3.climax
こんな早い時間に人にはち合わせるものなのか。と、最初はその程度の認識だった。
キンと冷えた空気の中走ることが気持ちよくて、最近はジムを利用するよりも専ら外を走るようになっていたジュンは、一週間前から一人の女の子とすれ違う事に気が付いていた。その子は犬を連れていて、いつも飼い犬に引っ張られるように川縁の遊歩道を散歩していた。
まだ薄暗く冷たい風が体温をさらっていく広い川の端。駅に向かう人すらほとんどいない中、その女の子と犬はジュンの目から見ても目立っていた。イヤホンで新曲のメロディを聴くジュンには彼女の声も犬の吐く息の音も聞こえないけれど、彼女が何か犬に話しかけている風なのは見て取れた。なんだかそれがおかしくて、でも見ているのを知られたら気まずい。
しかしなんとなく彼女と犬とはち合わせるのが楽しくて、ジュンはランニングの時間と場所を変えることのないまま一週間走り続けていた所で小さな事件が起きる。
端的に言うと、今まで吠えられなかった犬に吠えられてしまったのだ。いつもは道の端の生け垣やベンチの足下に興味津々の様子だった彼女の犬は、ジュンに向かって飛びかからん勢いで前足を上げている。それを必死に止めようとする彼女に、ジュンは気にしないでくれ、という為に初めてイヤホンを外して彼女と会話をする。何度も申し訳なさそうに謝る彼女に軽く返事をしてまた走り出すが、無意識に笑いがこぼれてしまった。
急に吠えられたのには驚いたが、それを必死に止めながら謝る彼女が、なんとなく可愛らしく見えたのだ。困ったように、自分の飼い犬の行動に驚きリードを必死に引く彼女に、その日からより一層目が離せなくなった。
同じ時間に走りに行けば、また会える。ジュンがそんな風に思いながら目覚ましをセットするようになるまでに、そう時間は掛からなかった。
ある日目覚ましより30分早く目が覚めてしまって、一通り走ってからあの川縁を通ろうとしたら、早いはずの時間にまた彼女はいた。いつものようにピンとリードを引っ張りながら犬に話しかけている彼女に会えた時は、走っているせいで上がったわけではない心臓の高鳴りを確実に意識した。思い切って声を掛ければ、どうやらジュンに申し訳ないと思って時間をずらしたのだという。地方に数日間ロケに行っている日和から預かっているメアリの匂いを察知しているのか、やはりジュンに飛びかかってくる彼女の飼い犬にじゃれながら、やはり気にしなくていい。と言った。それよりも彼女の顔を朝から見られるのが嬉しかった。
しかしそれから暫くしてある日彼女は犬を連れずに一人、遊歩道のベンチにいた。その瞬間、ジュンはドキリと身を固くする。犬という生き物は、人より遥かに寿命が短いものである。
彼女が心配で思わず声を掛ければ、泣いてしまったことに余計どうしていいかわからなくなる。女の子を泣きやませる術なんて、知るはずもなかった。
けれどジュンが危惧していたことはなく、彼女の家族と飼い犬は地方に移り住んでしまったという。それが寂しくて、ついいつもの時間に目が覚めてしまったからここに来たのだと、彼女はジュンに話した。
彼女がここに一人でも来てくれてよかった。と思った。でないときっと、一生再会することはなかったかもしれない。
緊張する胸をどうにか抑えて、ジュンは彼女に連絡先を、名前を聞いた。どうやら彼女はジュンの正体を知らない、もしくはジュンに気が付いていないようだったので、とりあえず珍しい名字である『漣』という名前は隠して連絡先を交換した。どうせアカウント名はフルネームなので気付かれてしまうかもしれないが、もう彼女の連絡先を手に入れたのでそんなものはどうでもよかった。
恋、かもしれない。ジュンにとってはよくわからない感情である。けれど彼女の事を一つまた知れたこの高揚感と、まだ彼女と話す機会があるかも知れない期待は確実にジュンの促進剤になった。
この感情を恋というのだろうか。その答えを探しながら走り続けたジュンは普段よりも遥かに長い距離を走り終えてから、気が付いた。
数日後、そんなに挙動不審だったのか日和にはあっという間に好きな人がいる事が知られてしまったジュンは、その場にいた彼らのメンバーの1人でありマネージャーでありプロデューサーの茨にも知れ渡ってしまい、困りましたね!と大声で言われてしまった。
「べつに何もないですよぉ〜。その、か、彼女なわけじゃないし…」
「そうですね!不毛な片想いお疲れ様でありますジュン!」
「うーわ、性格悪りぃ…」
まぁでも用心に越したことはありませんし。と言って、茨は「殿下!僭越ながら自分にお力をお貸しくださいませんか?」などと日和に助力を願った。
茨の作戦は以下の通りだ。
とにかくジュンが好きになってしまったという通称「川縁の君」がどれだけモラルがあるのか知る為、まずはメアリと日和が写真を撮って彼女に送り、誰にも見せるな。と伝える。それがSNSに流出したらその時点でアウト。公式SNSで同じ写真を流し、彼女だけが持っている写真ではないことをアピールしなければならない。
彼女が身内だけのアカウントで写真を流出させてもボロは出るものだ。企業のエゴサーチ能力を駆使して数日間それを行った結果、写真はどこにも流れなかったようである。
「ふむ、まぁ最低限の常識はあるようですね。合格です」
「大丈夫ですってば。そんなことやる子には見えませんし…」
