恋縫初夜
「うーん、相変わらず見事な意匠…」
季節が秋に傾いたからと、忙しい合間を縫って宗がしつらえてくれた大袖を侍女に着付けてもらったなまえは、襟に施された刺繍を見てうっとりと感嘆の息を吐いた。嫁いだばかりの時分のような、互いに互いの事がわからなかった頃のように大量の贈り物をされる事はなくなった代わりに、宗は季節が変わる頃に衣を、あとはたまに小物をくれる程度にまで落ち着いた。どうやら裁縫は彼にとって気分転換として大きな割合を占めるようなので、何かくれる時は笑顔で礼を言うよう決めて、身につけている所を彼に見てもらうようにしている。それだけで宗の機嫌はあっという間によくなるのだから、それにつられてなまえも嬉しくなる。
なまえが宗王の元に嫁いで半年。夫婦の形は良い方向に変わりつつあった。
今回の新作は季節が秋口だからと少し色味の濃い臙脂色の大袖に、金糸で刺繍が施されていた。それに桃色の裳(スカート)を合わせて、大きな姿見の前で一度回ってみる。それから下を向いて襟元を見れば、金糸だけを使ったシンプルな色味であるにも関わらず刺繍が細かいおかげで豪華に見える意匠なことに思わず朝から感動してしまった。金糸は本物の金を使って染めているらしいので、その辺りは王族としての威厳を保てということだろう。
なまえも刺繍は数少ない趣味の一つだった。そもそも庶民の頃は服の直しなどで針を手にすることが非常に多く趣味というよりも生活の一部ではあったものの、黙々と出来る所は気に入っている。けれど宗王のような腕はあいにく持っていなかった。彼は確実になまえよりも忙しいというのに、どんな技を使っているのだと気になってくる。
「陛下、お願いがあります」
気になった好奇心はなまえの中でやがて欲求に変わる。王に並ぶ腕は持てないだろうけれど、少しでも近づけるように教えてもらうことは出来ないだろうかと考えたのだ。
「な、なんだね。言ってみたまえ」
昼食時いきなり切り出したせいで、宗は少したじろいだ。彼の中でなまえが急に何か言い出すことはすっかり警戒すべき事になっている。
「私に刺繍を教えて頂けませんか?勿論お時間が空いた時で構いませんし、ほんの少しでも」
彼の瞳を見てそう言えば、宗は一度ほんの少しだけ気まずそうに目線を反らしてから、マドモアゼルに目配せする。するとマドモアゼルがおずおずと話しだした。
「宗くんは僕でよければって思っているみたいだけど、急にどうしたの?何か欲しいものがあるなら宗くんに頼んでもいいのよ?」
あぁなるほど、そっちの方が頼られているように思うのか。などと思いながらなまえはふるふると首を振った。
「実は私裁縫が趣味なんです。そろそろまた何かやりたいなぁ〜なんて」
「あら、そうだったのね」
「はい。陛下の刺繍の腕があまりに素晴らしいので少し教えてもらえたらって思ったんです」
嫁ぐ時に部屋で裁縫をしてもいいか、ということを侍女を通して伝えた事はあったが、趣味である事は言っていなかったような気がしたので、改めて伝えてみる。仕立て屋以上の腕を持つ宗に言うのは恥ずかしい腕前ではあるのだが、王宮での生活が落ち着いてきたのでまた少し始めて、ゆくゆくは宗に何かお返しを出来れば、と思った。
「そうかね。まぁ、僕でよければ構わないが」
刺繍の腕を褒めた事に宗は気分をよくしたのか、ふふん、と楽しげに笑った。すっかりマドモアゼルを介して話すことを忘れたらしい。
「勿論お時間がある時で構わないのですが…いつでしたら陛下のお体空きますか?」
「そうだね…今は少しだけ忙しいから…」
「あ、でしたらまたの機会で大丈夫です。失礼致しました」
「いや…。だが昼間は長く時間を取れるかわからないから……その、夜、寝る前はどうかね?」
「よろしいのですか?」
「その時間、が、一番確実……なのだよ」
「嬉しいです。ありがとうございます!」
