TOP > 更新履歴 > 記事 斑と新婚ごっこ・2 2024/03/19 20:00 奇妙な生活だった。 朝起きて彼の為に朝食を作る日もあれば、斑の方が早く起きて朝食を作ってくれる上に、おはようと優しい声で起こされる日もあった。朝食を食べながらその日の仕事のスケジュールを簡単に聞いて、朝の情報番組で流れる天気の話やニュースの話をポツポツとして、斑が出かける時には玄関先まで見送りに行き、そこで必ず一度キスを交わした。 その後重く、何度も鳴る扉を施錠する音を聞きながら部屋に戻り、以前とほぼ同じような仕事をリモートで始める。食料は買いに行く必要がないほど常にあったし、そのマンションのリビングは陽がよく入る部屋だった。簡単に家事をしてから仕事する用にと与えられたフローリング張りの部屋にコーヒーを持って入れば、スマホが鳴った。 『今から雑誌撮影入ります』 これはアイドル三毛縞斑として、ニューディの事務員に送るメッセージだ。彼女も無難に『わかりました。頑張って』と返事し、スマホを閉じる。 しかしその直後、またスマホがパソコンデスクの上で震えた。シンとした部屋の中、バイブレーションの音がまるで窓ガラスでも割ったかのような衝撃に思えて反射的に身体をビクリと震わせれば、また斑からのメッセージだった。 『今日は早く帰れるかもしれない。お土産楽しみにしててくれ』 これには、少し考えてからこう送った。 『わかった、楽しみにしてるね。帰ってきてくれるの待ってる』 ここへ連れてこられて夜な夜な泣くのを堪えて考えた答えは、出来るだけ彼に従って、満足してもらえれば帰してもらえるのではないか。というものだった。 斑の強い意志が籠もった緑色の視線をふと思い出すと、サッと指先が冷たくなる。 突如始まった新婚ごっこというのは名ばかりの監禁は、彼女がいくら逃げようともがいても、出してもらおうと足掻いても、頑健な三毛縞斑そのもののように強固だった。 何度も色んな人に助けてほしいとメールを送っても仕事の人には「少し付き合ってあげてほしい」と言われた。内容までわかっておらず、ただ期間限定の同居でもしているのだろう。その程度の認識なのだろうか、否、それだっておかしな話なのに。誰かに助けを求めれば求めるほど、混乱するだけだったのでやめた。 友人や親には、言えなかった。まさかアイドルの三毛縞斑に監禁されてるなんて言えない。何より彼女はアイドル三毛縞斑が好きで、こんな状態でも応援したいと思ってしまう程度にはアイドルとしての彼を信じていた。 「えっと……こはくくんのスケジュール確認かぁ」 コズプロの担当者に送ったメールが来るまで少し時間が空いたので、コーヒーのお代わりを淹れに席を立った。キッチンでお湯を沸かす間、緩く襟首が開いた自分の姿が小さな鏡に映った。鎖骨の下がポツンと赤くなっている。 「ん?……!」 よく見なくてもわかった。知らない間にキスマークを付けられているのだ。誰が見る訳でもないのに慌てて服を着替え、襟元が詰まったものを着る。それでなんとなく蓋をした気分になって、ホッと胸を撫で下ろした。 一昨日自分が言った言葉のせいだろうか。とその言葉を反芻した。キスはもう諦めた、というよりやたらと上手い斑に本能が流されてしまった部分が大きいものの、更にその先まではどうしても踏み込めないと言えば、斑は「初めてなのか?」とあけすけに聞いてきた。突如カッと全身が熱くなる。 「そういう問題じゃないでしょ?ていうか、私彼氏いたことあるもの。この答えで納得して」 そう言った瞬間、思い切り頭を掴まれて今度は深いキスをされた、思わず「んっ、」と鳴った喉の奥に彼の唾液が伝っていった。味なんてしない、わからない。 「まぁ、別に処女でもそうじゃなくても最後の男が俺ならそれでいい」 自嘲気味に言った言葉。それにしたって、酷い言葉だ。我慢できなくて、彼女は怒りのままに立ち上がった。 「ねぇ、これ新婚のロールプレイなんでしょ?!本当に奥さん出来た時にそんな事聞くつもり?!」 そんな事言う旦那、絶対嫌なんだけど!と声を荒立てれば、音もなく斑が立ち上がった。かなりある身長差のせいで、ギク、と身体が縮こまる。殴られたら、どうしよう。 すっと彼の手が動き、思い切り目を閉じた。彼が格闘技に精通している事はよく知っている。怖い。 するとそっと大きな手が頭に置かれ、ぽんぽんと撫でられた。そのまま、また思い切り抱きしめられる。 「悪い、ただの嫉妬だ。君の事を俺より知っている男がこの世にいたことに、ちょっと苛立っただけなんだ」 そのまま斑は身体を丸めて、彼女の肩口に頭を埋めるようにしてきた。微かに耳たぶを甘噛みしたり、じゃれる程度に首筋を噛んできたりする。 野生動物みたいな甘え方に、絆されている事を自覚しつつも彼女も身体の力を抜いた。ため息を引いて恐る恐る彼の頭をやってもらったようにぽんぽんと撫でれば、甘えるように擦り寄ってくる。 彼の真意が見えなかったけれど、とにかく彼女はその場を納めたいという自分の気持ちに従うしかなかったのだ。 服を着替えたおかげで見えなくなったとはいえ、ありありと残るキスマークに彼女はモヤモヤとした思いを消化出来ずにいた。外側からしか掛けられない鍵を何個も付けているこの部屋から出られないのに、独占欲の象徴とも言うべきキスマークを一体誰の為に、何の為に付けたのだろうと考える。彼の思う新婚夫婦像が、全く理解できない。 自分の持ち物に名前を書いて、満足したつもりでいるのだろうか。そこに愛情はあるのだろうか。何もかもが不透明である。 唯一わかっている事といえば、彼がお土産を買って夜帰ってきたら、ちゃんとお帰りなさいを言わないといけない。離れていて寂しかったと言うであろう斑に、自分もだと同意しなければいけないことだけである。 [prev][next] [Back] |