「あ〜ちょろい。そんなにちょろいと困りますよジュン。変な女に捕まってすっぱ抜かれたら目も当てられません。自爆してこちら巻き込むのだけは許しませんよ!」
あっはっは!と笑う茨の目は笑っていない。恐らく自身の仕事の障害になりそうなものを排除したがっているのだろう。
「わかってるっすよ…大丈夫。べつに、付き合いたい、とか、そんなんじゃねーし…」
「……まぁ、一つ言わせて頂ければ。我がコズプロは恋愛禁止を公然と掲げていませんので。それだけは教えておいてあげましょう」
「……」
「だからってそれに甘えて女遊びが激しくなったら排除します」
「んなことしねーっての」
レッスン行ってきます。とジュンは副所長室を出て行った。それと入れ替わりで、日和が副所長室へと入ってくる。それに気が付きながら、茨は呟いた。
「…まぁ、彼女についてはとうに調べ上げ済みなんですけどね。こんな事言ったら流石にぶん殴られそうですが」
「相変わらずだね毒蛇」
「おや殿下。あの時はご協力頂き感謝致します!」
わざと今気がついた、というような発言の後、敬礼〜!といつものように敬礼した茨を一瞥して、日和は言った。
「ぼくもスキャンダルは許さないけど、ジュンくんの生い立ちを考えると誰かの愛情を手に取れる距離で確実に受け取れる、というのはあの子にとってはとてもいい事だとは思うね。手放しで甘えられる相手を作るのは、危うい賭けではあるけどね」
う〜ん、やっぱり面倒なことは考えたくないね!と言いたいことを言うと、日和はさっさと外へ出て行った。彼は道化を演じてはいるものの、非常に賢しい。
茨は「いやいや、さすがは殿下!」と1人高らかに言いながら、タイミングよく掛かってきた電話にいつもの笑顔で答えたのだった。
とりあえず茨からのお叱りはこれで終わりだろう。ジュンは安堵の息を吐きながら、ついこの前なまえがくれたメッセージを見返しては、一人頬を緩めた。日和のことをかっこいい。と言ったことにはほんの少しだけ面白くなかったが、その後無理矢理日和に撮られたメアリと自分のツーショットにもかっこいいと言ってくれたのが嬉しくて、ふと見返してしまう。
好きかもしれない女の子から言われるかっこいいはこんなに甘いものなのだ。と初めて知った。勿論ファンに言われるかっこいいほど気持ちよく高揚するものはない。けれどたった一人の言葉がこんなに嬉しいなんて。と新たな発見に戸惑う。
自分がアイドルであることは、一瞬たりとも忘れたことなんてない。
けれどあの茨と日和が自分の行動を止めようとしなかったのは、疑問だった。
「そうだ…」
アイドルの自分も、彼女に見て欲しい。ふとそんなことを考えたジュンは、気が付けば彼女に向かってメッセージを送っていた。生放送の歌番組。
もしかしたら予定があるかもしれない。大学生ならバイトがあるかもしれない。それなら仕方ないと、だめで元々くらいの感覚だったのに、彼女から来た返事は「絶対に見る」というやはりジュンには甘い返事だった。レッスンを終えてからその返信を見たジュンは、汗も拭かずに一人小さくガッツポーズをしたのである。
毎朝彼女のことをぐいぐいと引っ張っていたなまえの愛犬は田舎でも元気なようだ。彼女が送ってきてくれた写真ではしっかりカメラ目線で写っている太郎に、よく飛びかかられたことを思い出して一人小さく含み笑いをする。メアリの匂いが移ってしまっていたのか、ある日急に飛びかかってくるようになった彼女の愛犬と、それを困ったように制しながら必死に謝るなまえは、ジュンにとって一日の始まりの合図になっていた。
少なくとも、あの数日間だけは。
歌番組はミスもなく、現時点ではそこそこ満足のいく内容だった。勿論日和からは細部の指摘は受けたけれど、彼の「まずまずだね」という言葉は及第点の証である。
歌い終わって、楽屋に戻る。衣装のジャケットを脱いで一息吐いて、番組のエンディングに出るまでは30分ほどの空きが出来た。
微かな、本当に微かな期待を胸にジュンは自身のスマホのロックを外した。そこには彼女から、必死な様子が目に浮かぶような感想が羅列されていた。
『かっこいい』
『すごく好き』
真剣に見てくれたのだろう。事細かな感想と共にそんな言葉が羅列されている。更にトークで話した彼女と飼い犬の話にも気が付いてくれた。ぶわ、と全身が総毛立つような高揚感。頬が火照り、手が緊張とは違う震えが起きる。乾いた荒野をひた走ってきたような自分の中に、何かが染み渡るような感覚がした。
手に入れたいと思ってしまった。アイドルに対する飢えたような、獰猛な野心はそのままに。それでも彼女の側にいることを他の誰でもない自分に、そして彼女に許されたいとそう思ってしまった。
そう思ったら、なまえの顔が見たくなった。声が聞きたくなった。あの川縁で、朝日がだんだんと昇る澄んだ空気の中、寒さで少しだけ鼻を赤くした彼女に、またおはようございますと言って欲しい。おはようと返したい。そう思ったら止まらなくて、ジュンはしばし考えた後、彼女が新曲のCDを買うとメッセージを送ってくれていたのを見つける。
そこで緊張する指先で、彼はこうメッセージを送ったのだ。
『新曲のCDを手渡ししたいんで、よかったらまたあの川縁の遊歩道で会えませんか?』と。
すぐに返ってきた彼女からの返事に、どうしようもなく胸が熱くなった。
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