そう言ってなまえが笑った所で、ちょうど隅に控えていた侍女や側近達が密やかにざわめいた。静かな湖に突如風が吹いて湖面がさざめき立つような、鈍くも鳥肌が立つようなざわめきように後ろに控えている侍女達を振り返って見れば、こちらに気が付いたらしくぴたりと静まる。
「え、なに?なに?」
思わず妃であることを忘れて庶民の頃のような口調で周りを見回してから、助けを求めるように宗を見た。が、彼はどこか焦ったような顔でこちらを見てから、いつもは丁寧な所作で食事を摂るというのに彼にしては煩雑に食事を終え、「先に失礼するよ」と言って部屋から出ていってしまった。
「あ、あれぇ?」
なまえは首を傾げる。もしや無理矢理願い事を聞いてもらってしまったのだろうか。少しわかりにくい所はあるが、この半年間で知る範囲だと宗は優しい人だ。優しい人だからこそ、大切にしてくれているなまえの願いを嫌でも断れなかったのだろうかと心配になってきて、なまえは宗の後を追うために大層珍しく忘れ去られたマドモアゼルを回収しようとしているみかを捕まえた。
「ね、ねぇみかくん!私、陛下のこと怒らせてしまったかしら!?」
「へぇぇ?!お、おれに聞くん?!」
みかが素っ頓狂な声を出して驚くものだから、なまえは彼の腕を捕まえた手に思わず力を込める。
「だって陛下のことなら私より詳しいじゃない!嫌われちゃったかしら、私」
「そ、そんなわけないやん!…んあ〜もう!お師さんが可哀想やわ!」
「私また何かやらかしてしまったのね…」
困ったな。などと呟いた瞬間に、背後から「お妃様」と声が掛かった。なまえの部屋付きの侍女がいつの間にか数人の侍女を連れてにこにこと微笑んでいる。
「え、何かしら…?」
「お妃様お時間がありませんわ!早く準備致しましょう!!」
そう言われて意味がわからなくてつい掴んでいたみかの腕を離せば、しめたとばかりにみかはさっさと礼をして部屋から出ていってしまった。
廊下から「お師さ〜ん!マド姉忘れてんで〜!」と小さく聞こえた後「ごめんなぁ〜!」といつものように聞こえたので、いつものように怒られてしまったようだ。
「な、なんの準備…?今日の午後、何か予定がありましたっけ…?」
侍女達の勢いが強くて思わずたじろげば、侍女は「何を仰いますか!」と前のめりでなまえに詰め寄ってくる。
「お渡りの準備ですよ!あまり時間がありませんからお早く!」
「え、えぇ?お渡りって…まさか」
「夜にお妃様のお部屋に陛下がいらっしゃるというならばもうそれはお渡りでございますよ!みか殿でさえご理解されていたというのに!」
「嘘ぉ…」
お渡りが何かは、妃として入宮する時に説明を受けていた。つまりは夜伽の事で、陛下から命が下れば月の物が来ている時以外は断ってはならないものだ。宗の何代も前の王はそれこそ大きな後宮を持ち、夜毎沢山の妃を召していたらしいのだが、長い戦によって王宮は大きな痛手を負った。その際に王宮自体を小さくし、妃は自然と数百人から数十人へ、やがて一人へと変わっていったという。ゆえにお渡りというよりも完全なる夫婦としての営み程度の認識で構わないと聞いていたのに、あの王の発言がお渡りの合図だと侍女や側近皆が認識したのなら、もしや本当にそういう意味なのだろうか。と、なまえは手足を冷たくした。
そして王宮へ入りお渡りについて学んだとき、その際の作法なども一緒に教えて貰ったのだが、当時はどうせすぐ暇を出されると思っていたのでやや投げやりに聞いていたのだ。まさか宗が本当になまえを気に入ってくれて、王宮に召し上げたなんて知らなかったのだから仕方ないだろう。
軽い気持ちで言ったのに何故だか大事件になってしまった。きっと陛下も困るはずだ。と考えてるうちに侍女にお風呂に入るよう言われ、いざ入ったらズカズカと介入されてあちこちと洗われたり全身に香油を塗られたりと大層慌ただしくなったなまえの午後は、少しだけ自分の発言を後悔したくなる時間になったのだった。
