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燐音の唇を奪う
2025/06/07 23:41

「結婚するまでキスは出来ねェんだ」

 わざわざピシッと姿勢を正した燐音くんから告げられた、彼と付き合う条件というか、悪いが結婚するまで待って欲しいと頭を下げられた内容がこれだった。彼がどこかの集落の次期君主さまで、その集落の貞操観念は特殊なのだということはなんとか理解出来たし、キスが出来ないから一緒にいることは出来ないなんて言うつもりもない。

 好きな人と触れ合いたいという欲が無いわけではないけれど、実際のところそういうものの経験がほぼ無い私からしたらそれでも今の所困っていないからだ。単にこんなに好きになった人が出来たのが初めてだったからだとは思うけれど、ほとんど知らないのだから必要性を感じていない。それに燐音くんがああやって言ったということは、既に私との結婚まで視野に入っているのかと期待してしまう。

 勿論まだ燐音くんの事をよく知るわけではないので先のことはわからないが、彼の故郷に対する思いとか、育ってきた環境を否定するつもりは毛頭ない。私は滑稽すぎるほど真剣な顔で「いつかしてくれるんだよね?」と念を押したら燐音くんは同じく滑稽なほど真剣な顔で大きく頷いた。今の所、それで満足である。


「……そんなわけ、なかったんだわ」

 目の前で大きな身体をソファに投げ出し、すうすうと無防備に寝息を立てる燐音くんを見て、思わず口からこぼれ落ちた。彼の仕事は不定期なので、家に来てくれる頻度もまちまち。更には本人がアイドルの仕事以外にも色々とやる事が多いみたいでほとんど会えない事も多いが、私は彼の付き合う際の言葉を今の所まだ信じている為、会えないことに駄々をこねるつもりはない。

 ただこれだけは間違いだったと言える。そう、彼と触れ合う事に必要性をそこまで感じない、というそれだ。あの時はまだここまで気持ちが育ってなかったのもあるけれど、あの時に「聞き分けのいい女」を無意識に演じた自分を叩いてやりたくなる。

「……んん、」
「……」

 ソファの上で、小さく唸って器用に寝返りを打った燐音くんが仰向けからこちら向きに横になった。ただでさえ綺麗な作りの顔に、お酒が好きなのに荒れてない肌が羨ましい。私はすーっと視線を彼の額から下にずらし、唇まで落とす。微かに寝息を立ててリラックスした彼の口元は、いつもわざと派手に笑う燐音くんのイメージよりも上品だ。さすがはどこかの集落の君主さまである。

「……」

 私はそっと彼のすぐそばに座り込んで、おもむろに彼の唇を指先で突いた。男性特有の固さを持った身体に反して、唇は不意打ちな程に柔らかい。大丈夫。唇を指先で突くのは決してキスではない。彼の誓いは破られていないと自分の中に言い訳を並べながら、私は人差し指で突くのをやめて、親指で彼の唇を拭うように撫でた。その瞬間、彼が深く息を吐いたので一度慌てて指を離したけれど、起きたわけではないようだ。もう一度親指で彼の唇を押すように撫でながら、私は夢中になった。

 好きな人と一緒に居られればそれでいい。いずれは触れてもらえるのだと完全にそう思っていた自分が馬鹿みたいだ。好きになればなるほど、もっと彼を知りたくなる。その知識欲の中には、触れた感触だって内包しているというのに。

「……りんね、くん」

 私は震える声で彼の名前を呼んで、親指をそっと唇の割れ目に押し入れる。指先に感じる微かな柔さと温かい感触が全身をビリビリと揺さぶった。
 そこからはもう、あまり強く記憶にない。無意識に彼に近づいて、無意識に覆いかぶさって、無意識に唇を重ねた。

「……!」

 重ねるだけのキスを数回してから、私はようやく弾けるように燐音くんの上から退いた。とうとうやってしまったと自覚したのは、燐音くんがまた寝返りを打ってソファの背もたれ側を向いた辺りで、である。

「や、やば、やばいやばい……」

 小さな声で呟きながら、私は混乱もそのままにとりあえず部屋から出て、お風呂場へ向かう。お風呂の扉を閉めて空っぽの浴槽の中にしゃがみ込み、今自分がしでかした大罪に唸り声を上げる。

「やっちゃった〜……」

 我慢出来なかった自分が情けない。眠っている無防備な彼氏の唇を奪うとか、そんなに欲求不満だったっけと手足をジタバタしたくなるのをグッと堪えて私は浴槽の中、自分の唸り声で燐音くんが起きないように口を抑えて叫びたい衝動を逃す。

