこのまま雨だもん」
「そうだなあ。雨だもんなあ」

 雨を理由に、互いに休みが取れた一日を怠惰に過ごす事を決めた。今私が求めているのは温かいお風呂の湯気でも、小腹を満たす軽食でもない。

 斑くんと共に入る、柔い温度の布団の中だけである。



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