「嫌です!陛下はもしかしたら本当に私に刺繍を教えてくださるだけかもしれないではありませんか!」
「いいえお妃様。お言葉ですが入宮して半年も夜を共にしないなんて王と妃として、というより夫婦としては少し変わっているものですよ。もし陛下にその気がなくとも、お妃様がその気にさせるのです」
「初心者になんて事を…」
侍女があまりにしれっと言うので、なまえはサッと顔を青くした。というのも、宗を下着である薄い襦袢で待つか、きっちり衣を着ておくかで侍女と揉めているのである。勿論なまえは後者派だ。
「ではお妃様。私達は失礼致しますわ。この国の未来の為にもよろしくお願い申し上げますね」
とんでもなく重たい言葉を吐いて、侍女は去っていった。目の前には軽い食事と、裁縫道具。それからなまえが練習用に縫っている手拭い。
それから、妙に整えられた寝室。
結局侍女はなまえに簡単に羽織るものしかくれなかったので、渋々それを羽織って無理やり帯をした。自室なので衣を引っ張り出せば着れるのだが、それが正しいのかわからなくて出来ない、というのが本音である。襦袢だと身体が少し透けるので、もし宗にその気が全く無かった場合はなまえがただの痴女になるだけなのだ。せっかく少しずつ彼の事を分かってきて、少しずつ仲良くなれているはずなのにこれで不潔だと嫌われたらそれはそれで悲しい。
宗は少し潔癖な所があるので、だらしない格好も嫌がるだろう。だから衣をしっかり着て待とうと思ったのに。
ちなみに羽織りものも宗の作だ。これはなまえが入宮したての頃に送られてきたもので、ようやく最近羽織り始めたものなのだからこそ少し気まずい。あの頃の感情が互いに呼び覚まされてしまいそうだ。
「失礼するよ」
そんな事をグルグルと考えている内に、宗の声が扉の外から聞こえてきた。今は自分しかいないので、慌てて扉を開ける。
するとそこには簡素な衣に着替えた宗が、少し居心地悪そうに立っていた。数歩後ろにはみかが裁縫道具を持ってこれまた居心地悪そうにしている。
「お忙しいところお時間頂き…ありがとうございます…」
部屋へ二人を招くと、みかが大きく豪華な裁縫道具を机に置いて、すぐ出て行ってしまった。以前よりうんと仲良くなった彼がよそよそしく出て行ってしまうのもなまえの緊張を増長させる。
「少し食事を摂ってもいいかね。夕食がまだなのだよ」
「そうでしたか。大変お疲れ様でございました」
侍女が軽食を準備して行ったのはその為か。と納得して、お茶の準備をする。夕食がまだという割に、宗に近づいた時に香油のいい香りがした。もう風呂を済ませているのだ、という事に気付き、足先から頭のてっぺんにまで力が入る。
お渡り。子どもを作る。月の物は暫く無い。怖い。
「……」
宗は押し黙ったまま、なまえが淹れたお茶を飲んだ。普段なら誰か人が残るというのに、今日は二人きりだ。だれもいない。
緊張で泣いてしまいそうになりながら、なまえはすでに準備された食事を取り分ける。簡単な饅頭と羹(スープ)をよそうと、なまえのお腹も威勢良く鳴いた。宗がキョトンとした目を丸くし、なまえの顔は一気に赤くなる。
「ふっ、」
ははははは!と、耐えきれず宗が大声で笑い始めた。ますますなまえの顔は赤くなる。仕方ないのだ。気もそぞろで、夕食なんてほとんど口に出来なかった。
「へ、陛下の意地悪!聞こえないふりしてくださいませ!」
「いや、この距離では無理なのだよ。お腹が空いているなら一緒に食べようじゃないか。君の分もあるだろう」
「う、はい…」
諦めて自分の前にも饅頭と羹を置き、二人で食事をする。
「美味しい」
「そうかね」
「夕食、全然味が分からなかったんです」
「…そうだね」