 ごめんなさい燐音くん。燐音くんの集落の人たち。耐え症の無い彼女でごめんなさい。と心の中で何度も呟いてから、一度深呼吸をして立ち上がる。すると突然お風呂場の扉が開いた。私は大袈裟に身体を跳ねさせる。

「ひゃっ!!」
「何やってンの?」

 目を覚ました燐音くんがキョトンとした顔でこちらを見ている。私は慌てて風呂掃除をしようとしていたと言い訳した。そんなもの、燐音くんが来る前にとっくに済ませていたのに。

「そ、か」
「う、うん」

 贖罪の気持ちが強すぎてしどろもどろになりながらお風呂場から出て行く彼の背中を見ながら、私はもう二度とするまいと拳を強く握ったのだった。


「……無理じゃん!!」

 あれから1ヶ月後の、私の悲鳴である。

結局あれからすっかり彼の唇に味を占めた私は、燐音くんが眠っている時を見計らって勝手にキスをするようになってしまった。大丈夫。燐音くんが知らなければノーカウントだ。私は別にキスをしてはいけない制約なんてないんだし、燐音くんの中でまだキスをした事になっていなければ大丈夫だと気持ちを大きくしながら、最近よくソファで居眠りするようになった燐音くんに覆いかぶさるようになってしまった。

 本当に我慢の効かない自分に嫌気がさすけれど、それよりも自分の欲が勝ってしまって、一度知ったら戻れなくなってしまった。

「燐音くんも燐音くんだもん」

 ソファの上で熟睡する燐音くんの唇をつん、と突きながら、私は勝手に彼に責任転嫁をする。あれからよくソファで居眠りするようになった燐音くん。勿論忙しい中来てくれているのだし、疲れているのだろうから休んで欲しいのも本心だ。それにあのぱっと見は根無草みたいな燐音くんが私の元でこんなに熟睡してくれるのも信頼感を感じてとても嬉しい。

 でも自分のことを好きな女の前でこれだけ無防備な姿を見せるそっちもそっちだと思う。普段から気配に感づくことに長けている人なのに、ど素人の私がこれだけ近づいても起きないのだってずるい。
 寝ている燐音くんにキスをしている間、彼がちょっとでも起きそうな気配を見せてくれたら私だって失敗を恐れてもうしないと思うのに、彼は不思議なくらい目を覚まさないのだ。

「……好きなんだもん。仕方ないじゃん」

 通らないであろう言い訳を呟いて、私は最後にともう一度軽く彼の下唇を吸うと、欲を散らすべく立ち上がり、上着を羽織って玄関を出た。頭を冷やすためにコンビニでお菓子でも買ってこようと思ったのだ。


「……」

 玄関がバタンと閉まり、約10秒後。燐音は静かに目を開け、ソファから起き上がって玄関の方を見た。そっと自分の唇を撫でてから、下唇を指でつまむようにして先ほどの感触を思い出す。
 彼女は知らない。あの一件以来、燐音がわざとソファで熟睡をするフリをするようになったのも、彼女からのキスにすっかり味を占めてしまったのも。

 燐音がキスをしている事実を知らないていでいればいい。そう思っている彼女の言い訳に甘えて、燐音もそれに乗っかる事にした。初めて彼女が燐音にキスをした日、勿論燐音は目を覚ましていた。正確には彼女と唇が重なった瞬間に目が覚めた。何をされてるか瞬時に察し、開きそうになった目を閉じて寝ているふりをする。彼女が何度か重なるだけのキスを繰り返し、そのままそっと部屋を出て行く。耳を澄ませると、くぐもった唸り声が聞こえてきた。多分風呂場にいるのだろうと思ったけれど、燐音だってその場からなかなか動けなかったのだ。

 自身の唇を撫で、彼女のそれと重なった感触を思い出すだけで、本能的にその先を求めそうになる。結婚するまで待たなくてはと、そう教えられてきた。けれど彼女はそういった教育を受けてきた人間ではないのだ。だから仕方ない。そう、仕方ないのだ。

 そう言い訳をして、燐音はわざとソファで眠るようにするのが増えた。そうしているとしばらくして彼女の気配が近づいて、香りが近づいて、温もりが近づく。小さな小さなかわいい声で彼女が燐音の名前を呼び、まずは唇を指でなぞってくる。

 早く。と言いたいのを必死に耐えながら、燐音は今日も寝たふりをする。
 結婚したら毎日この感触が得られるのか。そう思うだけで、彼女に起きているのがバレてしまいそうなほど、体が熱くなった。



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