TOP > 更新履歴 > 記事 凛月は諦めなかった 2025/06/03 23:35 「えっ、ピアノ?」 客席の前の方のお客さんがそう呟いた気がした。照明が落ちたライブ会場は、前方のステージでただ何かが動いているような、大きな物を動かしているような微かな音しかしなくて、微かな照明の中、一番前のお客さんだけはスタッフが何か動かしているのが見えたのだろう。 私はその様子を客席で、何が起こるのか楽しみにしているファンの内の一人として見守る。少しざわつく場内は蒸し暑くて、背中を汗が一筋伝っては滑って落ちた。周りを見ると、ファンの子達それぞれが自分の大好きなアイドルの為に着飾った空間で、対して私はなんてことないカットソーとスカートである。Knightsのモチーフもイメージからも何もない色の服を着て、誰とも話をせず一人ぽつんと立っている。 そもそも本来はライブに来るつもりはなかったのだ。自力で取った座席は急遽行けなくなったのだと言って友人に渡したのに、今私は一番端の端、機材に近い席でひっそりと立っている。 『一席空いたから来て。ぜったいだよ。ポスト見て』 今朝凛月くんから来ていたメッセージを見てから家のポストを覗くと、今日のライブのチケットが何のメモも無くそのまま入っていた。機材席A-1と書かれたそこは、きっとギリギリで空いた場所なのだろうか。それとも彼がわがままを言って空けてくれたのかはわからない。 もうそれだけで、私はポストの前で泣きそうになった。 やがてステージの照明がついた。にわかに場内がざわめき、そのざわめきは前の5人に向かって波のように押し寄せていく。ステージ後方の段差に腰掛けた瀬名くん、月永くん、鳴上くん、朱桜くん。 凛月くんは、ピアノの前に座っていた。それだけでファンは全てを察して、沸き立った。彼の指がそれは美しい旋律を奏でることをファンは知っているのだ。 もちろん、私だって知っている。優しく囁くような歌声と同じ、彼の指先はどこまでも優しい音を弾くのだ。やがて、凛月くんが機嫌よさそうに声を弾ませながら言った。 「ねぇ、今日は俺の誕生日だって知ってる?」 知ってる〜!という声が場内に響く。私だって知っている。知っているから、今日私はここに来る事を一度は諦めたのに、彼のお願いに乗った。 「だから今日は俺から逆サプライズ。Knightsのみんなに手伝ってもらって、いつもと少し雰囲気を変えて届けるよ」 ぽーん、とピアノの音が一音だけ響いた。 「聴いてね。Mystic Fragrance」 ピアノ伴奏と共に、かつて凛月くんの誕生日に発売された新曲の前奏がピアノアレンジで場内にさざ波を打ち始める。リラックスしたような表情の4人は段差に座って、一人は優しく鍵盤をなぞって、緩やかにその曲は始まった。 「あんたが好きなの」 そう言われて、頷いて私もだと笑う、そんな度胸が私にもあればよかったのだ。勢いをつけて飛び込んで、彼に私も同じ気持ちだと伝えて、大丈夫だと笑って言えればよかった。でも、私の中にはそんな度胸も覚悟も育ってなかったのだ。私がほんの少し間違えただけで、彼の人生の天秤が傾いてしまうのが怖かった。 そこで私はひどい事を言った。彼に『一人の人間』としてではなく『一人のアイドル』であることを求めたのだ。 「ごめん。ごめんね……」 そう言って泣いた。それが返事だとでも言わんばかりに勝手に泣いて、自分一人が苦しいとでも言わんばかりの反応を返した。正確には覚悟が足りない自分が情けなくての謝罪だったけれど、そんなもの届くわけもないし、自分勝手にもほどがある。 「そっか、ごめんね。俺もごめん。泣かないで」 そう言って、綺麗な細い指は私の頭を撫でた。あのいつだって自然体な凛月くんの指先が震えていたのが、今でも忘れられない。 