なまえが侍女とあれこれ準備していた事を誰かに聞いて知っていたのだろう。宗が優しく肯定してくれる。彼のその優しさに、なまえの心は大きく動かされた。卓の下で拳をぎゅ、と握り、意を決するように言う。
「あの、陛下」
「なんだ」
「刺繍を教えてくださるのは、今度でも構いません…」
「……」
「私は、陛下の妻です。陛下がなさりたい事を、なさってください」
声が震えたけれど、必死に今の本心を伝えた。恥ずかしくて倒れてしまいそうだけれど、なまえは確実に、あの頃のよりも宗を愛している。
すると宗は一つため息を吐いた。そのあまりの深さになまえはビクリと肩を揺らす。
「…あまりそう無防備な事を言って、翻弄させないでくれたまえよ」
「でも、私」
「あの時は本当に刺繍を教えようと思っていたのだよ。他意は……無かった。けれど君にそう言われたら僕の決心などあっという間に揺らいでしまうのだがね」
「決心…?」
「その、君に嫌われない決心だ」
彼の瞳が、優しくなまえを見ている。彼のこの優しさがなまえだけに向いているのは、自分はもう十分知っているのである。
「嫌いません。私」
ほんの少しだけ怖かっただけです。と言うと、宗はカカカ、と独特な笑い声を上げながら「怖くないと言われる方がショックだねッ」と少しおどけて言ってみせてくれた。
気がつけばなまえの前の皿は空っぽだった。夕食は全く入らなかったのに、心に余裕が出来るとこんなにアッサリ食事が摂れてしまうのが不思議である。
「お腹いっぱいになったら、眠くなってきました…」
「赤ん坊みたいな事を言うね。でも確かに僕ももう眠い…」
「陛下。刺繍はまた今度に致しましょう。お疲れでしょうし…」
「そうだね。そうしてくれるとありがたい…」
ここでなまえは、ありったけの勇気で言った。
「あの、今お部屋に戻るのも大変ですし、今日はこの部屋に泊まって行ってください」
「えっ」
「勿論今夜は眠るだけで。私寝台入ったらすぐ眠ってしまいますきっと…」
「そ、そうか、そうだね。ここで部屋に戻っても不自然なのだよ。泊まらせてもらおう」
「やったぁ。お布団半分こしましょう!」
後は勢いで、野となれ山となれである。寝る準備をサッサと済ませると、なまえと宗は同じ寝台へと入った。普段より狭い寝台だけど、自分以外の体温が温かくて眠気を増長させていく。
「おやすみなさい陛下」
「あ、あぁ、おやすみ…」
ふと、宗の香油が上品に香った。それをすんすんと嗅いで、寝ぼけ眼のなまえが笑う。
「陛下、いいにおいですね…」
そこからはもう、記憶がない。
翌朝なまえが眼を覚ます頃にはもう宗は居なかった。勘違いしている侍女達は泣いて喜んだし、宗はいつも通り…と思いきや朝食の時に会った彼はどうも気もそぞろである。
一緒に寝たのは恥ずかしかったが、それより眠気が勝ってしまった自分に呆れてしまったのだろうか。と心配になったが、何か心配になった時は必ず話をしてみればいい。そうすればきっと丁寧に答えてくれるだろうと、なまえはいつもより沢山朝食を食べたのだった。
「影片!零を、零を呼んでくれ…!相談したい事が沢山あるんだ」
「そんなすぐ呼べる人やないで〜お師さん。どないしたん??」
「フン!お前に話しても仕方がないのだよ!!零ならきっと分かってくれるはず…!!」
「お妃さんとなんかあったん?」
「ノンッ!黙れ!」
後日急遽現れた零に相談をし、宗は黙っておくことに決めた。あの日、我慢できずに眠るなまえに何度も口付けをしてしまった事。彼女が起きている時にした事が無いのに、彼女の与り知らぬ場所で初めてを奪った可能性がある事。それをわざわざ他国から来てくれた零に相談すれば、彼は大層呆れた声で「いざ、本当に夜伽してもらう時そんなんで大丈夫かのう…」と呟いたという。
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