六話

 軍に籍を置いている以上、また裏の顔を引き受けている以上はこういった仕事が回ってくることも少なくない。

 こはくは内心で大きなため息を吐きながら、それでも表では猪口に口をつけることでそれを押し留めた。ちらりと奥の座敷に視線をやれば、今回上から接待を頼まれた某華族の放蕩息子が芸者と座敷遊びに興じており、緩んだ顔は昼間と大違いで目を背けたくなる。

「旦那はん、どうなさったんえ?」

 不意に自分の近くで酌をしてくれていた芸者が上目遣いでこはくを見た。白粉に隠れた頬はきっと、酒に慣れており大して赤くもないのだろう。けれど彼女は少しばかり酔ったふりをして、客にしなだれかかるのが仕事なのだ。

「なんもあらへん。堪忍な」

 こはくもこはくで、そうして体重を預けてきた芸者の肩をそっと支えるのが仕事の一環である。そうして奥の座敷の人物を酔わせるだけ酔わせて、必要な情報を吐かせるだけ吐かせられれば今回の仕事は終わりなのだ。
 実際、仕事はもう終わっていた。隣でのんびり酒を楽しんでいる男、三毛縞斑があっという間に情報を件の男に吐かせてしまったのだから、もう帰っても差し支えないと言えば、ない。
 けれどここでこの男の機嫌を取っておけば後々で使える。三毛縞もそう思っているようでニコニコしながら酒を楽しんでいるのが彼の答えなのだろう。

「ねぇ、旦那はん。甘いもの好きって、ほんま?」

 甘ったるい声で、芸者が聞いてきた。こはくはそちらに目をやると、彼女はこはくの着物の裾を小さく掴みながら、色気のある視線を向けてくる。話題は可愛らしいのに、その言葉を紡いでくる表情は全く別の話をしているようだった。

「せやねぇ。結構好きな方やな」
「わぁ、そしたら伊福堂の豆大福、食べたことある?」

 豆大福。と、こはくは逡巡する。確かつい3日ほど前、妻が買ってきたものがそうだったはずだ。

「あるで。甘すぎなくて、わしにもちょうどええ味やったね」
「わぁ、えぇなぁ。食べてみたいのに、いつも売り切れとるんよ」
「人気なんやな」
「朝から並んで、ようやく買えるんえ」

 そうだったんか。と、こはくはここで真実を知る。その日随分と妻がはつらつとした笑顔で大福の入った包みを持ってきたかと思ったら、まさかそんなに人気店のものだったとは。そこまで彼女から話を聞いてなかったので、あまり有難がらずに食べてしまった。

「この前妻が買うて来たんやけど、なんやそないに貴重なものやと思わんかったわ。大して有り難がらずに食べてしもうたな」
「そうなん?勿体ないわぁ〜」
「うちとこの妻は甘いもの好きなんや。すぐどっかからなんか買うてくるさかい」
「……へぇ。かわえぇ奥方やねぇ」
「せやな」

 思わず口をついて出たのがあまりにも惚気た言葉だったからか、もう!と言った具合に芸者が拗ねるような仕草をしてきたので、一応こはくはその肩を支えた。既に帰りたい気持ちが勝っているこはくからしたら、妻のことを思い出した時点でこの話題すらどうでもよくなっている。芸者より豆大福、豆大福より妻である。

「ねぇでも旦那はん」
「なんや」
「こういう場所におる時は、奥方の話題はあかんよ」

 そう言われても。と視線を彼女から外し近くで猪口を煽る相棒の三毛縞を見る。目が合うと彼も彼で呆れたような視線を向けてきた。それが同情から来ているのか、こういった場所での禁忌に触れたこはくへの戒めなのかはわからないが、とにかく既にこはくの本心は三毛縞に透けて見えているのだろう。再びちら、と奥の座敷で騒ぐ今回のターゲットを見る。完全に出来上がっており、先程まで座敷遊びに興じていたはずが芸者の膝でほとんど眠るように、それでも大声で笑っていた。

「もうあかんやろ。お送りした方がえぇな」
「そうだなあ。そうしようか」

 不意にこはくは手持ちの懐中時計を見る。時刻は既に日を跨いでおり、街も段々と息を潜める時間になってきた。
 勘定を終えて、ターゲットを車に乗せる。ぶぉん、と発進音を慌しく鳴らした車が遠くなるまで見送ってから、今度はもう一台の車に三毛縞と二人で乗り込んだ。

