四話
なんでも、そこそこ。
そこそこ気立てが良くて、そこそこ実家にお金があって、そこそこ家事ができて、そこそこ桜河の事情を知ってて、そこそこ結婚適齢の年齢になったから、このお話が私に来た。
ほんとはその程度。私に何か特別な物があるわけではなく、なんでもそこそこな私だからこそ、桜河の家も私を選んで嫁に迎え入れたのだろう。それくらいは知っていたけれど、思い知るには少しだけ遅かった。
夕暮れが近い。街で目的の買い物を済ませて、久々に甘味でも買って帰ろうと踵を返した瞬間私は思わず立ち止まって一本先の通りを見つめた。そこには夫であるこはくさまが仕事着である軍服姿のまま、一軒のお店に入って行くのが見えたのだ。そして私はその先のお店が何かを知っている。
カフェー。いわゆる女性がとても近い距離で接客をする、お食事どころである。
「こはくさま……」
私は無意識に名前を呟いてから一度視線を逸らして見ないふりをして、でも視界に入ったそれを振り払う事ができなくてぶんぶんと首を振った。私の動きに合わせて、抱えた風呂敷の中身が微かに動く。
何か事情があるに違いない。そう、例えばお仕事とか。たまに任務でお座敷にも行くことがあるのだから、カフェーに行ったっておかしくはないだろう。
けれどそういう時、こはくさまはいつも出勤前にちゃんと私に伝えてくださる。お座敷や遊郭に行くと必然的に軍服に白粉や香の匂いが付くから、私が疑問に思う前に誠実にも教えてくれるのだ。でも今日は何もうかがっていなくて、それがより不安に拍車をかける。
私はくるりと体の向きを変えて、足早にその場所を去った。途中少し足がもつれそうになったのがより自身の情けなさを助長させていくのが切なくて、私は珍しく深いため息を吐いた。出来る限りいつも笑顔でいようと、そう思って嫁いだのに。
浮気は男の甲斐性。なんていう言葉をどこかで聞いたことがあるし、母は結婚前私に「もし旦那様が他に女性を囲ってることを知っても見ないふりをしなさい」と言ってきた。その時私はこはくさまの事を全く知らなかったし妻というものはそういうものだと教わってきたので大人しく頷いたけれど、今同じ質問をされて頷けるかは、よくわからない。
こはくさまと夫婦になってまだ一年と経たないのに私はいつのまにか彼が大好きになっていたのだから、仕方ないだろう。
「うぅ」
ついに涙まで込み上げて来て、私はそれをぐいぐい拭って着物の袖を汚した。おろしたばかりなのに、そういうおっちょこちょいな部分はいつまで経っても直らない。
私は年上の姉さん女房なのだから、なんでも許して差し上げなくちゃ。カフェーくらいは不義理でもなんでもない。ただ気晴らしに行ったのかもしれないし、仕事の一環かもしれない。
でも、建前と本音を上手く沿えるように出来るかはわからない。私は家に帰ってもなおポロポロ泣きながら台所で今日の夕飯を作った。献立は皮肉にも、こはくさまが美味しいと気に入ってくださっている魚の煮付けなのである。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
なるべくいつも通り、何も見なかったふりをしなきゃ。と思ったけれど、こはくさまは私を見た瞬間怪訝な顔をした。そういえばさっき泣いてしまったのだから、目元が腫れているのかもしれない。
「どうしたん?泣いたんか?」
秒で気づかれてしまった。私は居た堪れなくなって、着物をぎゅっと握る。
「なぁ、何かあったん?」
「いえ、あの、玉ねぎがね、しみたんです……」
お食事準備します。と台所に下がる。そこで気がついた。今日の献立は玉ねぎなどどこにも使ってない。きっとこはくさまにはすぐ気づかれてしまう事だろう。なんでもそこそこ。嘘を吐くのは、そこそこ以下だ。
「どうしよう……」
けれどもう口にしたものは仕方ない。私は食事をよそって居間へと持って行くと、既に軍服から普段着に着替えていたこはくさまは案の定すぐにその違和感を口にする。
「玉ねぎ、嘘やんか」
「……」
こはくさまが少し目を細めた。私が嘘を吐いた事を怒っていらっしゃるのだろう
