TOP > 更新履歴 > 記事 一彩がまっすぐに歪む 2024/08/09 23:10 この気持ちが恋という感情で、それは決して間違ったものではないということは理解できた。アイドルという自身の生におけるかけがえの無いものを手に入れた幸福はもちろんのこと、彼女の存在は一彩をまた一つ強くしてくれたのは間違いないのである。 ただ、最近どうにもその澄み切った思考に靄が掛かるようになった。職業上彼女との関係は一切他者に漏らさない方がいいことも理解しているが、一彩は時折なんとも形容し難い獰猛な感情に襲われることが増えた。それは彼女と二人でいる時にも呼び起こされる事が多くて余計に頭を抱える。 自分は紛れもなく彼女に恋をしている。それはわかる。しかしこの拳を握り締めたくなるような感情はなんなのだろうかと、それがどうしてもわからなかった。彼女には聞けなかった。折角互いに時間の隙間を見つけて会っているというのに、そんな事を聞いたら怒らせてしまうかもしれない。そう思うと聞けないのに、彼女がふとスマホを見る時や一彩の知らない人間と一彩が知らない場所に行った話をされると、瞬時にまた思考に靄がかかる。 「一彩くん?どうしたの?」 「なんでもないよ!」 それでね。と、彼女は久しぶりに二人きりで会えた大切な時間に、他の人間とこの前ショッピングモールに行った話を続ける。新しくブックカバーを買ったのだと笑う彼女の笑顔は確かに一彩の好きなものの一つだ。 けれどまた、自分の中の靄が一段濃くなった気がした。 「そりゃ弟クン、嫉妬じゃねェの?」 それから数日、一彩は未だ心を晴らす事が出来ないまま日々を過ごしていた。彼女と会えるのはまた数週間後で、それに反比例するように仕事は増えていく。アイドルの仕事が増えると一彩自身も満ち足りることが出来るので楽しみではあるが、彼女のことをふと考えると満ちているはずの心がビリビリと痺れる。それが良くない事なのか否かすらわからなくて、一彩は偶然見かけた兄の燐音を文字通り捕まえて聞いてみた。彼にとって兄は法の書で、百科辞典で、世界地図なのである。 弟に恋人がいる事実をさりげなく知ることになった燐音は一度じっと一彩を見てから、都会に来てからよくする軽い口調で、いつものように答えをくれた。 「嫉妬?」 「……兄弟でするにはちょっと恥ずいなこの話題……まァいいや。要は彼女がおまえ以外の人間の話をするのが嫌なんだろ?それだけ彼女のこと好きってことじゃねェの?」 「なるほど、さすがは兄さんだよ。どうもありがとう」 ていうか弟クンのカノジョって藍ちゃんじゃねェんだ!と藍良が聞いたら怒り出しそうな軽口を添えてから、兄は一彩の頭を一度撫でて去っていった。 「そうか、そうか……。じゃあこの怒りのような、似て非なる感情は、好きな人がいるのなら間違ってはいないんだね」 彼女が楽しそうに話す他人の話。それがたとえ男ではなく彼女の女友達であったとしても、あの時一彩は彼女の口を文字通り力ずくで塞いでそれを封じたくなってしまった。その記憶を消してしまいたい、彼女と時間を共有した自分以外の人間を殺してしまいたくなる凶暴な感情は、恋をしている者なら持って当然で、それは彼女が好きである証明にもなるということだろう。 ふとスマホを開くと、彼女からメッセージが入っていた。この前遊びに行った際に家にピアスを忘れてしまっていたらしくて、それを教えてくれた内容だった。 少し時間をかけて、一彩はそれに返事をした。今日の夜取りに行く事を提案し、彼女も了承してくれた。互いに次の日は仕事や学校があるので長い時間一緒にいる事は出来ないけれど燐音のおかげで靄は取り去る事が出来たので、一彩の視界は一気に晴れていた。本日も快晴である。 「おじゃまするよ」 「あ、いらっしゃい。ごめんね私も全然気づかなくて」 夜彼女の家へ行くと、彼女は軽食を用意してくれていた。それを軽く食べてからピアスを受け取る。幼い頃から空いてるピアスホールは数日ピアスをしなかったくらいで塞がる事はないが、穴が埋まるとなんとなく落ち着いた。心に空いていた僅かな穴も埋めることが出来た。これは燐音のおかげは勿論のこと、自分の中で辻褄が合った事が何より大きかった。 恋をしているなら相手が好きであればあるほど、他者を寄せ付けたくなくて感情が凶暴になる事だってある。考えれば当然の事だった。折角狩りで得た獲物を突然誰かに横取りされて、その者に殺意を抱かない人などいないではないか。獲物がないと生きていけないのなら、横取りした者を殺す事だって時代が許すなら厭わないだろう。 同じような事だ。一彩は彼女を他の人間に取られるわけにはいかないのだから、殺意を抱いて当然なのである。 「……一彩くん?」 どうしたの?といつものように一彩の瞳を覗き込んでくる彼女が不意に愛おしくなって、思わず思い切り抱きしめた。腕の中で小さな悲鳴をあげた彼女を一度強い力で抱きしめてから開放すると、驚いた顔をした彼女と目が合った。瞳は喫驚を示しているけれど、頬に差した熱は自惚れでないのだとしたら、一彩と彼女の感情がピタリと重なっている証拠に他ならないだろう。 「ごめんよ。なんだか嬉しくなってしまって」 「え?え?なんかいいことあったの?」 教えて。と彼女が無邪気に聞いてくれた。彼女も自分と同じ感情を抱いてくれているのなら、きっと一彩の思いに共感してくれるに、違いない。 [prev][next] [Back] |