TOP > 更新履歴 > 記事 零の糸が切れる 2025/06/03 23:35 零くんは、時々ぷつんと糸が切れる。 「…すまぬ。ちょっと出てくる」 「うん。いってらっしゃい」 待ってるね。という言葉は恐らく届かなかっただろう。外は微かに細い雨が降っているのに、1人ふらりと外へ出て行ってしまった。 色々なことに歯を食いしばって色々なものを守っている彼は、たまにこうして緊張の糸がぷつんと切れる。そういう時、彼は突然思い立ったように家を出て、ふらふらとあちこち歩き回りに行くのだ。 私に出来ることといえば、帰ってくる時間を予測してそのくらいの時間に合わせてお風呂の準備をしたり、温かい紅茶を用意しておくことくらいだ。きっと帰ってくるのは1時間後くらいだろうなと予測を立てて、それまでは私も頭の片隅で彼を心配しながらも1人の時間を過ごすしかないのである。 私は読みかけの本を開いて彼を待つ事にした。必ず帰ってくることを知っているので、こうして彼のいない時間を埋めて待つことが出来るのである。 「傘、持ってったのかな」 外は次第に雨音が大きくなってきた。私は玄関まで行って、傘立てを見る。彼は来た時傘を持っていなかったはずで、傘立てには私が普段使う傘と何かの拍子に買ったビニール傘が一本差してある。 「持っていかなかったんだ…」 窓のない玄関でも、雨の音が近い。土砂降り、とまではいかなくても、全身びしょ濡れになるくらいの雨だ。私は無意識に傘を二本持って外に出た。迎えに行こうと、頭が反射的に考えたのだ。 雨はしとしととリズムよく地面を叩いている。道路のアスファルトはすっかり色を濃くして、水たまりにはしきりに波紋が広がっては消えていた。私は玄関を出た所で、はたと考える。 「どうしよう…」 基本、糸の切れた零くんは追わないようにしている。こうやって遊びに来ていたのは彼の方だというのに突然家を出て行くのは甘えの一種、だと思っているからだ。逃げたくなるような場面で逃げずに歯を食いしばって生きている彼の唯一の我儘がこれなのである。でも風邪を引いてしまったら本末転倒だ。あぁでも彼の時間を邪魔していいのだろうか。私の心配は、どちらかというとそっちに比重が傾く。 私はマンション玄関前で右往左往しながら彼が帰ってくるんじゃないかと期待して少し待ってみたけれど、帰ってくる気配はない。 「もし嫌がられたら、傘渡して帰ってこよう」 そう決心すると、私は家を飛び出した。彼はどこへ行くか言わないから全部勘で探していくしかない。 もしかしたらコンビニで傘くらい買ってるかも。一人で歩きたいって言いながらも、実は駅前のカフェとかでのんびりコーヒーを飲んでるかもしれない。零くんと過ごしている時間はそこまで短くはないけれど、私は彼について知らないことがいっぱい、いっぱいあるのだ。 近所をキョロキョロしながら歩いて、彼を探した。家に帰ってきてる途中で会えたらいいと思っていたけれど、そううまくはいなかないみたいで道路には人の気配すらない。家にいる時は「彼は必ず帰ってくる」と自信を持っていたのに、家を出て肌寒い外に出た瞬間、何故だかその確信すら雨に溶けていってしまっている気がして、私は足を早めた。 「つめた、」 ばしゃ、と水たまりを踏んだことで、うっかりサンダルで出てきてしまった事を思い出す。淡い水色の靴下は親指の先からじわじわと色が濃くなっていた。冷たい。 「寒い…」 家を出た時実はすごく動揺していたのかも、と、身体が冷えてから冷静になる。カーディガンを羽織ってくるのも忘れてしまったことに、今気がついたのだ。 「零く〜ん、零くん」 見知った道なのに、急に心細くなって小さな声で彼を呼んだ。勿論返事はなくて、私はくしゃみを一つする。これでは私も風邪を引いてしまうと思ったけれど、今家に帰っても不安が募るだけだ。とにかく早く見つけようと、再びキョロキョロとしながら道を歩いた。 私の家の近所は、駅の反対側に公園がある。私は駅前を一通り探してから駅を通り抜け、その公園を目指した。ここにいないかな、と淡い期待と、きっといないだろうと既に抱えている落胆を胸に公園の前に着いた時、またくしゃみが出た。