「今日は騒がせてすまなかったなあ。ありがとう」
「おおきにな。また」
「へぇ。ありがとうございました」

 座敷の主人に礼を言い、車を出してもらう。車内は静かだ。それはいつもの事で、相棒とはいえ三毛縞と沢山会話する事はそうそう無い。

「こはくさん。いくら奥方の方が恋しくても、あれはだめだぞお」

 言われると思った。と、こはくは身を固くする。確かにああいった場で妻を話題に出すのはルール違反である。

「すまん。つい……」
「まぁ別に話題に出してはいけないわけでもないし、こはくさんが妻帯者なのは周知の事実だけどなあ。ああいう場所は一時の夢を買う場所だから、芸者によっては怒ってもおかしくないぞお」

 特に今日選んだ芸者たちは、若くあえて感情を表に出してくる者たちを選んだ。もっと言うと、深い話に干渉してこない者たちをわざと手配した。芸者は後ろ暗い話を酒の席で聞く事が多いぶん、良くも悪くもそういった場に慣れた者たちも多い。しかし今回はあえてそういう者を選ばないよう手配したのだ。その方が相手にも悟られにくい。

 今日呼んだ芸者は、少し特殊な立場のものだ。本来芸しか売らない者を芸者と呼ぶが、彼女たちも時に身体を売る場合がある。芸者全てがそうではないが、三毛縞はわざとそういう芸者を呼んだ。ターゲットがそれを望んだのだから仕方がない。
 だからこそ、いつもとは違う部分で発言を気にする必要があったのだ。面倒な仕事である。

「やっぱり、あんま得意になれへんね。わしは口がぬしはんほどうまくあらへん」
「ははは。それがこはくさんの良いところだからなあ」

 珍しく車内で三毛縞と会話しているうちに、こはくの家に着いた。車を降りると特に挨拶するわけでもなくすぐに発進させる辺りが彼らしいが、それがいつもの対応である。

 今日はあまり上手く立ち回れんかった。と、今更ながら反省しつつ、こはくは玄関の鍵を開けた。妻はもう眠っている事だろうから音をなるべく立てずに引き戸を開けると、ぼんやりと廊下のランプがついた。

「おかえりなさい、こはくさま。遅くまでお疲れさまでございます」
「起きとったんか?」

 妻は寝巻きに羽織を羽織った状態で玄関に出てきた。寝ていたけれど起きてきた、というよりは、ずっと起きて待ってくれていたような姿である。

「あの、はい……」
「寝とってよかったんよ?」
「まだ日も変わったばかりですから。もう寝ようと思っていたところに、ちょうどこはくさまが帰っていらしたんです」

 もちろん嘘であることに、こはくは気づいている。彼女は基本こはくが家にいればもっと早く床につき、寝つきは恐ろしく良い方なのだ。

「堪忍な。もう寝てえぇよ」
「何か召し上がりますか?」
「大丈夫。向こうで食うて来たわ」

 本来は眠くて仕方ないだろうに、必死に起きていてくれたのだろう。きっと居間でうつらうつらしながら時折首を振ったり頬をピタピタ叩いたりして眠気を散らしていたに違いない。そんな健気な姿が容易に想像できて、こはくはつい妻に近づいた。そのまま腕に閉じ込めて抱きしめようとした所だったのに、なんと妻は身を捩って拒否をしたのだ。こはくの頭上に大岩でも落ちて来た気分である。

「い、嫌やった……?」
「いやです」

 先ほどまで微かに残っていた酒気が一気に醒める。まさか拒否をされるなんて思ってもみなかったのだ。すると妻はこはくの着ていた着物の襟元を袖口でハタハタとはたいた。

「白粉、付いてます」
「あ、すまん……」
「お仕事を頑張っていらした証ですものね」

 今日は仕事で座敷に上がることを、妻は勿論知っている。こういった仕事があることも勿論承知済みだ。そこに怒るような狭量な女ではないが、今日はなにやら不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。

「でもこんな所に白粉がつくってことはこはくさまの胸に頬を寄せてたって事でしょう。わかっていていも、見るといやになるんです」
「……」

 妻の指先が、こはくの顎をそっと撫でる。その指は喉を通り、着物の袂をくい、と引っ張った。

「早くこれ脱いで、私だけのこはくさまに戻ってくださいね」

 では先に失礼します。と、妻は踵を返して寝室へと入っていった。こはくはうっかり鼻に手を当てる。あまりにも可愛い嫉妬の仕方に、人の興奮を煽る誘い方に、鼻血が出そうなくらい血が沸騰した。

「ま、まてまて。ぬしはん、ちょいまてや」

 こうなるともう自分を制御するなんて出来ない。こはくが今やるべきことといえば、慌ただしく白粉のついた着物を脱いで寝室で寝ずにこはくを待つ妻の元へと行くことだけである。

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