五話
「散歩にでも行かへん?」
ここ最近忙しくて一緒に出かける事など皆無だったので何気なく提案したのだが、妻は思いの外目を輝かせてくれた。
夏独特の蒸し暑くむせるような土煙の昼を過ぎ、首筋を撫でる風も滑らかになってきた時間帯に、こはくはさりげなさを装って妻を散歩へと誘った。彼女は食後に飲んだお茶の湯飲みを片付けようとしていた所で、驚いたように目を丸くして見せた。それから一度逡巡するように首を傾げた後、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「今からですか?」
こはくは頷いた。今日は満月だから外はほの明るいが、それでも電灯の遠い場所は暗い。ランタンを手元でぶらぶらと提げる仕草をすると、今度は好奇心旺盛な瞳の力を強くした。
「行きます!」
「さよけ。ほな行こ」
「あ、お、お待ちください!髪まとめて……、あぁっ巾着!」
「なんも持たんでええよ」
パタパタと部屋に戻る軽やかな足音を聞きながら、こはくは緩めていた着物の襟元と帯を外へ出られるようまた締め直し、玄関で彼女を待つ。女の支度に時間がかかる事への理解は持っている方だ。なにせ、実家の姉たちが出かける際にいつまでもこはくを待たせるのはよくある話だからである。
やがて妻はチリチリと小さな鈴の音を立てながら玄関へとやってきた。
「お待たせしてすみません」
「待っとらんよ。それ、似合うとるな」
妻が髪紐を変えて出てきた。藤色を軸にして、細い糸を巧みに編み込んであるそれはこはくが妻に贈った物だ。紐の先に付いた、チリチリとかわいらしい音を立てる小さな鈴がぴよぴよとした印象の妻に似合っているし、何より彼女がどこにいるかすぐ分かる所に有用性を感じたのである。
「私も気に入ってるんですけど、勿体無くてなかなか付けられなくて……!せ、折角こはくさまとのデェトですから見ていただきたくて」
「……デェト」
「あっ、ち、違いましたか?!申し訳ありません……!」
一気に顔を赤くした妻はぶんぶんと手を振って自分の発言を打ち消そうと必死だ。特に他意はなく、ただ涼しくなってきたから散歩に誘っただけだったのだが、彼女が慌てて髪紐を変えてきた理由がわかって、こはくは指先が温かくなるような感覚に陥る。こんなに何気ない散歩も妻はデェトだと思ってくれることが嬉しかった。夫婦になって少し経ったけれど、彼女はこはくの事を家族であると同時に一人の男として見てくれている事がしかとわかり、純粋に嬉しいのだ。
「違っとらんよ、立派なデェトじゃ。ちゃんとおしゃれさんしてきてえらいなぁ」
自分でも予想し得なかったくらい声が甘くなり、こはくは一人恥ずかしくなる。当たり前だ。こんな声、自分以外は妻しか知らないだろう。
夜の街はあまり治安が良くないので、家の近くを流れる川の方へ来た。朱桜の土地ゆえか浮浪者や夜鷹のいない河川敷をランタンを片手に、もう片手は妻の手を取って歩く。吹き抜ける風が川の水に冷やされているのか大分ひんやりとしていて心地いい。風が吹き抜けるのに反応して河川敷に生える草がサラサラと軽やかな音を立てては、じっとりとかく汗を乾かしてくれるような気がした。加えて今日は、草の音に紛れて妻の髪紐の鈴が微かにチリチリと鳴る。なんとも涼しげな音は風流そのもので、繋いでいる手の熱ささえ飛ばされかき消されていくような気がした。
「大分涼しくなってまいりましたねぇ」
妻が手を繋いでない方の手で巾着をぶらぶらと揺らしているのが視界の端に見えた。良家の娘ではあるので普段の所作は上品なものだが、こうしてたまに気を緩めると無意識か小さな子どものような仕草をする。歳上とはいえかわいいので、特に注意はしない。
「せやな。そろそろ夏も仕舞いじゃ」
「今年の西瓜は甘くておいしかったです。お義姉さま達が下さったのが一番おいしかったな」
「ぬしはん一人で半分以上食うてたもんな」
その時のことを思い出して笑いが込み上げた。思わず吹き出すと、妻は慌てたように言い訳をする。
「こ、こはくさまだって私が買ってきた水羊羹、私の分まで食べたではないですか!」
「なっ!それはぬしはんが年上ぶってわしにお食べくださいて言うたからやろ!」
その時一陣の風が二人の狭い隙間を通り抜けた。突然の強い風に煽られた妻の手を一旦離し、抱き込むように支えると妻がこはくの着物をぎゅっと掴む。そこまで上背がある方ではないこはくでも、妻の身体をちゃんと抱え込む事が出来る。仕事の相棒である斑くらい上背があれば、とも思うが妻の顔が普段から近いのは悪くないと思っているので、これはこれでいいのである。
「ねぇこはくさま。秋は秋でまたおいしいもの食べればようございますね。私、栗ご飯作ります」
「コッコッコ。せやな。わしは芋羊羹でも買うてくるわ。美味い店があんねん」
まだ夏もほんの少し残っているのに、二人で秋の話をして笑う。さやさやとした風が名残惜しそうに、草を撫でて行った。
「……あ、蛍!あれ、蛍ですね」
「せやな、この時期珍しいんちゃう?」
「少し遅いですもんね。でもきれい」
川縁の草の端に狂い咲きの小さな光を見つけて、妻がしゃがみ込んだ。風に揺られた髪紐の藤色が、ランタンの光に照らされて淡く浮かび上がる。チリチリと鳴る控えめで可愛らしい鈴の音は、彼女がどこにいてもわかる気がした。
「いい夜ですね。こはくさま、連れてきてくださってありがとうございます」
妻がしゃがみ込んだままこはくを見て微笑んだ。たまに見せる凛とした顔でも、普段のどこか歳上らしからぬふにゃりとした顔でもなく、心の底から安心しているような穏やかな笑顔に不意にこはくの胸は詰まるように苦しくなる。このなんとも言えぬ苦しさは彼女の側にいられる幸福ゆえなのだと、こはくは立ち上がった彼女を場所も憚らず抱きしめた。慌てる妻の髪から鳴るチリチリとした鈴の音と風に踊る草の音が重なる。彼女の首筋からする微かな汗の香りにこはくは一人、胸を熱くした。
結婚して初めて迎えた残暑の夜の、ほんの一幕である。
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