Knightsが数年前、凛月くんの誕生日に発売したこの曲は、普段ファンであるお姫様たちに捧げるような愛の歌をよく歌う彼らが、珍しくたった一人のあなたが欲しいと明確に歌詞に載せた歌だった。鳴上くんがセンターで、香水とタイアップされた、恋をした人の心情を優雅にかつ強く歌った曲だ。好きな人に振り向いて欲しい。その為には誰よりも美しく輝くのだと応援してくれるような曲で、沢山の恋する人たちを励ましたと思う。 「あれ、歌割り違くない?」 近くにいたファンの子が呟いた。ピアノが伴奏になったことによって変えているのかと思ったら、一人で歌うべき場所が二人になっていたりと原曲と少し違う歌割りになっている。 ───振り向かせたい、たった一人だけを。 この歌詞を、本来は歌わないはずの凛月くんも歌った。 もちろんそれは、ファンに向けたものだろう。誕生日の逆サプライズとして、凛月くんがファンに届けたいからと歌ったものだ。わかっている。わかっているけれど、私は涙が止まらなくなった。 あの時彼が、どれだけの覚悟とどれだけの勇気を持って好きだと言ってくれたか、わかった気がした。私なんかより彼の方がずっと、自分の立場をわかっていたはずだ。だけどそれを承知した上で凛月くんは私に好きだと言ってくれたのに、私はそれを自分の覚悟が足りないとそれこそ勝手に諦めた。 こんなにも凛月くんのことが好きなのに、馬鹿な話だ。 『ねぇ、伝わった?』 その夜凛月くんからこんなメッセージが来た。ライブも終わって、一呼吸置いた深夜2時の事だ。 『伝わったよ』 指先が震えたけれど必死にそれを抑えながら、返信をする。その直後にすぐ着信が入る。凛月くんだった。 「もしもし?」 「凛月くん?」 「ふふ、俺だよ〜」 ライブお疲れ様。と伝えると、興奮がまだ冷めやらないのか、いつもより弾んだ声が返ってきた。元々この時間が彼の領分だからかもしれない。 しかし唐突に、凛月くんが言った。 「あのさ、褒めて」 「え?」 「俺ね、朝苦手なのに必死に早起きして、あんたの家行ってチケットポストに入れたの。ライブ会場近いけど、頑張ったんだよ」 朝でふらふらなはずなのに、それでもわざわざ私の家に寄ってくれたのだ。そう思っただけでもう涙が溢れてきた。ポロポロこぼれるそれが、電話越しだと見えなくてよかった。 「……泣いてる?」 「泣いてない」 「泣いてるよ。どうして?」 くぐもった声が恥ずかしくて我慢しようとして、しゃくりを上げてしまった。疲れているはずなのに、凛月くんは囁くような声で「よしよし」と言ってくれる。あの時の彼が震える指で頭を撫でてくれたことを思い出して、いよいよ涙が止まらなくなる。 「泣かせてるの俺だよね。ごめんね」 「ちがうよ、勝手に泣いてるの。自分が情けなくて泣いてるの」 「泣かないで」 よしよし。とまた声で撫でてくれる。彼の勇気に、私も触れようと思った。彼の優しさに押されてだけど、震える足でなんとか立ち上がるように、息を吸った。 「私、自分が恥ずかしい。凛月くんが色んな覚悟を飲み込んで、それでも私に言ってくれた言葉をね、勝手に怖がって遠ざけたの。本当にごめんなさい」 「……まぁ、あんたならそう言うかなって思ったからいいよ」 「よくないの。だって私、自分の気持ち言ってない」 凛月くんが微かに息を飲んだ音が、電話越しに聞こえた気がした。私はぐっと唇を強く噛んでから、本当は伝えたかった言葉を、あの時の彼からのメッセージの返事として言葉にした。 「あのね凛月くん、私も好きなの。あなたの事大好きなの」 しばらくして、凛月くんが震える声で「会いたいな」と呟いた。 私も。と笑ってから、時計を見る。時刻は深夜の3時。彼の誕生日はとっくに終わってた。 来年はきっと、当日に伝えたい。 [prev][next] [Back] |