4.ending

冬は朝日が昇るのが遅く、地面から這い上がってくるような冷気が足下を冷やす。なまえはまた手袋の上から手を擦るようにしながら、川縁の遊歩道まで向かっていた。川の上に吹く風はマフラーをしていても容赦なく首元を冷やしてくる。「寒い…」と一言呟いても、風の音に掻き消えた。

けれどなまえの心臓は、外気に反してドクドクと強く波打っていた。またジュンさんが会ってくれる。私なんかに。と、そう思うだけで昨日はなかなか眠れなくて、今朝はぼんやりとした頭で目覚ましのアラームを聞いた。もう実家からリードを太郎に繋ぐことはないし、一軒家の玄関ではなく狭い1Kマンションの玄関で、いつものスニーカーを履く。あの遊歩道までかかる時間だけが、あまり変わらなかった。

思えば、あの日から彼に恋をしていたのかもしれない。最初は何気なく横をすれ違うだけだったのに、太郎が飛びかかっても笑って許してくれるどころか優しく話しかけてくれて。太郎がメアリの匂いに反応してしまうのは心底困ったけれど、彼はいつでも「気にしないで」と言ってくれた。申し訳なくて散歩の時間をずらした時、まさかはち合わせるとは思わなくて、驚きよりも喜びが勝っていたことは無理矢理隠した。彼が何気なく「今日は早いですね」と声を掛けてくれたのが、彼の日常の隅になまえと太郎を置いてくれているようで、どうしようもなく心臓を締め付けた。

それから両親と太郎が田舎へと移り住んで、一人になった朝。なまえのことを本気で心配してくれて、寂しい時はいつでも連絡して欲しい。なんて優しい言葉を掛けてくれた。
彼はアイドルだ。きっと安易に自分の連絡先なんて教えてはいけないだろう。それなのにそんなの気にしないとでも言うように、まずなまえのことを心配してくれた。もし私が悪い人間だったらどうするんだろう。なんて考えて心臓の高鳴りを抑えようとしたけれど、そんなの無理で。

ほんの少しの短い時間だけど、こんなに優しくしてくれる人を好きにならないなんて、どうやったら出来るの。と、泣きたくなる。彼は元々遠い存在の人だ。と何度も思い直して、連絡は取らないようにしていたのに、彼はなまえとのつながりを大事にしてくれた。それだけでもう十分だったのに。こうしてまた顔が見られるのが嬉しかった。テレビ越しじゃなくて、彼の存在を近くに感じながら話が出来るなんて、思ってもいなかったから。

しんとした川沿いで、彼を探した。人気のない道だからきっとすぐに影を見つけられると思って、太郎と散歩した道をまた一人で歩く。一度寂しくて歩いた時とはまた違う感情に押されながら、段々と昇る太陽が川の水面に反射してきらきらと光るのを、横目で見た。

ふと、道の端の方に人影が見える。目を凝らしてみると、紛れもなくジュンだった。向こうもこちらに気が付いたようで、小走りで近づいてくる。

「ジュンさん」
「やっぱなまえさんだった。おはよう、ございます」
「おはようございます…」

変装用だろうか、マスクをしていた彼はそれを下ろしてから爽やかに笑った。いつも会う時彼はランニングウェアだったけれど、今日はダウンジャケットにデニムを履いている。カジュアルな感じがよく似合っていて、なまえは思わず視線を彷徨わせた。

「どうしたんですか?」

首を傾げたジュンに、なまえはなんでもない。と手をひらひらと振る。アイドル衣装もランニングウェアも似合っていたけれど、私服もかっこいい。なんて絶対口には出せないことを考えていたのである。

「来てくれて、ありがとうございます。寒かったでしょ」
「ううん。大丈夫です。ジュンさんこそ忙しいのに…」
「オレが来てくれって言ったんだから、オレのわがままっすよ」

白い息を吐きながら笑うジュンに、なまえはそっとポケットからホッカイロを一つ取り出した。家から出る時に封を開けて、ポケットに入れてここまで来たのだ。

「これ、よかったら使ってください」

ポケットに入れたまま来たのでべたべた触ってないです。と付け加えれば「そんなの気にしないっすよ」と言って受け取ってくれた。

「ありがとうございます。なまえさんは寒くないっすか?」
「私の分も持ってきてます。大丈夫です」

ほら。ともう片方のポケットからホッカイロを取り出して頬に当てると、ジュンは「よかった」と笑ってくれた。

太郎を連れずになまえが一人座っていたベンチに、二人で腰掛けた。チカ、と太陽の光が反射した川に目を細めると、ジュンが一度息を大きく吐いたのが見えた。空気が冷たいせいで見える、真っ白な吐息。それにつられてジュンの方を見れば、彼はカバンから一つの包みを取り出した。

「これ、連絡した新曲のCDです。この前の歌番組で歌った歌、なんすけど…」
「ありがとうございます!嬉しい!何度も聴きますね」
「そうしてくれると、すごく嬉しいです」

なまえはあの日の歌番組を脳内で反芻した。キレのあるダンスと、二人の蕩けるような歌声。楽しそうな視線、彼のアイドルとしての姿が頭の中に蘇ってくる。やや興奮しながら、なまえはあの時の事を口に乗せた。

「ジュンさんの歌声、すごく素敵でした…!あの、話す時より少し甘くなるのがかっこよくて、どきどきしました!」
「あ、ありがとうございます…」
「ダンスも!すごくかっこよくて…!いつも走っていたのはこの為なんだなって思ったら努力されてるんだって、尊敬しちゃいました。楽しそうに踊っているのがテレビ越しでも伝わってきて…!」
「て、照れますね…嬉しいけど」