「お食事冷めますので、召し上がってくださいませ」
「あほか。飯食うとる場合とちゃうやろ」
少し低い声でそう呟くと、こはく様はちゃぶ台から体を引き、私と相対しどかっと胡座をかいて座った。目は「向かいに座れ」と強く訴えている。私は肩を竦ませながらこはくさまの向かいに正座して手を膝に乗せると、彼はそっとその手を取ってくださった。それだけで私はじわじわとまた泣きそうになってしまう。
「なんで泣くん?わし、なんかしたか?」
首を横に振った。こはくさまは一寸も悪いことなどない。全ては度量が狭く、なんでもそこそこな私が悪いのだ。
「なら、何があったか話してみい」
「何もないです」
「いつもにこにこぴよぴよしとるぬしはんが泣くなんて、よっぽどのことやんか。頼むから話してくれへん?」
ぴよぴよ?と一瞬思ったが、こはくさまに目を向けると苦しそうに眉をひそめているのが見えた。まるで自分が痛いみたいに悲しそうな顔をされるので、私は慌てて彼の手を強く握り返す。
「なんや、妻に相談もされへん頼りない男なんかな、わし。情けないわ」
「ちが……っ、ちがう、ちがうのですこはくさま、ごめんなさい、ごめんなさい〜!」
結局私は年甲斐もなくわんわんとな声をあげて泣いてから、そんな私に幻滅せず頭を撫でてくださるこはくさまに全て打ち明けることにした。夕方カフェーに入っていくこはくさまを街で見かけて、思った以上に悲しくなってしまったことだ。
「狭量な妻で大変申し訳ありません。私のことはお気になさらず……」
「あ、アホ!わしが好き好んでそないな所行くわけないやろ!仕事じゃ仕事!」
よくよく聞いたら、カフェーの主人はこはくさまのお仕事の協力者で、カフェーの裏口から路地に出て標的を仕留めたのだという。私はありもしない妄想で独り相撲を取っただけだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいこはくさま!私とんだ勘違いを……!」
申し訳なくてまたわんわん泣く私を、こはくさまはそんな私をずっと抱きしめてくれた。ぽんぽんと背中を叩いてくれる手は優しい。
「妾なんか取ってる暇っち、一生ないわ。わしはぬしはんで手一杯じゃ」
はい。と返事をひとつすれば、こはくさまも少し安心したように笑ってくださった。その後はすっかり冷めた夕食を二人でもそもそと食べて、布団は一枚だけ敷いて一緒にそこへと入ったのだった。
翌朝こはくさまがぽつりと呟いた。昨日の夕飯とは違いほかほかのご飯に温かい味噌汁を出せて、私が満足してる最中である。
「なぁ、わかってるっち思うんやけど言うてええ?」
「はい。なんでしょうか?」
空の茶碗にご飯を盛って、こはくさまに差し出しながら聞く。今日のご飯は程よい硬さで炊けて満足である。
「わしが妾を囲うことはもちろん今後あらへんけど、ぬしはんもやで」
「?もちろんです」
妻は貞淑であれ。母に言われ続けた言葉だし、私もこはくさま以外の殿方なんてとんと目に入らない。しかしこはくさまはそんな私をじっと見ると、覗き込むようにして睨んだ。
「最近の郵便屋、いつも同じやつが来ぉへん?しかもわざわざぬしはんのこと玄関先から呼んで手紙を手渡してくるんやって?」
「あ、言われてみればいつも同じ方ですね。お仕事熱心でよいことです」
なぜ家にいない間のことをこはくさまがそんなに知っているのだろう。と首を傾げれば彼は呆れたように盛大に、深く深くため息を吐いた。
「気ぃつけや。わしが仕事でいない間は守ってやる事も出来んさかい」
「は、はい……?」
おっしゃっていることがよくわからなくて首を傾げれば、こはくさまが一気に味噌汁の椀をあおった。空になった椀を置いて、呆れたような目線を投げてくる。
「ぬしはんはやっぱりぴよぴよしたお人じゃ。もうえぇ、わしが手ぇ回す」
「?」
よくわからないけれど、こはくさまが私のことを考えてくださっていることだけ伝わったのでもういいや。なんて思ってしまう程度には、私はそこそこ楽観的なのである。
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