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日和と会員バーデート
2024/03/19 20:19

 カツン!と強く鳴ったヒールの音は誰が鳴らしたか、なんて聞くまでもなく私である。いつもより高めの細いヒールで大理石の床をしたたかに鳴らしてしまい、慌てた次の一歩で思わずよろけてしまった。

「大丈夫?」
「だ、だいじょぶ」

 隣にいた日和くんがサッと背中を支えてくれたので事なきを得たけれど、もし転んだら自分の恥はともかくいつもと一つ桁の違う値段のワンピースにご迷惑がかかりそうで私は背筋を冷たくした。

「もう、いつもよりうんとおしゃれしてるんだから、所作にも気をつけてほしいね!」
「いやほんと……その通り」

 直通エレベーターの前で恭しく礼をするボーイさんに軽く礼をしながらエレベーターに乗って私たちはホテルの最上階を目指す。今日の目的地はその先にある、いわゆる会員制のバーである。さすがは巴財団の次男坊というかなんというか、普段298円の中ジョッキビールを飲んでいる私からしたら異空間の入り口がぽっかりと口を開けているようにしか見えなくて、ワンピースの背中のジッパーに沿って冷や汗が流れた。

「き、緊張する」
「どうして?」

 思わず漏れた私の弱音に、日和くんは大きな目をさらに大きくして驚いた。

「だって普段こんな高級な所私一人じゃ来れないもの。いや、すごく嬉しいんだけど……お酒の味わかるかな」
「そんなこと気にしてるのかね?ぼくたちは二人で楽しくお酒を楽しみに来たんだから、周りなんて気にする必要はないね。今日の服だってドレスコードはもちろんだけどきみがもっと可愛くなるようにプレゼントしただけなんだから、それを着こなせるのは私だけ!くらい自信満々に着てる姿がぼくは見たいね」
「……そうだね。ありがとう」
「素直な子は大好きだね!」

 うんうん!と満足そうに頷いて、日和くんはそっと肩を抱いてくれた。彼は確かに典型的なおぼっちゃまだけど、たまにこうして物事の本質を突く事をサラリと言ってのける。確かに今日は彼の主演映画が大ヒットしたお祝いも兼ねて二人で楽しくお酒を飲みに来たのだから、私がそれ以前の段階で縮こまってたら楽しめるものも楽しめなくなってしまう。ちょっと背筋を伸ばして、私は彼に笑顔を向けた。

「日和くんの言う通りだね。私も今日楽しみにしてたの。もっとリラックスしないとね」
「いつものかわいい笑顔ありがとう。きみはそうしてる方がずーっと素敵だね」
「あ、あはは」

 日和くんのテンションも上がってるのだろうか。なんだかいつもより空気が甘ったるい気がしてちょっと恥ずかしい。大理石の床から一転、高そうな絨毯敷きになった床のお陰でうっかりとヒールが高い音を立てなくて済んだ。


 さすがの会員制バーである。なんて、そもそも会員制バーなんて来たこともないくせに感嘆の息を吐いてしまった。客達はお互いのことなど一切干渉しないような態度で、その隙間を縫うようにバーテンダーの人が静々とお酒を勧めている。微かに鳴る穏やかなBGMといい、重厚な雰囲気といい、窓の外の恐ろしく美しい夜景といい、全てに目が眩みそうな私を他所にさっさと席に通された私たちは、早速注文を選ぶ。

「何がいい?多分言えばなんでも作ってくれるね」

 普段はあまりカクテルを飲まない私だけれど、こんなおしゃれなバーに来たなら折角なら味わいたい。私はバーテンダーの人に「オレンジジュースを使った、スッキリしたものを」と頼むとオレンジ・ブロッサムを勧めてくれたので、それを頼むことにした。

「日和くんは?」
「ん〜、ぼくもカクテルにしようかね。……あっ、そうだ」

 何かを思いついたようにパッと目を開くと、日和くんはバーテンダーさんに

「ブラッディ・メアリーって作れる?」
と聞いていた。バーテンダーさんは恭しく礼をする。

「え、ブラッディ・メアリー?トマトジュース使ってるけど大丈夫?」
「そうなの?この前たまたま教えてもらったね。ぼくのお姫さまと同じ名前のカクテルがあるって」
「あぁ、メアリちゃん……」

 実際に会ったのは一、二度しかないけれど、写真ではよく見かける日和くんの飼い犬だ。かわいい小さなわんちゃんなのに随分と格式高そうな、というか荘厳なというか大分センスが偏った名前をつけられたものだと思っていた。

「一度飲んでみたいと思っていたからちょうどいいね」
「ハマる人はハマる思う。私も結構好きかも」
「きみ、結構お酒詳しいよね。バーなんて誰と行ってたの?」
「心配しなくても女友達とかだよ」

 あいにくとそんなにモテるタイプではない。けれど彼の飼い犬同様お姫さま気質のこの人は、私の中で自分が一番でなければ気が済まないのだ。

「ほんと?」
「ほんとほんと」

 そんな不毛な押し問答をしていると、綺麗なグラスに色鮮やかなカクテルがテーブルに静かに置かれた。そこでようやく会話が仕切り直された。

「日和くん映画の主演お疲れさまでした。乾杯」
「ありがとう。乾杯」

 グラスを合わせる仕草だけして、カクテルを口に運ぶ。オレンジジュースの甘酸っぱさとジンの爽やかな口当たりがちょうど舌が求めていたものに近くて、バーテンダーさんに「おいしいです」と伝えると、カウンターの向こうでにこりと笑ってくれた。

「……ん、少しピリッとするね。これ」
「おいしい?」
「うん」

 次私もそれにしようかな。などと考えながら、自分のカクテルに口を付けていると、日和くんが機嫌良さそうに笑った。

「なぁに?どうしたの?メアリちゃんそんなに気に入った?」
「ふふ、うん。それもあるけどね。今日はいい夜だから」

 思えばこうしてゆっくり二人の時間を持てたのは久しぶりである。会えても家で数時間程度だった。こうしておしゃれをしておしゃれなお酒を飲んで、おしゃれな時間を過ごせることを、私も心の底から楽しみにしていた。

「素敵なところに連れてきてくれてありがとう」

 思ったままそう言えば、日和くんはやはり機嫌良さそうに頷いて、またグラスを傾けた。珍しく今日は彼も少しペースが早い気がする。

「一杯でベロベロにならないでね。私まだ飲みたい」
「ならないね。ぼくにとってはこの後の時間もとっても重要なの。失敗するわけにはいかないね」
「え、」

 場所、時間、タイミング。思い当たることが多すぎて逆に察することが出来ない私を他所に、日和くんがチラと流すように私を見た。微かに赤い目元の色気に負けそうになるのを、どうにかカクテルで中和しようとしたけれどそんなこと出来なくて、思わずテーブル上で彼が重ねてきた手の熱さに心臓を跳ねさせる。

 トマトジュースのように深く底が見えなくて、ウォッカのように溺れるような夜を察して、私はその視線に応えた。



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