そう言われてなまえもはた、と気が付いた。本人を前に何を恥ずかしいことを、と一気に顔が熱くなる。

「す、すみません。恥ずかしい事を本人に向かって」
「いえ、すごく嬉しいです。そうやって直接感想言ってもらう事って実は少ないんで」

ファンの人と直接話すことはほとんど無いですから。と言われて、納得する。ファンがアイドルに会いたいように、アイドルもファンに会いたいんだ。と当たり前の事に今まで気がつけなかった。

「私、直接観に行っている人たちが羨ましくなりました。Eveのお二人の歌、失礼な事にまだ知らない曲も多いけれど、これから沢山聴きたい」

テレビで番組を見ている時、あの会場にいる人が羨ましくなった。もっともっと二人の事を、ジュンの事を知りたいと思った。

「…あの曲、好きですか?」

ジュンが小さな声でぽつりと呟いた。最初聞こえなくて、なまえは一度「え?」と聞き返す。ジュンはもう一度、今度はもう少し大きな声で、言った。

「あの曲、気に入ってくれましたか?その、好き、ですか?」

なまえは大きく頷いた。少し恥ずかしいけれど、なまえの内に秘めた本心をその言葉に隠して、なんとか笑顔で、彼に伝えた。

「はい。好きです。大好き」

ジュンがその瞬間、ベンチから立ち上がった。彼の体格のよい身体が、昇り始めた太陽を隠してなまえに影を作る。逆光になった彼の表情は、よく見えない。けれど彼が両手をぐっと握っているのだけがしっかりと見えた。

「オレも…オレは、なまえさんが好きです」
「えっ」
「太郎くんを散歩してた時から気になってました。いつも太郎くんに引っ張られながら、それでも楽しそうに散歩してて。太郎くんの事を本当に可愛がっているんだろうなっていうのがすぐわかって…」
「……」

聞き間違いではないだろうか。そう思って、言葉が出ない。けれどそんななまえに相反するように、ジュンは言葉をつなげた。

「太郎くんがいなくなって寂しいって言っているのを聞いて、なまえさんのことがもっともっと気になって…その、放っておけないっていうか、一人にしたくねぇって思って…あの、好き、です…」

驚きすぎると、人は声を失くす。呼吸すらマトモに出来ているのかわからないまま、なまえはジュンをもう一度見上げた。逆光で、やっぱり彼の顔は見えない。

「迷惑だったらすいません。今日はそれを伝えたくて呼び出しました。聞いてくれて、ありがとうございました」

そう言って、彼は踵を返そうとした。そこでようやく、なまえの喉は声を取り戻す。

「待って!……ください」

ジュンが振り向いた。なまえがベンチから立ち上がる。
理由はわからない。わからないけれど、瞼がじわりと熱くなる。次第にぽろりと、涙がこぼれた。それを観たジュンが、申し訳なさそうに視線を外す。

「泣かせて、すいません…迷惑っすよね。わかってます。自分がどういう立場でこういう事言ってんのかも、わかってるつもりっす」

でもどうしても言いたかったんです。と、彼は今度はまっすぐなまえを見た。その視線の力強さが、なまえの混乱してこんがらがる頭の中の糸を、思い切り引きちぎってくれる。一度涙を拭ってから、なまえはありったけの勇気を出した。

「私も…私も、すきなんです。ジュンさんのこと、好きなんです」

今度はジュンが目を見開いた。なまえの目から、拭った端からまた大粒の涙がこぼれる。

「私こそ、こんな事言うのはおこがましいってわかってます。ジュンさんはアイドルだもん。私みたいなどこにでもいる一般人、相手にするべきじゃないです」

「……」
「でも私なんかを好きって言ってくれて本当に嬉しいです。ありがとうございます。私も、ジュンさんと毎朝会うのが楽しみでした。会えた日は一日嬉しくて、なんでも頑張れる気がしました。太郎がいない時に心配してくれたのも優しさが嬉しくて…でも、憧れで終わらせないとって。ジュンさんは、本来はこうやって会えない人だから。」
「…なんかって、言わないでください」
「え?」
「オレの好きな女の子を、なんかって言わないでください。あと、オレを霞や蜃気楼みたいに言われんのも嫌です」

ジュンが、一歩なまえに近づいた。彼女の手を、そっと握る。なまえの手は氷のように冷たかったが、ジュンの手は柔らかい温かさを持っていた。

「オレはここにいますし、なまえさんが好きです。なまえさんもオレの事好きって思ってくれんなら、遠慮しません」

好きです。オレと付き合ってください。

そう言って、彼は頭を下げた。
なまえは小さな声で、本当に小さな声でだけれど、返事をした。

「はい……ありがとう、ございます…」

ジュンが思い切り顔を上げる。一度手の甲で涙を拭ったなまえは今出来る限りの笑顔で笑った。

「今ここにいる優しいジュンさんのことが、私も大好きです」

太陽がゆっくりゆっくりと、川縁を照らす。薄暗かった遊歩道のアスファルトは、日の光を浴びて色を明るくしながら、その冷え切った道をほんの少しだけ温める。風が一筋吹いて生け垣の木を微かに揺らした。

まだ大丈夫。まだ駅に向かう人はいない。

ジュンは一度周囲を確認すると、なまえにもう一歩近づいた。そっと腕を開き、彼女を中に閉じこめる。腕ごと抱きしめられたなまえは彼の服をぎゅっと掴むことしか出来なかったけれど、もう一度彼にしか聞こえない声で「好きです」と伝える。

「やべ、泣きそう」

そう言って笑ったジュンの笑顔が、朝日を浴びて眩しくきらめいた。

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