TOP > 更新履歴 > 記事

班と新婚ごっこ・1
2024/03/19 19:59

「だって、その仕事を俺に紹介してきたのは君だろう?」

 きょとんとした、否、さも当然とでも言いたげな顔で言われてしまえば、だんだんと自分の主張が間違っているような気がしてきた。それだけ彼の瞳は、言葉の端々は、自信に満ち溢れた出で立ちは説得力がある。

 彼女は一歩、すり足で後ずさる。ストッキングが真新しいフローリングに擦れて足裏が熱を持つように痛みを訴えたが、今そんな些事を感じ取れる程の気配りを、彼女が出来るはずもなかった。
 ただ、自身の勤める事務所のアイドルで、大人っぽい雰囲気で色気もあり、包容力もあって演技力も申し分ない彼、三毛縞斑に新婚夫婦の夫役のドラマ出演を打診しただけなのだ。

 送られてきた台本のデータを見せれば「面白そうだなあ!俺でいいなら是非やってみたい!」と、いつもの明るい笑顔で言ったから彼女も意気揚々とオファーをくれた担当者に返事をしたのである。勿論向こうも快諾し、やる気満々といった様子の斑に、既に彼女は手応えを感じていた。

 台本の読み合わせまで少し期間があるから新婚の資料を集めたいと言うのでそういった関連のドラマや映画、女性向けの漫画なんかをオススメして、彼女なりに全身全霊で協力しているつもりであったのに。

 ふと残業中に現れた斑がくれたお茶を飲んだら急に意識が途切れ、気がついたら見知らぬマンションの一室である。抜けそうな腰をなんとか奮い立たせて目の前にいる斑を見れば、彼は仕事のオファーを受けた時と同じ笑顔で言った。

「新婚というものがいまいちわからないからなあ。協力してほしい!」

 こちらだって、彼が何を言っているのかわからなかった。なに?と、掠れた声で言う。

「ここで俺に新婚生活を体験させてほしい。実際に体験していないものは信じない事にしているからなあ」

 理不尽な上に意味不明なことを言う斑が、何か得体の知れないものに見えた。女はもう一歩、後ずさる。足の裏が、チリ、とまた熱くなる。

「ここ、なに?斑くんの家じゃ、ないでしょ?」

 彼はまだESの寮にいたはずだ、こんな場所、必要ない。

「借りたんだ。この為に」

 その瞬間一気に鳥肌が立った。異常だ。たかだか、と言ったら失言であるかもしれないが、演技の為だけにこんなに高そうなマンションを借り、恋人でもない事務所の社員を連れ去ってきた。

「俺の実家はこういうのにすぐ手が回るんでなあ。また親の手を借りるのは恥ずかしいけど、使える手は使うタチなんだ」

 リビングの大きな窓の外、ぽっかりと甘そうな色味で浮かぶ満月が妙に呑気に思えた。

「勿論仕事の一環ということで所長にもつむぎさんにも許可は得ているぞお。普段の仕事が出来るようにここに君のパソコンも明日持ってくる。だから俺に協力してほしいなあ!」

 外堀を埋める、というのはこういうことなのか。とどこか他人事に思いながら、女はとうとう足に力が入らなくて膝から崩れ落ち、ぺしゃんとフローリングに座り込んだ。よく見ると、既に生活出来る環境が整っている。なぜ、いつから準備していたというのだ。

「台本の読み合わせはシナリオの書き直しの都合上だいぶ遅れるらしいから、それまでの間だけだ。三拝九拝!よろしく頼む」
 
 斑が女の手をそっと引いて、そのまま立ち上がらせた。ぐっと逞しい腕で腰を支えられ、逃げることも出来ない。間接照明しか灯っていないぼんやりとまどろむような灯りが局所的に照らす光の中、斑の緑色の瞳が恍惚と瞬いた気がした。

「そうだなあ。まずはこんな時間まで仕事をしていた奥さんを思い切り労ってやりたい」

 腕の力がまた強くなって、苦しさから小さく呻いた瞬間、ふと微かに香っていた斑の香水がまたふわりと香った。
 彼が動いて、近づいてきたのだ。

「やめ、……!」

 彼女の制止の言葉など、彼の耳に入ることすらなかっただろう。驚きのあまり反射的に開いた、彼女の僅かな唇の隙間にぴったりと合わせるように、斑の唇が重なった。どうしていいか分からずギュッと目を閉じれば、斑のどこか楽しそうな空気が伝わってきて、更に背筋が冷たくなる。
 ちゅ、と耳にへばりつくような音を何度かさせながら唇を吸われ、甘く噛まれ、唇で挟まれる。最後に舌先で唇を舐められたので思い切り口を閉じた。その先に、捕食される恐怖を感じたのである。

「……おかえりのキスでさすがにそこまでしたら、夕飯や風呂どころじゃなくなりそうだなあ」

 先ほどよりもずっと熱っぽい声で、熱っぽい吐息で、斑が言った。まだ近い互いの身体。全身で感じる激しい心拍の音は、自分の恐怖から来る自分の心音なのか、それとも斑の心音なのか、判断がつかなかった。

「お帰り奥さん。お仕事がんばったなあ。さあ、夕飯にしよう」

 うっとりとした彼の声だけは、本当に新婚の夫のようである。




[prev][next]
[Back]

Copyright (C) 2016 PB All Rights Reserved.