それを振り払うように首を振って、傘越しに公園を見ると、屋根の付いたベンチに零くんがいた。驚いたようにこちらを見て立ち上がっている。 「零くん」 「おぬし、どうして…」 私が迎えに来た事が余程予想外だったのか、零くんはぽかんとした表情のまま、ベンチの下で立ち尽くしていた。 「あのね、ごめんね勝手に迎えに来て…邪魔するつもりはないの」 彼が私の顔を見て少しでも嫌そうな顔をしたら、傘を置いて帰ろうと思った。 「だけど、傘持ってってなかったみたいだから。風邪引いちゃうなって…。ごめんね。私戻るから。いつでも待ってるから」 じゃあ。と言って背を向けたら、零くんが「待て!」と叫んだ。思わず振り返ると、彼が雨の中屋根から出てきてこちらに走ってきた。癖のある黒髪は少し湿っているけれど、びしょ濡れではなかった。もしかしたらここで雨宿りをしていたのかもしれない。 「な、なに?傘置いたら帰るよ。大丈夫」 「違う。おぬし足元ドロドロじゃよ」 「あ…」 下を向いて足元を見ると、靴下は泥で汚れ、履いていた部屋着のようなスウェットも裾がドロドロになっていた。サンダル姿であちこち歩き回ったので仕方ないけれど今になって足元が冷た過ぎて痛い事に気がつく。 「うっかりサンダルで出てきちゃったの。あはは…汚いね。傘渡せたし、私帰る」 「…こっちおいで」 彼にそう言われて無視は出来ない。彼一人の時間を邪魔してしまった事を申し訳なく思いつつも近づくと、零くんは私を抱っこするように抱えてベンチに座らせてくれた。 「すまんのう。探してくれたのか」 「ごめんね…。傘ないと、風邪引いちゃうかもって」 「傘を持っていかなかったのは我輩の落ち度なのに…あぁ、足先冷たくなってるのう」 「え?!やだ、汚いからやめて」 気がつくと零くんは私の足元にしゃがみ込み、私のサンダルを脱がせていた。べしゃっとびしょ濡れのサンダルが地面にいくつも足跡を作る。 「我輩の靴貸すから、履いて帰ろう。そのかわり我輩にそのサンダル貸しておくれ」 「えっいいよ!サンダル、小さいし…!」 「サンダルじゃからどうにでもなるじゃろ。あんしんせい。我輩雨が強くなる前にここに来たから靴、結構無事なんじゃよ」 彼はそう言うと自分の靴下を脱いで、私の履いている靴下の上からそれを履かせると自分のスニーカーも履かせて紐をきつく締めた。もちろん彼は素足な上に足に全く合っていない小さいサンダルになってしまって、私は申し訳なさでいっぱいになる。 「ご、ごめんね…余計に手間かけさせちゃった…」 「なんの。おぬしが心配してこんなになるまで探してくれたのが我輩嬉しいぞい」 そろそろ帰ろうと思っていたんじゃよ。一緒に帰ろう。と、彼は手を差し出してくれた。大きなスニーカーの紐を思い切り締めたけれど、それでも零くんの靴は大きくて足を上げるとかかとがずるんとずれる。 「ほら、歩きにくいじゃろ。手を引いてやるから」 「どうしよう。靴下も靴の中も汚しちゃってるかも…ごめんね…」 「我輩が履かせたんじゃし」 傘持ってきてくれてありがとう、と私の頭を撫でてから、彼はビニール傘を手に引っ掛けて、私の差していた傘を空いた方の手にとった。 「傘一つずつ使ったら手ぇ引けないじゃろ。転んじゃうから」 「う、うん」 私たちはでこぼこな出立ちで駅前を通り抜け、温かい家を目指して足を向けたのだった。 「リフレッシュ、出来た?」 「…すまんのう、折角一緒にいたのに」 「いいんだよ。帰って来てくれるって知ってるもん」 水たまりを避けながら、私たちはゆっくりゆっくり歩いて家路に着く。 「自分から出てきてなんなんじゃが…迎えに来てくれたの、すごく嬉しかった。ありがとう」 「いいの」 「また雨が降った時我輩が外に出てたら迎えに来てくれるか?」 「今度はレインブーツ履いてくるね」 早く帰って温かいお風呂に入ろう。と言うと、彼は「一緒にかのう?」と少しおどけて言った。 零くんはたまにぷつんと糸が切れてしまってふらふら家を出て行ってしまう。今まではその糸を彼が一人紡いで切れた部分を繋げていくのを私は遠くから見守るだけだと思っていたけれど、私の手でも紡ぎ直してあげられるんだと知ることの出来た雨の日だった。 [prev][next] [Back] |