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紅郎が助けてくれる
2025/06/03 23:29

 ESビル。あまりの大きさゆえに沢山の人が働くこの場所は、相応に色んな人がいるものである。

「あ、ようやく会えた」

 ESの休憩所にて、この声にピンと来たので正直振り向きたくなかったが無視をする勇気はなかった。一気に気持ちを暗くしながら相手の方を見ると、案の定私が予想した通りの人だった。所属している事務所も違ければ担当している仕事も違うその人に、以前社員食堂で突然相席を求められた時、席が空いてないのを不憫に思って了承してしまったのだ。その際ただ食事を黙々摂ればいい所を随分と話かけられた所で不審に思ったけれどもう遅かった。

「お、お疲れさまです……」
「やっぱ連絡先知らないと会うって難しいよね」

 いや、私はあなたに会う理由なんてない。と思いながらなんとなく仕事で急いでいる風を装おうとしたけれど、通り過ぎようとしたら相手の体で遮られた。それで一気に恐怖感が増す。全身に鳥肌が立って、背中を向けて走って逃げたくなるけれど、体が動かない。

「今日は仕事いつ終わるの?定時?」
「い、いえ……」
「残業あるの?大変だねリズリンって。そういう所まだ古いよねそっち」
「そんなことは……」

 早くこの場から立ち去りたいのに、振り切ることが出来ない。どうしたらいいかわからなくて困っていると、ふとぽん、と肩を叩かれた。反射的にビクッと反応して振り向くと、そこには鬼龍くんが無表情で立っていた。

「あ、鬼龍、くん」

 少し震える声で彼の名前を呼ぶと、鬼龍くんは一度私をちらりと見てから、丁寧な敬語で話し始めた。

「お疲れさまです、お話中にすみません。彼女に急用なんですけど、今いいですか?」
「え?」
「あ、も、もちろん」

 そこでようやく私は金縛りが解けたように息ができた。目の前の人に「すみません事務所でトラブルみたいです」と告げると、彼の返答を待たずに鬼龍くんと一緒に小走りで休憩所を抜ける。いいタイミングで来たエレベーターに乗り込みリズリンの事務所がある階数を押す。二人きりの静かなエレベーターの中、ようやく私は息を深く吐いた。鬼龍くんが急用というのだから紅月に関するトラブルが起きたのだろうけれど、正直呼び出されて心底ホッとしている。

「大丈夫か?」

 すると鬼龍くんがそっと話しかけてきた。私が明らかにホッとしたのを感じ取ったのだろうか。トラブルが起きているという状況なのに相談者が気を抜いているなんて、鬼龍くんからしたら不審な行動に他ならない。

「あ、ごめんね。急用って何……」

 そこで急に、鬼龍くんが急にエレベーターの操作盤に手を伸ばして次の階のボタンを押した。そこは会議室のフロアである。

「会議室?どうかしたの?」

 鬼龍くんが無言で開いたドアからエレベーターを降りたので付いて行き、廊下の隅にある小さな休憩スペースへと入った。自販機の前に立った彼がジュースを二本買うと、一本を私に渡してベンチに座る。そこでようやく気がついた。彼はあの場から私を助けてくれたのだ。

「あ、」
「嫌がっているように見えたから思わず連れ出しちまったけどよ、余計な世話だったか?」

 私は思い切り首を横に振った。そんなわけない。彼が来てくれなかったら、振り切ることが出来なかった。

「そうだよな。遠くから見ても怖がってるのわかったから」
「……たまたま前に相席してもいいか聞かれて、席がないんだろうと思って了承したら、その、」
「つきまとわれているのか」
「そこまでじゃない、と思うんだけど」

 正直、私の定時を知られているようで怖い。明確にストーキングされているわけではないけれどいずれそうならないか心配である。
 すると鬼龍くんが周囲を一応、といった感じに見回してから、そっと手を握ってくれた。

 最近知った、『紅郎くん』の大きくて温かい手に思わず涙が滲みそうになる。

「悪いな。肝心な時に守ってやれねぇ」
「ううん、そんなことない。今日のも気づいてくれて嬉しかった」
「今日は俺衣装部屋にこもるつもりだったからよ、多少時間あるんだ。帰り、送ろうか」
「大丈夫。同期も残業って言ってたから、その子と帰るよ」

 彼の手をこっそり握り返しながら言うと、紅郎くんは歯がゆそうに目を細めた。彼はアイドルで、私はなんの変哲もない一般人だ。どこで妙な噂が立つとも限らない行為はしないに限る。もちろん今の状況だって決して褒められた状況ではないけれど、私が困っていることを的確に見抜いて、事を荒立てずに助けてくれた紅郎くんの気持ちを踏みにじりたくなかった。

「帰り、家に着いたら連絡くれるか?心配だから」
「ありがとう。絶対する」
「悪いな。本当ならあんなやつ近づけないようにしてやりてぇのに」
「大丈夫大丈夫。今日は怖くて足が動かなかったけど、さっき紅郎くんが守ってくれたこと思い出したら次はサラッと躱せそう」

 任せて。と自然に頬を緩ませながら彼の顔を見れば、ようやく安心したような顔を見せてくれた。ぱっと見は無愛想なイメージの紅郎くんが、気を許してくれているような表情で私は一気に嬉しくなる。

「何か困ったらすぐ言えよ。彼氏……としてはここではあまり役に立たねぇかもしれねぇけど」
「紅郎くんがいてくれるってだけで充分心の支えだから、大丈夫。本当にありがとうね」

 そっと繋いだ手の指を絡めれば、紅郎くんが「あ〜……、」と低く唸って頭を抱えた。小さく「紅郎くん?」と名前を呼ぶと、彼はその大きな手で口元を隠しながら、赤い目元もそのままに絞り出すように言った。

「ほんと、かわいいな」
「えっ」
「すきだ」
「わ、私も!」

 ここが職場なのが本当に悔やまれる。誰の目も触れない場所ならば、彼の大きな身体に思い切り抱きつけたのに。
 そんな事を思いながら、彼の手を離して私は事務所のスタッフ、彼はアイドルに戻る。戻るけど、あんなに怖かったあの時間も彼のことを考えるだけですっかり存在自体忘れてしまうのだ。私も大概、現金な女である。



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